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2019年7月

2019年7月31日 (水)

気づきの前兆 (2)

(2)試験受け

その彼が言う、「自信が無い。自分が思っていることをハッキリ言うことが出来ない。言われたことしかやらない自分が嫌い。もっとハッキリと自分の考えを言えるようになりたい。」ということに、私は、なぜ?いつ頃からそうなってしまったのかを問います。


しかし、なかなか核心的な話は出て来ません。


「いつ頃から自信が無くなってしまったのかな?」

「子供の頃は、もっと明るくて元気だったんじゃないの?」

「子供の頃は、何をやってるときが好きだった?」

「部活は何をやってた?」

「家族は?」

「兄弟は?」

「家族のことは好き?」


私は何度も色々な角度から彼に問いかけました。

そして、私が問いかける内に彼が次第に話し始めたのです。


「小さい頃からいつも父が母に暴力を振るっていて、それが嫌だったんです」

「中学生の時、父が母に凄い暴力を振るっていて、母を助けようと思って止めに入ったら、それが原因で母が大怪我をして入院してしまったんです」


私は聞きました。

「どんな怪我だったの?」

「そうか、命に関わる様な怪我じゃなくて良かったな」


彼は言います。

「でも、僕が悪いんです」

「僕が止めに入らなければ母が大怪我をすることはなかったんです」


私は更に聞きました。

「本当にそう思うの?」


「はい」


「そうか・・・」

「君は、お母さんのことが大好きなんだな」


「はい」


「君は中学生になって、身体も大きくなって来たから何とかなるんじゃないかと思ったの?」


「はい」


「でも、ダメだった」

「そして、お母さんに大怪我をさせてしまった」


「はい」

「僕が止めに入らなければ、母が怪我をすることはなかったんです」


「本当にそう思うの?」


「はい」


「でも、君が止めに入らなかったら、もっと大きな怪我をしていた可能性もあったんじゃないのかな?」


「いえ、僕が止めに入ったから、母は怪我をしたんです」


「そうか・・・」

「君はずっとそうやって自分を責めてきてたんだなぁ」

「だから、自分から何か言ったり、やったりするのが怖くなっちゃったんじゃないの?」


「そうかも知れません」


「そうか・・・」

「中学生の君は、お母さんを守る為に折角勇気を振り絞って親父に立ち向かったのに、お母さんは大怪我をして入院しちゃったのか・・・」


「はい」


「そうか・・・」

「それは、辛かったなぁ」

「悔しかっただろ?」

「自分のせいで、お母さんがって」

「自分が余計なことをしなければって、ずっと思ってきたんだろ?」


「はい」

(彼は涙を流し始めるのです。そして、私も彼や彼のお母さんの気持ちを考えると涙が溢れてくるのでした。)


「でもさ、俺は思うんだよ」

「もし俺が君のお母さんだったとしたらさ、君のことを恨んだりはしないと思うんだ」

「逆に、大好きな息子が初めて自分を助けようとしてくれたって、嬉しかったと思うよ」

「そして、怪我をしてしまって、ごめんねって、思ってると思うんだよ」

「君が自分自身を責めている姿を見る度に、お母さんも苦しんでるんじゃないかな?」

「私が怪我さえしなければって・・・」

「ごめんねって・・・」

「そう思っていると思うよ」


「小さい頃の君は、今よりもっと明るくて、元気があって、積極的だったんじゃないのかな?」

「それを知っているお母さんは、君が自分を責め続けている限り、君と同じように苦しんでいると思うんだよ」

「折角あの子が勇気を振り絞って私を助けようとしてくれたのに・・・」

「私が怪我をしたばっかりに・・・」

「あの子は何も悪くないのに・・・」

「あの子はただ私を助けようとしただけなのに・・・」

「私はあの子に責任を感じさせてしまっているって、そう思っていると思うんだよ」

「きっとお母さんも、君と同じように自分を責め続けて、苦しんでいると思うんだよ」


「なぁ、もう許してやれよ、自分を」

「お母さんの怪我は、事故だったんだよ」

「しょうがなかったんだよ」

「だって君は、お母さんに怪我をさせようと思って止めに入った訳じゃないだろ?」


「はい」


「ただ、お母さんを守りたかっただけなんだろ?」


「はい」


「お父さんだって、きっと後悔していると思うぞ」

「だって、それからは暴力を振るわなくなったんだろ?」


「はい」


「なら、もういいじゃないか」

「君は、お母さんのことが好きなんだろ?」


「はい」


「なら、もう自分を許してやれ」

「自分を許すってことは、君のお母さん、そしてお父さんも許すことになるんだよ」

「中学生の頃から考えたら、もう15年位苦しんで来たんだろ?」

「もう、自分を責めるのは止めろ、なっ」

(彼は号泣するのです。彼の閉ざされた心が溶けた瞬間でした。私も一緒に泣きました。)


(そして彼の号泣が落ち着くのを見計らって私は言いました。)

