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2019年9月

2019年9月29日 (日)

俺の道 ~ 恋愛編 ❤ 第一部 ~ (3)

(3)鏡の法則

8月12日(月)、俺は昨年長女を出産したF夫妻から、研修同期のMとともにBBQに呼ばれていた。


F夫妻は、出産前の昨年5月頃、俺ん家へ俺の手料理を食べに来てくれた。

俺が離婚した後、初めて家に遊びに来てくれた人たちだ。

7月には、横浜でのMとの飲み会に二人を招いた。


俺は、CちゃんがHちゃんを出産した翌日、病院へ駆けつけた。

その時、俺はMを誘ったのだったが、Mは仕事で来られなかった。

Mは年明けに一人で行ったらしい。


多分、俺とMは出産祝いを贈っていたことから、そのお礼の意味もあったのだろうと思う。

そんな状況の中、俺は考えた。


「これから遥ちゃんに連絡して、断られたショック状態で、F夫妻のBBQに行くのはかなり辛いよなぁ・・・」


また、逆に彼女の気持ちも考えた。

そして、思った。


「こういう誘いって、断られる方も辛いけど、断る方はもっと辛いかもなぁ・・・」

「俺みたいなのが誘ったのが、そもそもの間違いだったんじゃないかなぁ・・・」

「でもなぁ・・・」


結局俺は、9日には連絡が出来なかった。

そして、10日になってしまった。


10日になっても俺は悩み続けた。


そして俺は、一度思考を整理しようと、なぜ『鏡の法則』のミュージカルを知ったのかを振り返ってみた。


4月下旬にアドラーの『嫌われる勇気』の続編、『幸せになる勇気』が出ていることを知り、購入してGWに読んだのが始まりだった。


以前、『嫌われる勇気』を読んだ時には、理解は出来ても難しいと感じていた部分が、『幸せになる勇気』を読んでみると、妙に心に染みて来たのだった。


そして、2度読み返し、3度目には書かれている内容を全て自分なりにまとめて書き出したのだった。


すると、以前読んだ『嫌われる勇気』も、もう一度読みたくなったのだった。

そして、『幸せになる勇気』と同様にまとめて書き出したのだ。


以前は、頭では理解できても難しいと感じていた考え方が、自然に自分に落とし込めていることに気づいたのだった。


そして俺は、2度目の離婚後の寂しさの中から抜け出すために読み漁った本を、もう一度全て読んでみようと思ったのだ。


最初に選んだのは、『これでいいと心から思える生き方』という本だった。

以前は、かなり難しいと感じながらも、考え方としては学ぶべきものが多いと思っていた本だ。


読んでみると、これがめちゃくちゃ心に染みて来たのだった。

そして、この本の著者の別の本も読んでみたくなったのだ。

この著者は、他に3冊出していた。

そして、3冊全部読んでみようと思ったのだった。


6月中旬に、『3つの真実』『鏡の法則』を購入した。

そして、まず読んだのが、『3つの真実』。

これもめちゃくちゃ心に響いてきた。


そして、次に『鏡の法則』を読んだ。


ここに描かれていた内容は、ストーリーこそ違うが、まさに俺がイオンで女の子に出会ってから今年前半に気づいてきたことがそのまま書かれていた。


心に響いて来たどころではなかった・・・。

号泣だった。


遥ちゃんにも読んで欲しいと思った。


7月中旬、最後に『心眼力』を購入して読んだ。

そして、その本の始めの方に、自分の人生に影響を与えてくれた本を人にプレゼントすることの良さが書かれていた。


俺は直ぐ、家族の事で悩んでいた親友Tのことが頭に思い浮かんだ。

そして数日後、『鏡の法則』を彼に贈った。

Tから、読んだ感想がLINEで送られて来た。

俺と同じく号泣だったらしい。

それも電車の中とカフェという外で・・・。


『心眼力』は、『鏡の法則』と『3つの真実』をまとめ上げたような本だった。

そして、『これでいいと心から思える生き方』は、『心眼力』をより深めるための内容と言えた。


俺は、この著者の本を結果的には、新しいものから遡っていく形で、逆の流れで読んだのだった。


そして、『鏡の法則』は、ページ数が少ないのに、心への響き方が半端じゃなかった。


俺は、Tの娘Lちゃんのミュージカルに付き合ってくれることになった遥ちゃんとSちゃんの二人に、この本を付き合ってくれたお礼にプレゼントすることにした。


そして、7月28日(日)、俺はLちゃんのミュージカルに行った。


初めての子どもミュージカルは予想外に感動させられた。

そして、『Lちゃん』という子の将来的可能性を凄く感じた。


俺はこの日のことをBLOGに書くことにしたのだ。


そして書き終わると、ふと二人にプレゼントした『鏡の法則』を、何故か早く読んで貰いたいと思った。


更には、二人の仲間や友だちで、回し読みをして欲しいと思った。