「もう、許せるよな、自分を」


「はい」


「そうだ」

「そして、もっと明るく、積極的に、自分の気持ちに素直になって、何でも言える自分になるんだ」

「明るく積極的に生きて、君自身が幸せになることが、お母さんを安心させ、喜ばせることになるんだからな!」

「君自身が幸せになることが、周りを幸せにすることになるんだぞ!」

「わかるよな?」


「はい!」


「自信というのはな、『自分を信じる気持ち』なんだよ」

「普通は、何かを一生懸命やって、成し遂げたり、達成したりして、その実績で自信がついていくんだ」

「でもな、それは全て『過去どれだけ頑張って来たか』っていう根拠にしかならないんだよ」

「過去の根拠は、未来の保証にはならないんだよ」

「だから、根拠のある自信は、その根拠が無くなったとき、簡単に崩れ去ってしまうんだ」

「分かるか?」


「はい」


「じゃあ、『自分を信じる』っていうのは、何を信じるのか?」

「未来なんだよ」

「自分の過去ではなく、自分の未来を信じることなんだよ」

「過去は関係ないんだよ」

「自分の未来を信じて、その未来に向かって、『今』この瞬間から頑張れば、それでいいんだよ!」

「分かるよな?」


「はい!」


「では聞くけど、君は自分の『明るい未来』と『暗い未来』のどちらを信じるんだ?」


「明るい未来です!」


「そうだよな!」


「自分の明るい未来を信じて、それに向かって、今から頑張ればいいんだ!」

「自分の未来を信じる気持ち、それこそが『自信』なんだよ!」


「はい!」


「でもな、明るい未来を信じていても、途中で色々困難なこととか、苦しいこととかは起きるんだよ」

「それでも自分の未来を信じ続けて頑張るんだ!」

「するとな、その信じる気持ちはいつしか『信念』になるんだよ」

「そして、その信念を持ち続けると、それはいつしか『確信』になるんだ!」

「わかるか?」


「はい!」


「そこまで頑張り続けられるか?」


「はい!」


「明るくて積極的な自分になれば、素敵な彼女だって出来る!」

「彼女が出来れば、結婚も出来る!」

「結婚して幸せな家庭を持ちたいんだろ?」


「はい!」


「結婚したら、子どもも出来る!」

「そうしたらご両親に孫の顔を見せられるんだぞ!」

「お母さんもお父さんも、きっと喜んでくれるぞ!」


「はい!!」


「変われるな?」


「はい!!」


「今までの自分とは、おさらばするんだぞ!」

「明るい未来を信じて、幸せな自分になるんだぞ!!」


「はい!」

「絶対に変わります!!」


「よし!」

「俺は君を信じる!」

「絶対に変わるんだぞ!!」


「はい!!」


「約束だぞ!!」


「はい!!!」


「よし!俺は君を信じる!!」

「絶対に変われると信じる!」

「そうしたら、一旦ここで試験は修了するけど、今の話しは俺と話していて出て来た話しだ」

「だから、今話したことと感じた気持ちを、もう一度他の人に、今度は君自身の自分の言葉で、その想いを伝えるんだ」

「いいか、それが出来た時、君のトラウマは、もうトラウマではなくなるんだ」

「そして、誰にでも自分から心を開いて、自分の気持ちを素直に伝えられるようになるんだ!」

「そうすれば、どんな困難なことにも立ち向かっていけるようになるんだ!」


「はい!」


「変わるんだぞ!」

「俺は君なら出来ると信じてるからな!」


「はい!!」


「只今の点数は○○点!」

「一旦戻って点数を書いたら、直ぐに戻って来て、もう一度チャレンジな!」


「はい!」

「ありがとうございました!!」


この彼は、私の中では既に『合格』でした。

しかし、私たちの研修では、最初の合格の時は、あえて合格にはしないのです。

なぜなら、共感共鳴の部分は、その人との相性で、感情を出し易かったり出し難かったりがあるからです。

また、最初の合格レベルは、インストラクターやトレーナーが引き出すことが多く、最後は自分自身の力で『やらせ切る』ことが大切だからです。


彼は、この後の試験で見事合格となったのでした。


しかし、この試験を受けていた時の私は、まさか後日、自分で自分を許すことになるとは考えてもみませんでした。

ただ、彼と彼のお母さんが、どれほど苦しんで来たかを思うと、彼の試験受けの内容は、私の胸に深く刻まれていたのでした。


そして、それから約2ヶ月後、私は一人の女の子との出会いから気づきを与えられ、自分で自分を許すことになるのです。


いつも思っているのですが、研修生は私たちインストラクターやトレーナーにとっては、『鏡』のような存在なのです。

こうして、インストラクターやトレーナー、そしてアシスタントたちも、いつも研修生に気づきを与えて貰っているのです。


気づきとは、その場で気づく気づきもあれば、私の様に後から気づく気づきもあるのです。

そして、気づきにより、人は真の成長をするのではないでしょうか。


私たちの研修は、どちらか一方が何かを教える研修ではないのです。


『双方が気づきを与え合う研修』

それが私たちの研修なのです。


私たちの研修が、『心の研修』、『気づきの研修』といわれる所以です。


『我以外皆我師也』


私の大好きな言葉の一つです。


『気づきの前兆』 (了)

2019年7月29日 (月)

気づきの前兆 (1)

(1)心構え

私がイオンで出会った女の子に与えて貰った気づくきっかけにより、「自分を許す」気持ちになったことで、私の中で多くの変化が生まれて来ました。


しかし、今振り返ってみると、その気づきには前兆があったと思うのでした。

それは、イオンで女の子に出会う2ヶ月前の10月の研修でのことでした。


私がインストラクターを行っている研修は2泊3日の宿泊型の研修です。

月に1回、熱海のホテルで行われているのです。

参加者は、20代から50代の男女が主で、社員研修として企業から参加して来る人と、自己成長のために個人で参加して来る人がいます。


たまに60を超えた方も参加して来られます。

ちなみにうちの社長は75歳!

それも女性です!

めちゃくちゃ元気です。

みんなからは『魔女先生』と呼ばれています。

まさに魔女です。


最近は、20~30代の若い世代の個人での参加が増えており、個人の成長意欲を物凄く感じています。


研修は、初日~2日目までは4つの項目を、インストラクターやトレーナーが試験を受ける側、研修生が試験に挑む側という形で、一対一の対話形式で行います。

そして、ある一定の基準を超えると『合格』となり、各項目をクリアしていって貰います。


しかし、各項目は参加者全員が合格するまで次の項目には行けない決まりになっていますので、先に合格した人は合格出来ていない人を叱咤激励し、そこに協力関係が生まれ、信頼関係が育まれ、性別や年齢に関係なく、本当の絆とは何かを感じ、身をもって知っていくのです。


そして、3日目は2日間で学んだことを『実践』という形で体感し、現実的な行動に落とし込めるようにするのです。


その初日の夕方から夜にかけて行われる2番目の『心構え』という項目でのことです。


この『心構え』という項目は、研修の中で『核』となる項目なのです。

そして、この項目こそが、普通の企業研修には無い、ある意味、企業がやりたくても出来ない部分なのです。


更に言えば、この項目があるからこそ、普通のセミナーやスキルを身に付けるための研修とは違った、独自性のあるものとなっており、どこにも真似の出来ない研修だと、私は思っています。


その『心構え』の試験でのことです。

研修生はある企業から参加してきた30歳の男性でした。

会社の評価は、「素直で謙虚。しかし、向上心と野心に欠ける為か実績が伴わない。目標達成の意欲を持ってもらいたい。」というような内容でした。


この『心構え』という項目では、自分の長所と短所を考えて貰い、自分の嫌な所、直したい所を考え、なぜ、いつからそのような考え方や行動になってしまったのかを考えて貰います。


それは、現在の自分を作り出している過去の自分と向き合って貰うことになるのです。

試験は何回でも、合格するまで色々なインストラクターやトレーナーと繰り返し行われます。


その彼が言うことは、「自信が無い。自分が思っていることをハッキリ言うことが出来ない。言われたことしかやらない自分が嫌い。もっとハッキリと自分の考えを言えるようになりたい。」というようなものでした。

私は、なぜ?いつ頃からそうなってしまったのかを問います。


この問いに対する答えが鍵を握っており、早く見つけられる人と、なかなか見つけられない人と千差万別なのです。

基本的に年齢が高くなるほど、心に被せている鎧は多く、それを脱ぐのに苦労するのです。

かくいう私も相当苦労しました。


そして、その答えは、その人が経て来た経験体験の中で、本人が意識的か無意識的かに関わらず、自ら選択して来たことなのですが、それに気づいていない人が多いのです。


そして、その人の人生が長いか短いかに関わらず、その人が経て来た経験体験はインストラクターやトレーナーが知り得ないことなので、本人にしか見つけられないのです。

ですから、インストラクターやトレーナーが出来るのは、あくまで一緒に探すことであり、研修生が気づくためのきっかけ作りなのです。


そして、その為に大切なことは、『共感共鳴』なのです。


共感共鳴に関していうと、男性に比べ、女性の方が圧倒的に上手だと、私は感じています。

私もそうだったのですが、男性はとかく起こった出来事に注目してしまい、その対処法ばかり考えてしまう傾向にあるように思うのです。


しかし、大切なのは、起こった出来事よりも、その出来事で当人やその人に関係している人たちが何を感じ、どういう気持ちだったのか?という感情を理解することだと思うのです。