『鏡の法則』を一人でも多くの人に読んで貰いたいと思ったのだ。

そのことを俺は、二人にLINEでお願いした。


数日後、俺は『心眼力』の2回目を読み終えた。

そして、本に音声のダウンロードファイルが付属していて、それをまだやっていなかったことに気づいたのだ。


8月4日(日)、俺は『心眼力』の音声ファイルをダウンロードしようと、サンマーク出版社のHPを探した。

そこで、『鏡の法則』のミュージカルがあることを知ったのだった。


俺は思った。


「えっ~!?」

「鏡の法則のミュージカルがあるんだぁ!」

「また、遥ちゃんと観に行きたいなぁ・・・」

「今度は二人で・・・」

「でも、二人じゃ無理だろうなぁ・・・」


俺は一応HPからリンクされていたチケットセンターの情報を確認した。

完売だった。


「やっぱりなぁ・・・」


そして、内心、少しほっとしている自分もいた。


行きたくても、完売だから行けない。

完売だから、誘えない。

誘わなければ、断られない。


そう考えているもう一人の俺がいた。


純粋に、遥ちゃんと二人で観に行きたいと思っていた俺がいたはずなのに・・・。


俺は翌日、遥ちゃんにLINEした。


既に遥ちゃんが、『鏡の法則』を読んだかどうかは分からなかった。

しかし、『鏡の法則』のミュージカルがあること、そしてチケットが完売だったことを知らせた。


すると、遥ちゃんから思いがけない返信が来た。


「ミュージカル行きたい!」

俺は、単純にその思いを叶えてあげたいと思った。

そうしたら、思い出した。


昔、浅田美代子のファンで会いたがっていた人のことを。

俺は、その思いを叶えてあげたいと思った。


そして、『さんまのからくりテレビ』の番組収録チケットを、抽選ではなく、俺の方法論で部下にゲットさせてプレゼントしたことを。


俺は、遥ちゃんの望みを叶えてあげたいと強く思った。


俺は、遥ちゃんにチケットが取れたら行くかを確認した。

しかし答えは、仕事の状況で予定を立てるのが難しいとのことだった。


俺は思った。


「ダメ元でやってみよう!」

「取れたらラッキーじゃない!」

「俺自身が行きたいんだから、もし取れても遥ちゃんが行けなかったら、別に誰か誘えば良いじゃん!」


その時、俺の脳裏に浮かんだのは親友のTだった。

しかし、何か嫌だった。


「ミュージカルに男二人って・・・」

「それもおっさん二人って・・・」


俺はそれ以上考えたくなかった。

そして、思った。


「その時のことは、取れてから考えれば良いや・・・」


そして8月9日の夕方、俺は主宰者に連絡してみようと思った。

主宰者のHPを探した。

すると主宰者のHPからもチケットセンターへのリンクがあった。

俺は何気なくクリックしてみた。


「あれっ?」


俺は思った。


出版社のHPから行ったチケットセンターと同じチケットセンターだったが、そっちは完売になっていなかったのだ。


俺は不思議に思った。

そして、主宰者の前にチケットセンターに聞いて見ようと思った。


最初はメールでの問い合わせを考えた。

しかし、丁度お盆休みになり、回答は16日以降になると表示されていてやめた。

それでは遅いと思った。


こういうのは、思った時が吉日なのだ。

電話をしようとしたが、なかなか電話番号が見つからなかった。

何とか電話番号を見つけて連絡した。


すると、あっけなく、自由席は日曜日の1公演を除き、まだほとんど取れるとのことだった。


俺は不思議に思い、出版社から行ったHPが完売になっていたのは何故なのかを聞いた。

するとオペレーターでは分からないらしく、上司らしい男性に代わった。


完売になっていたのは先行予約の指定席で、俺がHPを見た時が、丁度先行予約から一般販売に切り替わるタイミングだったと判明した。


俺は嬉しくなった。


しかし反面、誘わなければならなくなった。

誘えば断られるかも知れない。


そこには、ビビっている俺がいた。

さっきまでは、「遥ちゃんの望みを叶えてあげたい!」と思っていたのに・・・。

そして、チケットが取れることが分かったら、今度は・・・。


俺は、完全に羊になっていた・・・。

考えれば考えるほどネガティブになっていく俺がいた。


「最悪はTと・・・」


そう考えたが、逆にそれだけは避けたかった・・・。

また、嫌な想像をしてしまう俺が出て来た・・・。


『思考は現実化する』

その言葉が思い浮かんだ・・・。


俺はそれ以上考えるのを止めた。

そして取りあえずの結論を出した。


BBQはBBQで楽しむことにした。

連絡はBBQが終わってからすることにしたのだった。


(つづく)

2019年9月27日 (金)

俺の道 ~ 恋愛編 ❤ 第一部 ~ (2)