私はトレーナー時代、先輩インストラクターに、『人は正そうとするより、分かろうとすることが大切』なんだという話しを聞き、気づかせてもらいました。


そのインストラクターは、私が初めての研修の時の『心構え』で合格を与えてくれた人なのです。


自我とプライドに凝り固まっていた私の『心』を、最初に溶かしてくれ、そして気づかせてくれたのです。


(つづく)

2019年7月27日 (土)

蘇る記憶 (3)

(3)蘇る記憶

帰りの車中、今度は今まで思い出しもしなかった昔のことがやたらと蘇ってきたのです。


自分の記憶には無いのですが、私は3歳の時にバイクに撥ねられ、左右どちらだったか忘れましたが、太ももを複雑骨折し、3ヶ月入院したことがあったのだそうです。

その時親父は、勤めていたタクシー会社を辞めて付きっきりだったという話しを思い出したのです。


若い頃その話を聞いた私は、「そんなんで会社を辞めて、どうすんだよ?!バカじゃねーの?!」と思っていたのでした。

ですが、今の自分が同じ状況になったとしたら、きっと俺も親父と同じようなことをするだろうなと思っている自分がいるのです。


高校へ入学して一ヶ月もしない内に、高校を辞めたいと言った時も、「お前が行きたいと言って行った高校なんだろ。最低一年間は行け。一年間行って気持ちが変わらなかったら好きにしろ」と言われて、一年修了して勝手に退学届を出して辞めて来た時も何も言わなかった親父。


俺が無免許で初めてパクられた時も、警察からの帰り道、怒られるのかと思っていたら、「お前くらいの年頃は、一番警察に目を付けられるんだから気をつけろよ」と、それしか言わなかった親父。


17の時に20歳の女連れて、「これからこいつと一緒に暮らすから」と言いに行った時も、何も言わなかった親父。


2回目の傷害事件で鑑別所に入った時は少年院行きを覚悟していたのに、家庭裁判所の判決直前に裁判官を立たせ、社会の窓が空いていることを指摘して、「人間、誰にでも間違いはあるものです。今回、息子の相手はヤクザ者だった訳ですし、本人も反省していますので、寛大な処分をお願いします。」と言って、少年院行きを保護観察処分に変えさせてしまった親父。


鑑別所を出てから仕事の無い俺を、許認可の世界に引き込んだ親父。

許認可の世界で、出会う親分連中に見込まれてしまい、俺を海外に逃がそうとした親父。


許認可の世界を抜け出し、一人プラプラしていた俺を深大寺公園に呼び出し、警視庁の元警視って人を連れて来て、その人から、「君は右に行きたいのか、左に行きたいのか?」と問われ、その内容を聞くと、ヤクザになるのか警察官になるのかの二択で、どちらでも世話してやると言われ、「俺は右でもなく、左でもなく、真ん中行くよ!」と言って、二人を置き去りにした時の親父。


車を運転しながら、色々なことが蘇ってきたのでした。


そして、良く考えてみると、親父は厳しくて一度も褒めて貰った記憶は無いけれど、一度も否定もされていなかったことにも気づいたのでした。


そして、小学6年生の時は、俺が100点取ってきても、「教えて貰ったことをやっているのだから、100点取るのが当たり前だろ」と言って、全く褒めて貰えなくて、でも俺は褒めて貰いたくて、100点を超える点数を取るにはどうしたら良いかを考えて、ペーパーテストではない、作文とか詩とか、理科の実験レポートとか、絵とかの創造的なもので120点とか、150点とか取れるようになったのに、それでも褒めてくれなかった親父。


でも、もしかしたらそのお陰で、形に囚われず、何か新しいものを見つけたり、始めたりするのが得意になった自分がいるのかも知れないと思うのでした。


いつ頃からなのか定かではないのですが、親父とのことを考えない様にしていた自分に気づいたのでした。

そして、その反動なのか、墓参りの帰路、車中で一人親父とのことを思い出し、親父に語りかけている自分がいたのでした。


そして、意味不明だった『人間界での修業が終わったから、次の世界へ行く』と書かれていた遺書。

「もしかして、『俺のために』とか、『俺の実地体験の運を無くすために』とか、俺のためと書かれていたら、俺はどうしただろうか?」


「俺は、『俺のせいで親父が死んだ』と考えていたかも知れない・・・」

「その場合、俺は耐えられただろうか?」

「耐えられなかったかも知れない・・・」

「そう考えると、もしかして、わざと分からなくする為にああいう内容の遺書だったのか?」

私は、そう考えたのです。


真実は、正直わかりません。

しかし、親父が死んでから27年間、一度もそんな発想はしたことが無く、突然生まれてきた考えなのです。

それは、既に私の心が、そう感じているということなのです。


そして、思ったのです。

「親父は、俺の中で生きている」

「それでいいや」


『蘇る記憶』 (了)

2019年7月25日 (木)

蘇る記憶 (2)

(2)墓参り

「親父の自殺は、俺の為だった・・・」


そんな証拠はどこにもありません。

あるのは、『平成4年7月1日に親父は自殺して死んだ』という事実だけです。


しかし、既に私の心は、そう捉えていたのです。

私の潜在意識が、そう教えているのだと感じたのです。


24日は朝9時頃に出発し、11時頃にはお墓に到着して昼前には墓参りを終え、帰りは少し前に女の子を出産した若い仲間の所にでも寄ってから帰ろうかと考えていました。


途中渋滞したので、そこから帰りに寄れたら寄ろうと考えていた所に連絡をすると、このあと外出してしまい帰りは夕方になってしまうとのことで、夕方は私も買い物に行かなければならず、この日の帰りに寄るのは見送りにしたのでした。

そんなやり取りをずっとラインでしていたのに、渋滞は延々と続き、目的地の多磨霊園に着いたのは12時半近くになっていたのでした。


私は、近くのコンビニで親父が好きだった大福とUCCの甘い缶コーヒーとお茶をお供え物として買いました。

そして、近所の墓石屋で仏花を買い、墓前へと向ったのでした。


墓石を掃除し、花とお供え物を供え、そして線香に火を点けたのでした。

すると、大して風も無いのに線香の炎は大きく燃え上がり、何度吹き消しても燃え上がるのでした。

私は吹き消すのをやめ、しばらく燃え上がる炎を見つめていたのです。


すると、その炎がまるで、「家の中でずっとご主人様の帰りを待っていた犬が、やっとご主人様が帰って来て、喜んで飛びかかって来る姿」のように感じたのでした。


私は、「親父が喜んでくれているんだなぁ」と思ったのです。

そして、手にしていた線香を立て、墓前で手を合わせると、途端に線香の炎は消え、煙がスーッと真っすぐに上がっていくのでした。


「ごめんなぁ。親父の本当の気持ちに気づくまでに27年も掛かっちゃったよ」

「周りは、こんな俺をどう思うかは知らないけれど、これから俺は、親父の自殺の理由の真実は、『俺を守るため』であり、『俺を愛していたから』だって、『それが親父の愛し方』だったんだって、そう信じることにしたよ」


「これまで俺が死なずにやってこられたのは、息子のお陰でもあり、親父のお陰でもあったんだって、やっと気づいたよ」

「ありがとうな」


「それとな、明日、息子の最後の大学入試なんだよ。あいつが望むべき道に行けるように見守ってやってくれな」


私は、そう親父に語りかけ、墓前を後にしたのでした。


(つづく)

2019年7月23日 (火)

蘇る記憶 (1)

(1)親父の愛?!

これまでの人生で最大の気づきを得てからしばらくした2月23日の夜、私は突然あることに気づき、「明日、墓参りに行こう!」と思い立ったのでした。


偶然にもその翌日25日は、息子の本命である最後の大学入試日なのでした。

それまで、4校の合格発表があり、合格していたのは滑り止めの1校のみ。

残すところ、既に試験を終えた1校の発表と25日試験の本命の2校なのでした。


親父の墓参りへは、離婚後は一度も行っていませんでした。

元々、私はその墓に入る気は全く無く、以前から自分が死んだら海に散骨してくれと頼んでいました。

そして、お袋が亡くなったらお墓を手放し、うちの家は無縁仏にしようと思っていました。

息子には一切手が掛からない様にしようと考えていたのです。


そんな状況の中、23日の夜、何故か自分が密教をやらされていた頃(小3~小6)のことを思い出したのです。


親父がいつも私に言っていたのは、「お前には『実地体験の運』がある」と。

そして、その運は、「あらゆることを経験体験していく運で、それを払わないといけない」と言われていたことを。

その為に千座行をやらされていたのを思い出したのです。


そして、気づいたのです。


人間として、絶対にしてはいけない体験とは、もしかして『自分自身の死』、いわゆる『自殺』(人殺し)なのではないかと。


今の私にとっては、『自殺』も『自分』という人間を殺す『人殺し』なのです。

他人を殺すのか、自分を殺すのかの違いはあれど、『人殺し』であることに違いはないと思っています。

自殺者は、「自分殺し」という『殺人者』でもあると思っているのです。


「もしかしたら親父は、それを俺に教える為に自殺したんじゃないのか?」

「もし親父が自殺せず生きていたらどうなっていた?」

「俺はきっと、自殺で残された家族の悲しみとか、苦しみとか、やり切れなさとか、そういう気持ちが分からずに、自殺という道を選択していたかも知れない」

「親父より俺の方が先に死んでいたかも知れない」

そう思ったのです。


私は、若い頃から何故か、命知らずというか、死にたがりというか、『死』というものを美化して捉えていたところがあったのです。


16~18の頃は、本気で、『バイクで死ねたら本望』と考えていました。

中央分離帯のある道路を平気で逆走していました。

集会では、特攻一番機と信号止めを好み、常に突っ込んで行きました。

ですから、当時の仲間内では、多分パクられた数は一番多かったと思います。


ある時親父に言われたのです。

「お前、警視庁では有名らしいな?!」

「なんで?」

「お前が車の免許を取ったから、自動車保険に入ってた方が良いと思って○○さんに頼んだら、どこの保険会社も入れないって断られたんだよ」

「なんで?」

「お前は警視庁管内の全ての警察のブラックリストに載ってるって」

「だからどこの保険会社も受けてくれないって言われたんだよ」

「あっそ」


私が車に乗るようなった時代は、ゼロヨン全盛期の時代でした。

当時、富士スピードウェイで12.01秒の公式記録を持っていた『3.0LフルチューンターボのフェアレディZ』に乗り、まだ首都高と接続されず、柏から水戸までしか開通していなかった常磐自動車道で、230~250Kmで走っていました。


いつからなのかは覚えていませんが、10代終り頃には、『人間は死ぬために生きているのだ』と考えていました。

人間は「オギャー!」と生まれた瞬間から、いつくるか分からない『死』に向かって生きていく。

生まれたとき、『寿命』という時間を与えられ、その時間を使い切ったとき死んでいく。

そして、その『寿命』という時間の残高がどれだけあるのかは、誰も知らない。

だから、全力で生きるしかない。

そして、『俺はどんなに長くても50まで生きられれば十分だ』。

若い頃は、そう考えていたのです。


ですから、ヤクザが相手でも、気にくわなければ平気で喧嘩をしていました。

当時の私は、『死』に対する恐怖は全くありませんでした。

それよりも、如何に『太く短く生きるか』を考えていました。


極道は嫌いでしたが、任侠道は大好きでした。

三島由紀夫のような死に方に憧れのようなものを持っていました。


私の中での理想の死に方は、絶望の中で死んでいく『自殺』ではなく、誰かの為、あるいは何かの為に死んでいく『自決』だったのです。


「親父が病死とか事故死じゃなく、『自殺』っていうことに何か意味があるんじゃないのか?」

「ずっと『自殺』だと思って来たけど、大した借金があった訳じゃないし、遺書の内容からすると、もしかして『自決』なんじゃないのか?!」


「俺はこれまで、息子に自分と同じ思いをさせたくないという気持ちだけで、『自殺』という選択をしないでこれた」

「でもそれは、俺が残された者の悲しみや苦しみ、やり切れなさを知っていたからだ」


「俺はずっと、親父は何かから逃げたんじゃないのかと思っていた」

「でも、もしかしたらそれは間違いで、本当は、俺に残された者の悲しみや苦しみ、やり切れなさとかを教え、『俺に自決の選択をさせないため』、『俺を実地体験の運から守るため』に自殺したんじゃないのか?!」


「それってもしかして、俺を心底愛してたってことなんじゃないのか?!」


23日の夜、私は突然それに気づいてしまったのでした。

そしてその夜、私は「明日、墓参りに行こう」と思ったのです。


(つづく)

2019年7月21日 (日)

人生最大の気づき (11) <最終回>

(11)決意

私は、これまでの私を助け、支えてくれた人たちへの感謝の想いを、言葉だけではなく、今後の行動と結果で現わしていかなければならないと考えています。


そして、私にとってのそれは、まずは、『人を褒めたり、優しくすることが苦手』な私が、優しい人間になるということです。


私は今年の年初から、日立のCMに出てくるような、枝葉を大きく広げた、大きな樹のような人間になることを目標にしています。


それは、多くの人を、強い日差しや、強い雨から守ってあげたり、時には木陰でゆっくりと休ませてあげられるような、『強くて優しい大きな心』を持った人間になる!ということです。