(2)羊のコンプレックス

俺はバツ2だ。

女性とはそれなりに付き合って来た。


初めて同棲したのは、18になる少し前、2コ上の女子大生だった。

彼女は母子家庭に育った子だった。

一応、俺の親にも会わせた。


同棲を始め、半年もすると結婚を求められた。

しかし俺は、10代で結婚なんて自由を奪われる様で嫌だった。

俺は言った。


「ハタチになっても一緒に居られたら良いよ」


そして、俺が19になる頃、彼女は突然居なくなった。

俺の名前で沢山のローンを組んで・・・。


その後、何人かと短期では付きあった。

そして、26になる直前、その1年ほど前から知っていた子にいきなり告られた。

それも付き合うではなく、結婚してと。


俺が時々飲みに行っていた店のチ―ママをやっていた。

その子は、俺が飲みに行くと必ずプリンセスプリンセスの『M』を歌っていた。

Mは俺の頭文字だ。

しかし、俺は彼女の気持ちには全然気が付かなかった。


当時はフリーだったことから、俺は彼女を受け入れた。

当時の俺は、すらっとしたスレンダーな和服が似合うような大人っぽい女性が好きだった。


しかし、彼女は俺の好みのタイプとは違い、上野樹里を優しくした感じの目がクリッとした可愛良い顔立ちで、身長150cm、体重50kg弱の小柄な子だった。


見た目とは違い、脱いだら凄かった。

トランジスタグラマーだった。

肌が綺麗な子だった。

左股関節の腰骨の所に小さなバラのタトゥーがあった。

俺は、彼女の過去には一切触れなかった。


知っていたのは、北海道出身でおじいさんかおばあさんのどちらかがロシア人で、彼女はクォーターということだけだった。

瞳の色が綺麗な薄い茶色だった。

お父さんはいなく、母子家庭で育ったようだった。

俺は、お母さんとは一度も会ったことが無く、電話で一度話しただけだった。


性格はサッパリしていて、いつも、「はれたろさん、はれたろさん❤」と走り寄って来る子犬のような感じの子だった。

実際、彼女はシーズーを飼っていて、ソックリだった。


当時の俺は、東中野駅東口徒歩3分、家賃35万の2LDKに独り暮らしだった。

彼女は北新宿のマンションに独り暮らしで、俺の家から歩いて10分も離れていなかった。

直ぐに同棲を始め、付き合い始めて3ヶ月後、俺たちは入籍した。

俺の2つ下で、『紀子さま』と同じ誕生日の子だった。

当時の俺は、年上が好きで、年下と付き合うのは初めてだった。


入籍して直ぐ、俺は人材育成を目的とした研修会社のT学校の海外研修に選抜され、1ヶ月半海外へ行った。

入籍したばかりの妻を一人残して。


そして帰国後直ぐに、妻には一切相談せず、それまで勤めていた不動産会社を辞め、T学校へ転職した。


当時、勤めていた不動産会社での俺の月給は200万円を超えていた。

時代はバブルだった。

会社は10人程度の会社で、年商23億程だった。

その半分以上が俺個人の売上だった。


同僚からは、なんでそんな簡単に月200万を捨てられるのだと言われた。

何度も考え直せと言われた。

しかし、俺の気持ちは変わらなかった。


なぜなら、その会社の社長のKことが人間的に大嫌いだったのだ。

金持ちの客には猫なで声ですり寄り、その癖社員には厳しく、嘘が多い奴だった。

大の女好きで、あそこには真珠を入れ、帽子や財布、鞄など、自分の金目の持ち物を全て女に預ける形でいつも女を口説き落としていた。

K社長のやり口は、まるでホストそのものだった。

そして、資産家の奥さんもそのやり口で落とし、逆玉だったのだ。


俺は、会社の創業メンバー4人の内の一人だった。

社長のKのことは、最初から生理的に嫌いな奴だったが、H専務が間にいる間は我慢が出来ていた。

しかし、H専務が辞めた後、俺は耐えられなくなったのだ。


元々は、H専務が社長で、俺がそれについて行く形で独立するはずだったのだが、それを知ったK社長とYが、後から加わって来たのだった。

独立前の会社での役職では、K社長とH専務が同じ課長だったことから、単にH専務よりK社長の方が年上だったことを理由にKが社長になったのだった。


俺はH専務に、社長はKに譲ったとしても、株式は51%以上持つように進言したが、結果は折半だった。

そして、業績が上がり、権力争いになり、H専務が辞めて行ったのだった。


当時、社員研修でお世話になっていたT学校の校長に相談に行くと、俺は海外研修への参加を勧められたのだった。

そこに答えがあると・・・。


そして、海外研修から帰国した翌日、俺は辞表を提出したのだ。

T学校の給与は、固定給20万円+歩合給と一気に10分の1以下になった。

更には、T学校に転職してから直ぐに、T学校校長の家への居候を3ヶ月間命じられたのだった。


俺は11月に入籍した数日後、1ヶ月半海外へ行き、年末年始の半月ほどは一緒にいたが、また直ぐに居候生活で彼女を一人にしたのだった。


そして、入籍した翌年の12月31日、俺は別れる決断をして別れた。

結婚してと言われて入籍し、別れて欲しいと言われて別れた。


入籍した時、俺はまだあまり本気ではなかった。

しかし、別れた頃は、こっちが本気になっていた。


考えに考えた末、彼女の幸せを願い、決断し、別れた。

その時の俺は、「結婚は二度としない」と思った。


俺が27の時だ。

最初のバツだった。


別れた後、女友だちのHから、別れる3~4ヶ月前に元妻が妊娠し流れていた可能性があることを聞かされた。


しかし、その時はもうどうすることも出来なかった。

ただ、彼女が別れを切り出して来た頃と時期は重なっていた。


その後、しばらくは独りだった。

そして、何人かと付き合ったが、みんな数ヶ月程度の短期だった。


最初は成行きで付き合い、俺が独り暮らしだから、みんな直ぐに半同棲みたいになった。

しかし、誰とも本気にはなれなかった。

夢を追っている俺は、直ぐに面倒臭くなった。


俺は、全て相手から来たものを『来るもの拒まず、去るもの追わず』の精神で対応して来ただけだった。


俺が好きになる前に、先に男女の関係になっていた。

自分から本気で好きになり告白したのは、中3の初恋の時、一回だけだ。


その彼女は多分、学年では一番人気だったのではないかと思う。

女子の中では背が高い方で、小顔のおかっぱ頭の色白で、スリムな和風美人だった。

家は裕福で、生徒会の副会長をやり、女子テニス部の副部長、足も速く運動会ではいつも学年2位、成績はオール5だった。

いわゆる『高嶺の花』だ。

誰も手を出せなかった。


俺が中2の時、彼女は同じクラスで俺の後ろの席だった。

俺はいつも後ろを向いて、彼女としゃべってばかりだった。

その頃は、単に気が合うなと思っていただけで、全く自分の気持ちに気づいていなかった。


3年になりクラスが別れた。

少しして、俺は彼女が近くにいなくなった事で、好きだったのだと気づいた。

そして、告白した。


驚いたことにO.Kだった。

しかし、付き合ったと言っても、やったことは、部活を終えてから二人で一緒に帰っただけだった。

そして俺は、彼女との帰り道は、緊張しっぱなしで、いつも何も話せなくなっていた。

2年の時は、あんなに毎日一緒にしゃべって楽しかったのに・・・。


彼女とは、二人だけでデートをしたことも無ければ、手をつないだこともなかった。

そして、夏休み明け、彼女から受験勉強に集中したいからと別れを告げられた。

今思えば、俺はこの頃から既に女性に対しては、羊だったのだ・・・。


彼女は、三鷹にある、『国際基督教大学付属高校』へ進学した。

後から聞いた話だが、彼女は一世を風靡したアナウンサー『●米宏』の姪っ子だったらしい。


それ以降、俺は自分から先に本気で女性を好きになったことはなかった。

だから、ちゃんとしたデートをしたことは一度もない。