私は、慈しみの心を持った優しい人間になりたいのです。


『強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない』

フィリップ・マーロウの名言。

まさに、そういう人間に私はなりたいのです。


10代の頃から知っている言葉ですが、これまでの私は『強さ』ばかりを追い求めていたのだと思います。

残りの人生では、『優しさ』を素直に表現できる人間を目指していきます。


また、イオンで出会った女の子に気づくきっかけを与えて貰ってからの半年間、私の中では数々の新たな気づきがあり、少しずつ変化が生まれて来ています。


この半年間の中での最大の気づきは、私の『人生の目的』が明確になったことです。


それは、『私が死の時を迎えた時、一切の後悔が無く、満足感を持って、笑って死んでいけるように生きること』と、気づいたのです。


それは、私にとっては、『如何に人生を全うするか』であり、『人生を完全燃焼させるか』なのです。

そしてそれは、『今を、如何に全力で生きるか』ということなのです。

そのために、『今、私が出来ることを一つずつ全力でやっていこう!』という思いなのです。

これまでも、既に日常の中では、その意識を持って行動して来ましたが、新たに思いつき、始めたのがこのブログなのです。


私の中では、今後の方向性や構想の中で、ブログは一つの手段として、以前から考えの中にはありました。

しかし、10年近く前に息子の日記代わりにしか使ったことが無く、まだどのように使ったらいいのかも分からず、ただ綴ることしか出来ない為、『使い方を勉強してから』とか、『誰かにやり方を教わってから』と、自分にやらない言い訳をし、まだまだずっと先のことと考えていたのです。


しかし、6月中旬を過ぎた辺りから何故か急に、「どうなるかは分からないけど、まずはやってみるか!」という気持ちが日に日に強くなって来たのです。


ですから、どのようなものになっていくのかは、正直なところ自分でも分かりません。

ですが、普通の人が通常しないような、私の経験や体験から得た気づきが、誰かの気持ちの理解に繋がったり、支えになったりして、少しでも人様のお役に立てれば良いなと思うのです。


今現在も私を支えてくれている友や仲間たち、そして、早くに亡くなっていった、私の大切な方々へのご恩に報いるためにも、これからは私がして頂いたことを、一人でも多くの人にしてあげられるような人間になっていきたいと思うのです。


私はこのブログに、倫理的、あるいは道徳的な善悪を超えて、一人の人間として、私の『現在・過去・未来』を赤裸々に綴っていってみようと思うのです。


そして、それが私の生きて来た道であり、息子にとっては、『親父が歩んで来た道』の一部を知るきっかけになり、今後彼が歩んで行く道、あるいは偶然にもこのブログを目にして頂いた誰かの歩んで行く道の一助になればとの想いなのです。


今の私に、息子や仲間たちに遺せるような資産は何もありません。

しかし、知識や知恵は生前贈与が出来るんじゃないかな。

そして、言葉は遺せるんじゃないかなと思っているのです。


【言葉の響き】

 同じ言葉でも 響がちがう

 文字にすれば 同じなのに

 なぜ?


 あの人の言葉はちがう

 深さが 高さが 重さが そして美しさが

 なぜ?


 やはり 通ってきた道がちがうから

 苦しんだ重さがちがうから

 悲しんだ深さがちがうから

 努力の量がちがうから


 その人の前に出ると

 自分の生き方が恥ずかしくなる

 情けなくなる

 涙がにじむ


 でも不思議だ

 やる気も湧いてくる

 これからがんばろうと思えるようになる

 己の言葉の響きを磨くとは 自分自身を磨くことだ

(大久保寛司 著「考えてみる」より)


なりたいですね、こういう人に。


『人生最大の気づき』 (了)

2019年7月19日 (金)

人生最大の気づき (10)

(10)感謝

私に気づくきっかけを与えてくれたのは、イオンで出会った女の子でした。

そして、気づいたのは、感じたのは、私自身の『心』なのです。


それは、『私の心がそういう心になるまで、最初の研修に参加してから4年かかった』ということなのです。

そしてこの4年間、一日一日、少しずつですが前に進んで来られたのは、これまで私を助け、支えてくれたみんなのお陰なのです。


独立直後から付き合い始め、良い時の私を知り、そしてダメになっていく私を見ていながら、見捨てずにずっと長く付き合って来てくれている、戦友であり親友のTさんとAさん。


どん底の私に手を差し伸べてくれたKさん。


独立以前からずっと姉のような存在のWさんと、妹のような存在のRさん。


研修へ導いてくれたH社長。


そして、研修トレーナーとして迎え入れてくれ、インストラクターに育ててくれたM社長。


研修をきっかけに新たに出会ってきたインストラクターやトレーナー、アシスタントやスタッフの仲間のみんな。


そして、これまでの研修に研修生として参加してくれ、私と相対し、多くの気づきを与えてくれた研修生のみなさん。


これまで本当にありがとうございました!

私は、みんなのことを家族のように思っています!

そして、みんなのことが大好きです!!


そして、我が息子、○○○!

お前の存在こそが、俺の全てだ!

俺の息子として生まれて来てくれて、本当にありがとう!!


(つづく)

2019年7月15日 (月)

人生最大の気づき (9)

(9)水の如し

イオンで出会った女の子に与えて貰った気づき。

私が自然に自分を許す気持ちになって、分かったことがあるのです。


それは、親父の気持ちです。


「きっと、親父も俺と同じで、俺のことがめちゃくちゃ好きだったんじゃないかなぁ」と。

「俺が16で家を飛び出して、きっと寂しかったんだろうなぁ」と。

「めちゃくちゃ厳しくて、褒めてもらったり、優しくしてもらった記憶が全然なくて、俺自身も人を褒めたり、優しくするのがすごく苦手で、でもきっと、親父も同じだったんじゃないかなぁ」と。

「親父も、自分の親父を中学の頃に亡くしていて、中学を中退させられ、きっと親父自身が、褒められたり、優しくして貰った経験が無くて、優しくしたくてもやり方が分からなくて、出来なかったんじゃないかなぁ」と。


そう思ったら、何か全部許せる気持ちになったのです。

そして私も、実は、「親父のことが大好きだったんだなぁ」と、そう思ったのです。


そうしたら、今まで裏切られたと思っていた人とか、大嫌いで考えない様にしていた人のこととか、全部許せる気持ちになったのです。


なんか、過去の全てがどうでも良くなって、ホント、全てが水に流れた感じになったのです。


あのイオンで出会った女の子が、気付くきっかけを与えてくれたのです。

そして、私が親父の気持ちに気づくまで、27年かかったということなのです。


そのことを、私が親父の気持ちを理解するまでに、「27年もかかってしまった」と思うのか、「27年で理解することができた」と思うのか。


もちろん、現在の私は後者です。


なぜならば、息子と別れ、『寂しさ』という感情を知り、苦しい思いをしなかったならば、きっと私は、一生親父の気持ちが分からないままであったであろうと思うからです。


息子の存在が、私に教えてくれたのです。


そして私の大好きな、ブルース・リーの言葉を思い出したのです。


『人生は水の流れに似ている
    時には不愉快なことが現れ
       心に傷跡を残すが
          全ては水のように流れていく』


(つづく)