腕を相手から組まれたことはあっても、自分から差し出したことはない。

更には、肩を組んだり、手をつないで歩いたことなんかは一度もない。


街で手をつないで歩いている若いカップルを見ると羨ましくなる。

でも、恥ずかしくて俺には出来ないと思ってしまう。


昔からそうだ。

俺は、容姿に関するコンプレックスがめちゃくちゃ大きいのだ。


特に顔。

いかついゴリラ系の強面が・・・。

しかし、これだけは替えたいと思っても替えられない。


昔から老けて見られた。

10代の頃、既に30位に見られていた。

そして、初対面の人はほとんどが怖がる。

俺はそんなつもりはないのだが・・・。


いつ頃からだったのだろう・・・?

小学生の高学年か、中学1~2年くらいからか?

いつしか、そんなに怖がるなら、こっちから怖がらせてやれと、最初から睨んでいるようになった・・・。


剣道をやっていたせいか、俺の眼光は鋭かった。

視線を外したら負けだと思っていた。

本当はそうしたかった訳ではなかったのだが・・・。


本当は優しくしたかったのだ・・・。

なぜか知らない内に逆になっていた・・・。

それが普通になっていた・・・。


ホント、そうしたかった訳ではなかったのだが・・・。


でも、小さい子と動物だけは違った。

俺を見た目で判断しなかった。

だから一緒に遊べた。

優しくもなれた。

好きになってもくれた。


だから、俺は小さい子と動物が大好きなのだ。

しかし、どうしても人間は苦手だった・・・。

本当の俺は、弱い人間なのだった・・・。


俺は、俺を見た目で判断しない人としか付き合えなかった。


俺は、初対面で俺のことを怖がっているなと感じた相手には、一切心を開かなかったのだ。

その癖、自分のことは棚にあげ、俺はめちゃくちゃ面食いなのだった。


そう考えると、息子には悪いが、付き合って来た女性は、息子の母親以外、全て『美女と野獣』だったように思う。


そして、恋愛に関しては中学生レベル・・・。

いや、今の中学生は進んでいるから、それ以下かも知れない。


54にもなって・・・。

本当の恋愛経験は、ほぼゼロに等しかったのだった・・・。


まさに、『ゴリラの皮を被った羊』なのだった。


(つづく)

2019年9月25日 (水)

俺の道 ~ 恋愛編 ❤ 第一部 ~ (1)

(1)ゴリラの皮を被った羊

Dear 遥さん・・・。

2019年8月14日14時、俺は一人の女性に手紙を書き始めた。

それも、いつもは『遥ちゃん』と言っているのに、『遥さん』と、初めてのさん付けだった。

この時の俺は、彼女に対して申し訳無い気持ちで一杯だった。

理由は、前日のLINEにあった。

俺は、そのLINEを送るのに、めちゃくちゃ悩んだ。


「まず、断られるだろうなぁ・・・」

「でも、俺から誘ったんだしなぁ・・・」

「取れなかったことにしちゃおうかなぁ・・・」

「でも観たいしなぁ・・・」

「遥ちゃんも観たいって言っていたしなぁ・・・」

「どうすっかなぁ・・・」


俺はこの日、朝からずっと悩み続けていた。

堂々巡りだった。


すると、昼過ぎに突然閃いた。


「そうだ、コーチに言えば良いんだ!」


俺は、少し前から彼女に恋愛のコーチを頼んでいたのだった。

俺は彼女にLINEを送った。

いつもの『遥ちゃん』にではなく、『コーチ』に。

生徒的な言葉遣いで。


そして、既に完売で取れないと思っていた、『鏡の法則』のミュージカルチケットが、まだ自由席なら取れることを伝えた。


更に、もし行けるのなら、週末の昼公演にすれば、その後、俺の行き付けだった麻布十番の蕎麦屋で軽く一杯出来ることも併せて伝えた。

俺は、相談したいこともあったのだった・・・。


この5年間、ずっと誰かに相談したいと思いながら、出来なかったことを。

もしかしたら、彼女にだったら相談出来るのではないか?

そう思ってもいたのであった。

すると、いつもは直ぐに返信が来ない彼女から、直ぐに返信が来た。

俺は驚いた。


「なんでこんなに早いんだ?」


俺は直ぐに見ることが出来なかった。


「お断りかぁ・・・」


俺は思った。


普段口ではポジティブなことばかり言っている俺だが、こと恋愛に関してはかなりネガティブだった。

なぜなのか自分でも良く分からない。


アドラー的に言えば、『勇気がない』のだろう・・・。

そして、これこそが人生最大の課題なのだ。

『愛のタスク』・・・。


俺は思った。


「難し過ぎる・・・」


しかし、逃げる訳にはいかなかった。


でも、俺は怖かった。

彼女に断られるのが怖かったのだ・・・。


そして、断られた時のダメージを最小限にするために、LINEは『遥ちゃん』にではなく、『コーチ』に送ったのだった。


それも実際には、9日(金)の夕方に電話でまだ自由席なら取れることを確認していたのに・・・。


俺は、直ぐに伝えられなかったのだ。

そして、連休明けの13日(火)に、やっとの思いで伝えたのだった。

いつもなら、確認したら喜び勇んで直ぐに伝えるはずなのに・・・。

俺は自分で誘ったにも関わらず、内心では、まず断られるだろうなと思っていたのだ。


「いくら観たいものでも、俺みたいなおっさんと二人じゃなぁ・・・」

「若いイケメンとならともかく・・・」

「俺とじゃなぁ・・・」

「嫌だろうなぁ・・・」


そう思っていた。


俺は見た目のいかつさや女性経験とは逆で、恋愛に関しては全くのど素人だった。

『羊の皮を被った狼』ではなく、『狼の皮を被った羊』なのであった。


いや、狼みたいにカッコ良くない・・・。

『ゴリラの皮を被った羊』なのだった。


(つづく)

2019年9月23日 (月)