2019年7月14日 (日)

人生最大の気づき (8)

(8)思考は現実化する

研修が終わった時は、10年以上続いた長かったトンネルから、一筋の光明が見えた気がしました。

そして研修の後、M社長が「手伝って欲しい」と頼ってくれたことで、私は研修を手伝わせて貰うことになったのです。


研修の後、離婚前は家族で良く遊びに行っていて、私のことを弟の様に思ってくれている人に、離婚したことで連絡が出来ずにいた私は、離婚後初めての連絡をしたのです。


その人は、「○ちゃんは素直で良い子だから、必ずあなたの所に戻って来るから、それを信じなさい。」と、そう言ってくれたのです。

私は、それを信じることにしたのです。


その後はトンネルが長かったせいか、研修トレーナーをしていても、時々元に戻ろうとする自分がいるのです。

そういう自分を見透かされた様に、最初の研修から丁度1年後の10月、私は2回目の研修を受けることになったのです。


2回目の研修では、『失ったものばかりに囚われて、今ある幸せに気付けないでいる自分』に気づかせて貰いました。

それからの私は、『他人と過去は変えられない。自分と未来は変えられる!』ということを信じ続け、今では信念になっています。


そしてその1年後、絶対に戻って来ると信じていた息子が、母親と上手く行かずに私の所へ戻ってきたのです。


正直なところ、『必ず戻って来る!』と信じていましが、それは息子が、社会人になってからとか、結婚してからとかの、もっと先のことと考えていて、『男同士、きっと親父を必要とする時が必ず来る!』と、そういう意味で戻って来ると思っていたのですが・・・。


まさか、また一緒に暮らせるようになるとは考えていなかったので、自分でも驚きだったのです。


まさに、若い頃に学んだ、ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」を身をもって感じたのです。


(つづく)

2019年7月13日 (土)

人生最大の気づき (7)

(7)心の研修

研修初日の私は、完全に舐めてかかっていました。

なぜなら、メイントレーナーこそ40代でしたが私より5つも年下。

更には、M社長と外部企業で社長をしながらインストラクターをやっている人以外のインストラクターやトレーナー、アシスタントなどのスタッフは、全て2~30代ばかりだったのです。


私が不動産業界に入った当初は、ワンルームマンションの投資売の世界でした。

しかし独立後は時代の流れで、不動産業界の中でも特殊な、『不良債権物件』を専門に扱っていました。

住宅ローンの返済が出来なくなった債務者の味方になり、債権者と交渉し担保物件を処分し、債務者が新たな一歩を踏み出せるように支援するようなことをしていました。

債務者の方々には、会うたびに人としての生き方みたいなことを説き、『勇気づけ』を行っていました。

中には、売上が数百億の企業を破綻させてしまった元社長とかもいました。


マンガやドラマで、『夜逃げ屋本舗』というものがありましたが、それに近い世界です。

債権者の中には、消費者金融やシステム金融など、限りなくブラックに近い世界の人たちや、占有屋といった筋の人たち、あるいは外資のハゲタカ、地面師やブローカーなど、そのような人たちと、私は散々渡り合ってきたのです。

不動産の不良債権の世界は、それこそ『魑魅魍魎』の世界なのです。


そのような世界で生きて来た私にとって、2~30代のインストラクターやトレーナーは、子どもにしか思えなかったのです。

しかし、研修を受けている内に、自分が如何にサビ付いていたかを気づかされるのです。

そしていつしか、子どもだと思って舐めていたインストラクターやトレーナー、アシスタントの若い人たちに助けられている自分に気づかされたのです。


そして、研修最終日には、それまで人に弱さを見せたり、助けを求めたりしたことがほとんどなかった私が、山登りのような急な坂道の途中で、ある女性インストラクターから差し出された手を、拒絶せずに素直に握れた自分がいたのです。


普段の私なら、「大丈夫」と言って強がり、拒絶するはずなのに・・・。

そして、そのとき感じたのです。

人の優しさを。

そして、嬉しさを。


そして、思ったのです。

「俺は今まで、人の優しさを受け入れてこなかったんだなぁ・・・」

「その分、相手を傷つけて来ていたのかも知れないなぁ・・・」

「こんなに簡単なことが、今までずっと出来なかったんだなぁ・・・」

「素直になるって、こういうことだったのかぁ・・・」

「素直になると、楽になるんだなぁ・・・」


(つづく)

2019年7月11日 (木)

人生最大の気づき (6)

(6)夜明け前

私がこれまで頑張ってこられたのは、やはり約5年前に受けた研修がきっかけでした。


研修を受ける直前の私は、色んなピンチを凌いできた自分が、まさか息子と別れただけで、こんなにも簡単に自分の心が折れるとは思ってもみませんでした。

何をしていても、四六時中息子のことばかり考えていました。

何かものを見たり聞いたりして、息子との楽しかった思い出にフィードバックすると、手足が震え出して立っていられない状態になっていました。


友人に相談すると、「病院には行かない方が良い。病院に行くと薬を出されて、薬を飲み出したら抜けられなくなるぞ!」と、釘を刺されました。

自分でもヤバイと思い、持病の痛風でお世話になっている先生に相談し、カウンセリングを受けることを考え出していました。


そんな時です、独立前に勤めていた会社のH社長から、研修会社に勤めていたMさんが独立したと聞かされたのです。

そして後日、Mさんから連絡を貰い、十数年振りに会ったら研修を勧められたのです。


研修を勧められた私は当初、「何をいまさら」と思っていたのです。

私は25年位前にH社長とともに、Mさんのいた『T学校』という会社の研修に参加し、一時期は『T学校』でトレーナーをやっていたこともあったのです。

ですから、あまり乗り気にはなりませんでした。


しかし、独立し社長となったM社長から、「T学校の頃とは違い、T学校の頃では出来なかった私の理想を取り入れ、今では進化していて、T学校とは違ったものになっているから」と説明されました。

更には、「あなたがどんなに頑張っても、そんな精神状態から一人で何とかしようなんて無理よ!」と言われました。


M社長は女性なのです。

私が初めてT学校で研修を受けた時、当時は部長だったMさんから合格を貰い、母のように思っていたこともあったからなのかも知れませんが、話しを聞いている内に、「どうせカウンセリングを受けようと思っているのだから、ダメ元でやってみるか」と、受講してみる気になったのです。


(つづく)

2019年7月 9日 (火)

人生最大の気づき (5)

(5)呪縛からの解放

私の親父は自殺なのです。

私が27の時で、バツイチになって半年後のことでした。

親父が53になる少し前です。

私は親父が死んだ後、ずっと、「なんで?!」と、思い続けていたのです。


私の親父はずっと宗教をやっていて、お祈りばかりしている人でした。

私が小学生の頃は、一緒に密教をやらされました。

「千座行」といって、千日間、一日も休むことなく祈り続ける行でした。


毎週のように高尾山の裏口にある修行場に連れて行かれ、親父の滝行が終わるのを一人待たされました。

暇さえあれば密教の道場に連れていかれ、家族旅行なんて一度もしたことはありませんでした。

小学校のテストで100点を取って帰っても、「教えて貰ったことをやっているのだから、100点取るのが当たり前だろ」と、そういう親父でした。


その親父が自殺したのです。

それも、自分の車の中で首を吊ってです。

最初聞いた時は意味が理解できませんでした。

「車の中でどうやって首が吊れるんだ?」と思ったのです。


警察で説明されたのは、車の助手席の窓の上にあるグリップにロープを結び、助手席のヘッドレストの後ろからロープを通し、座席を倒すことで首が絞まるようにしていたとのことでした。

ですから発見時は、助手席で座席を倒して寝ている様な状態だったそうです。


そして、ご丁寧にも車のウィンドガラスに『第一発見者の方へ』と大きく書いた紙を貼り、その紙には管轄警察署の電話番号と、『これは事件や事故ではありません。自殺です。第一発見者の方は警察署へ連絡して下さい。』と書かれていたのです。

そして、警察署長宛ての手紙があり、そこには自分が死んだ後の遺体の処分についての依頼が書かれていたのです。


家族宛ての遺書には、『人間界での修業が終わったから、次の世界に行きます。』と書いてあったのです。

更には、私の知らない内に献体をしていて、死んだ翌朝には大学病院が遺体を引き取りに来ることになっていて、通夜も葬式も何も出来ない状況だったのです。

それが、親父が警察署長へ宛てた手紙の依頼だったのです。


私は、「なんだよそれ?!」、「ふざけんじゃねーよ!」、「なんで?!」って、訳が分からず怒声を上げ、泣き叫びました。


母と妹を帰宅させ、その日の夜は、私一人、親父の棺の横で眠りました。

母方の親族には一切連絡出来ませんでした。

当時は私が勤めていた会社の社長以外、誰にも言えませんでした。


そういう思いを息子にさせちゃいけないって、そう思って頑張って来たのです。

しかし、失敗し、絶望しかける度に、「俺は、親父より長く生きられないのかも知れない」と、何度も思いました。

ですから、一昨年53になった時は、何か呪縛みたいなものから、やっと解放されたような気がしたのです。


(つづく)

2019年7月 7日 (日)

人生最大の気づき (4)

(4)後悔と自責

約6年前に家族を失ったあと、一時期、息子をさらって一緒に死ぬことも考えました。

休日に息子の通う学校を見に行ったりもしました。

しかし時を同じくして、私と同世代の人が離婚後、小学生の息子を誘拐し、焼身自殺を図った事件が起きたのです。

私はそのニュースを見て我に返りました。


そして、少しして韓国で『セウォル号沈没事故』が起こったのです。

多くの高校生が亡くなり、そのニュースを見ていると、訳も分からず涙が流れている自分がいました。

元々情に脆く、涙脆いところはありましたが、事故や災害のニュースを見て涙を流すようなことはなかったのです。

それまでの私は、全てが他人事だったことに気づかされました。

『セウォル号沈没事故』のニュースをきっかけに、全てが自分事のように感じてしまう自分になっていたのです。


「息子は死んだ訳ではなく、ただ会えないだけなのに、何なんだこの感覚は?!」

それまで、大切な方々が亡くなっていく中で悲しい思いは何度もして来ました。

しかし、『寂しい』と感じたことはなかったのです。

だから、最初は分からなかったのです。


小学生の頃からガキ大将的な存在で、群れをなすのが大嫌いで、独りが好きで、常に一匹狼的な生き方をしてきた私にとっては、『寂しさ』というものを、この時初めて感じたのです。


悲しみは一気に来て衝撃は大きいですが、引いて行くのにあまり長くはかからないように思うのです。

しかし、「寂しさ」というのはジワジワ来て、いつまでも続いていくのを50近くになって初めて知ったのです。


そして、私の中の何かが壊れ始めていくのを感じていました。


私は毎日、「何故生きなければいけないのか?」と、考えました。

毎晩寝る前に、「寝ている内に心臓が止まってくれれば良いのに」と、朝、目が覚めないことを願っていました。

一緒に暮らしている母親には、「なんで俺を生んだんだ!」と、責めました。

毎日、「たった一人の人間も幸せに出来ない奴が、生きている資格なんかないんだ!」と、自分を責め続けました。

息子に対しては厳しさばかりで、「なんでもっと優しくしてあげられなかったのだろう?」と、後悔しました。

夜中、車を走らせては息子の名前を叫んでいました。

毎日毎日、死ぬことばかり考えていました。


でも、いつも思いとどまらせてくれたのは、息子の存在だったのです。


何度か書いた遺書も、妻、親、親戚、そして友、更には司法書士の先生、考えられる全ての人に書いたのですが、息子にだけは書けなかったのです。


そして、いつも最後は息子に、「自分と同じ思いをさせてはいけない!」と、ただその一心で思いとどまったのです。


(つづく)

2019年7月 5日 (金)

人生最大の気づき (3)

(3)歩んで来た道

私は、高校を1年修了時に中退し、最初はガテン系の肉体労働からのスタートでした。

初めて貰った4月分の給料で、直ぐに風呂なし6畳ひと間のアパートを借りて家を出ました。

10代の頃はめちゃくちゃでした。

ヤンキーで何度も警察のお世話になりました。

19の時には鑑別所に入りました。


20~22の頃は、住込みで料理のバイトをやりながら地方を転々としていました。

今風に言うと『自分探しの旅』みたいなことです。


ひょんなことから23で不動産業界に入り、29で独立しました。

そして、30代半ば頃には、約6年前に別れた元女房が経理をやり、年商で4億を少し超える位になっていました。

その頃は粗利で4割位ありましたから、個人の会社としては、けっこう儲かっていた方だと思います。


でもそこが、私のこれまでの人生での頂点だったのです。

その後、40少し前からは、沢山の失敗をしてきました。


最初は一番信頼していた人の裏切りでした。

そして、人間不信になりました。

全てのお金を失くし、会社を失くしました。

残ったのは9ケタにのぼる借金でした。


その後、私を支援してくれていた、『大好きで大切な人たち』を、一人、また一人と病気で亡くしていきました。

みんな5~60代で、ガンでした。


当時の私は、年上としか付き合っていませんでした。

ほとんどの人が一回り半から二回り位上の人たちばかりでした。


「なんで俺を騙した奴等はのうのうと生きているのに、俺が大好きな良い人たちばかりが先に死んでいくんだ?!」と思いました。


そして、亡くなっていった方たちの命日が、私の誕生日の前日だったり、前々日だったりしたのです。


「もしかしたら、俺が好きになったから死んじゃったんじゃないのか?」

「もしかしたら俺は、人を好きになってはいけない人間なんじゃないのか?」と思いました。


その間、何度か再起のチャンスがあったのですが、少し上手く行くと一気に勝負に出ては失敗する、その繰り返しでした。


亡くなっていった方たちには、期待に応えられず、申し訳無い気持ちで一杯でした。

何度も絶望しかけました。

何度か遺書も書きました。


それでも家族のためと思って、なんとか頑張って来たのです。

しかし、最後はその家族も失いました。


お金、会社、大切な人たち、そして最後は家族、全てを失ったのです。


(つづく)

2019年7月 3日 (水)

人生最大の気づき (2)

(2)許し

12月9日の夜は、幸せを感じて終わりました。

しかし、その翌日になっても、翌々日になっても、あの女の子のことが頭から離れなかったのです。


女の子に自然に「ありがとう」と言えた自分。

私の「ありがとう」に、笑顔とスキップで応えてくれた女の子のことを考えていると、めちゃくちゃ幸せな気分になっている自分がいるのです。


そして更にその翌日、忘れもしない12月12日です。

私は不意に、「この幸せな感じを忘れちゃいけないなぁ」と思い、女の子のことをノートに書くことにしたのです。

そして、書き始めたら突然涙が溢れて来たのです。

それもボロボロと流れるように出て来たのです。


女の子に無意識で自然に『ありがとう』と言えている自分。

そして、それに笑顔で応えてくれた女の子の笑顔とスキップを思い浮かべると涙が止まらないのです。


もうノートは涙でベチャベチャでした。

しかし、私はティッシュで涙を拭いながら書いたのです。

すると、涙は止まるどころか、更に溢れてくるのです。

知らない内に私のペンは止まっていました。


その時でした、私の中にある想いが溢れて来たんです。


「ゆるそう・・・」

「ぜーんぶ、ゆるそう・・・」


全盛期の頃の自分と比べて、ずっとダメダメだった自分を。

それと、ダメな自分をずっと責め続けてきた自分を。


「全部許そう・・・」


私は、それまでの人生の中で、「自分を許す」なんて考えたこともなかったのです。

常に厳しく、ストイックに、いつも自分を追い込んでいたのです。

自分の前世は修行僧だったのではないかと考えたこともあったくらいです。


不思議なのですが、自然に、私の人生で初めてそう思えたのです。

そのときの私は、それまで感じたことの無い、不思議な感覚に包まれていました。


(つづく)

2019年7月 1日 (月)

人生最大の気づき

「はじめに」

私は昭和39年、東京オリンピックの年に東京は北千住にて生を受けました。

今は横浜のはずれで暮らしています。


そして現在、「絆」をテーマとし、本人の「気づき」により、『やる気、勇気、元気』を引き出し、個人の「生きがい」や「やりがい」を見いだし、『目的を持って豊かな人生を歩んで頂くための研修』を行っている企業のインストラクターとしてお手伝いをしています。


その始まりは、私自身が2014年10月にその研修を受講したことです。


当時の私は、めちゃくちゃ心が病んでいました。

その理由は、その丁度1年前の2013年10月に二度目の離婚をし、家族を失ったからです。

特に息子との別れが大打撃だったのです。

息子が中1のときでした。


息子が小学生の頃は、プロゴルファーを輩出しているゴルフスクールへ通わせ、一緒にラウンドしたり、毎朝一緒にジョギングやウォーキングをしたりしていました。


当時の私は、『巨人の星』に出て来る『星一徹』のような、めちゃくちゃ厳しいスパルタおやじでした。

息子には厳しく接していましたが、息子のことは大好きで、心の中ではいつも「息子と二人だけで暮らせたら良いのになぁ」と、思っていたのです。


(1)きっかけはイオンで出会った女の子

2018年12月9日、日曜日の夜のことです。

私は2~3週間に一度、日曜の夜、近くの『イオン』に食料品の買い出しに行くのです。

その日も夜の9時過ぎに買い物を終え、大型のカートを押しながらエレベーターへ向っていました。

エレベーターの前まで行くと正面の扉が空いていて中に人が見えたので、乗せてくれるのかと思い速足にしたのです。

しかし、無情にも扉は私の目の前で閉まり乗れませんでした。


私は、「しょうがない」と思い、目の前のボタンを押してから少し後ろに下がって、次のエレベーターを待ちました。

その時私は、右端のエレベーターの一段低い所にあるボタンが点いていないことに気づいたのです。

ですがそれを押しに行くのが面倒で、行かずに次のエレベーターが来るのを待っていました。


すると、一人の女の子がそのボタンを押して私の後ろに並んだのです。

私は内心、「気が効く子だな~」と、思ったのです。

良く見るとその子は、小学2年生か3年生位の感じの子でした。


すると、次に来たエレベーターはその子が押したボタンの所のエレベーターだったのです。

私は、「やるじゃん!グッジョブ!」と、心の中でエールを送っていました。

私は先にカートを押して、エレベーターの入口を背にして乗りました。

そして、あとからその子と、その両親が乗って来て、その子はすぐに4Fのボタンを押したのです。

私も同じ階でした。


4Fに着くと女の子の両親が先に下りたのです。

ですから私は、女の子を先に下ろしてあげようと思い、その子が下りるのを待ったのです。

ですが、下りる気配がしないのです。


振り返って見ると、その子は、『開』のボタンを押したまま、目で「どうぞ」と言ってくれたのです。

私は、「ありがとう」と言って、エレベーターの中でカートをUターンさせたのです。


そして、もう一度その子と目が合うと、その子は満面の笑顔で応えてくれたのです。

私は、「可愛い子だな~」と思いながら、エレベーターを先に下りたのです。

するとその子は、今度は笑顔でスキップしながら、私を横目で見て両親の元へ行ったのです。


そのとき思ったのです。

「私のありがとうの一言に、笑顔とスキップで応えてくれたんだなぁ」と。

そうしたら、なんかすっごく、幸せな気分になってきたのです。

そして、「一日の終りにこんなに幸せな気分になれて、俺ってほんとラッキーだなー」と、思ったのです。


そうしたら、その感じが、何かすっごい久し振りのような気がしたのです。

そして、そう感じられる自分が、凄く嬉しくなってきたのです。


すると、『美しいものを、美しいと思える、あなたの心が美しい』という言葉が、ふと浮かんできたのです。

そして、「幸せと思える、俺の心が幸せなんだなぁ~」と、なんか自然に思ったのです。


そうしたら急に、「あぁ、俺、もう大丈夫だぁー」と、すっごく感じたのです。

30代の終わり頃からずーっと続いてきた長かったトンネルから、なんかやっと抜けられたような気がしたのです。


やっと、30代の頃の自分に戻ったと言うか、追いついたと言うか、なんかそんな気がしたのです。


(つづく)

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