俺の道 ~小学生編~ (11) <最終回>

(11)自由への第一歩

俺は、中町に引越して直ぐの4年生から6年生までの3年間、当時親父がやっていた『密教』に入信させられた。

確か教祖は、桐山どうざんとかいっていたような気がする。

そして、『千座行』をやらされた。


始めた頃は、両親ともに毎日やっていたことだったので、特別嫌なことではなかった。

しかし、5年生位になって、俺は周りの友だちでそんなことをしている奴が誰もいないことに気づき始めた。

自分だけが変なことをやらされているように感じたのだった。


その頃は夏休みや冬休みといった休みになると、友だちからは色々なところに家族旅行に行ったことを聞かされた。

俺はみんなが羨ましかった・・・。


俺が連れて行かれた場所は、高尾山の修行場か、密教の道場ばかりだった。


高尾山の修行場で親父毎週のように滝行をやっていた。

俺はそれを見ながらジッと待たされた。

修行場に俺の様な子どもは一人もいなかった。


周りの大人たちからは、こんなに小さいのに偉いねと褒められた。

しかし、俺は全然嬉しくなかった。


親父の滝行が終わった後、何度か裏から頂上まで登った。

裏の登山道はけもの道のような道だった。


頂上に着くと一気に視界が開け、多くの登山客がいて華やかな世界だった。

それまで登って来た裏口とは別世界だった。


その後、頂上からはケーブルカーで下りた。


俺は裏口からは何度か登らされたが、表からケーブルカーで登ったことは一度も無かった。


年末年始の大晦日には密教の道場で護摩焚きがあった。


沢山の人がすし詰め状態だった。


俺はそこでずっと正座をさせられ、親父と共に一晩中お祈りをやらされた。


いつしか嫌で嫌でしょうがなくなっていた。


辞めたくて何度もそれを親父に言った。

しかし、聞いてはくれなかった。


やることは1日に1回、般若心経を始めとした3つのお経を唱えるだけだ。

時間にしたら10分か15分位。

しかし、とにかく毎日欠かさずにやるのが苦痛だった。


その頃の俺は毎晩寝る前、両親に確認してから寝るのが習慣になっていた。


「今日やったよね?」


3年間も毎日欠かさずに続けていると、その間に不思議な体験は何度かあった。


その最もたるものが、ある夢だった。

それは、千座行を開始して700日目位のことだった。


俺は夢の中で、最初は遠くに何か大きな銅像みたいなものが見えたのだった。


俺は、何かと思い歩いて近づいていった。

そして、見える位置まで来ると、それは大きなお釈迦様みたいな仏像だった。

少しうつむき加減で優しい女性のような顔に見えた。


更に俺が近づいて行くと、その仏像の足元に一人の男の子が正座していた。

男の子はうつむき、何かお祈りでもしているような感じだった。


私は、何をしているのかと思い、更に近づいた。

そして、その男の子の背後からその子の肩を叩いた。


その子が振り向いた瞬間、俺はギョッとした。

男の子の顔は俺だった。


俺はハッとして目を覚ました。

時計を見ると12時15分位前だった。


俺は2段ベッドの上から飛び降りた。

まだ明りの点いていた居間のふすまを開けた。

そして聞いた。


「今日やったよね?」


母は考え、そして言った。


「やってないかも・・・」


俺は、今見た夢の話しをした。


すると親父に言われた。


「それは神様が起こしてくれたんだよ」


俺はそれからその日のお経を上げたのだった。


俺は、『やり忘れ』の山を乗り越えた。


すると、それまでの気持ちは直ぐにでも辞めたかったのが、何としても千座を達成したくなったのだった。


俺はその時心に決めた。


「絶対千座達成して、辞めてやる!」


次の山は6年生の時の修学旅行だった。


実は親父も千座を達成するのに1度では出来ていなかった。

3度目でやっと達成していたのだった。


当時の親父は言っていた。


「千座が近づいて来ると、何らかの形で出来ない状況になって、達成を阻まれるんだ」。


その最もたるものが、会社の社員旅行だと俺は聞かされていた。


そして、修学旅行の日は来た。


修学旅行は、二泊三日で日光だった。

当時は『華厳の滝』の心霊写真をTVで良くやっていた。

日光は心霊スポットだった。


修学旅行の初日は出かける前に既に終わらせていた。

三日目は帰ってからやれば良かった。


問題は二日目だった。


二日目の夜、俺はみんなが寝静まるのを待った。

みんなが寝静まった頃、俺は持って行ったお経と数珠と袈裟をリュックから出した。

それらを隠し持って俺はトイレに行った。

そして、トイレの中で小さな声でお経をあげたのだった。


この時は、本当に嫌な気分だった。


「俺は何でこんなことをしなきゃいけないんだ・・・」


俺は思った。


旅行の山を越え、残り100日位になった頃、俺は親父に言った。


「千座を達成したら辞めたい!」

「絶対辞める!!」


「わかった」

「必ず千座をやり抜け」


親父は了承してくれた。


俺は千座を達成した。


何月何日に終えたのかは憶えていない。


しかし、間違いがあってはいけないと1ヶ月ほど長くやった。


そして、卒業式の前に俺は密教を辞めた。

当時、小学生で千座行を達成した人がいたのかどうかは知らない。


でも、やっている子ども自体が少なかった。

達成していたとしても極僅かだろう。


千座を達成した時は、親父が褒めてくれるんじゃないかと少し期待した。

しかし、それは甘かった。


親父は褒めてくれないどころか、先に両親が千座を達成し、お前の業を薄めているからお前は1回で達成出来たんだと言われた。


俺は悔しかった。


俺は宗教が大嫌いになった。


「もう絶対に宗教はやらない!」


俺は今でも宗教は好きになれない。


神を信じるか信じないかとか、霊の存在を信じるか信じないかとかではない。

宗教団体に入り、それさえやっていれば幸せになれるみたいな考え方が嫌なのだ。

やっている人を否定する気持ちはない。


祈りや願い自体は決して悪いものではない。

逆に人間にとって大切なことだと思う。


ただ、祈りや願いは、それが利己的な方向に向いているのか、利他的な方向に向いているのか、その方向性が重要だと思っている。


今振り返ると、俺にとっての最初の自由への第一歩が、千座行からの解放だったのかも知れない。


そして小学校の卒業式を終えた俺は、春休みの間中、自宅の向いにあった空き地の松の木に、拾って来た車のタイヤを縛りつけ、毎日それを蹴っていた。


ある日、それを見て不思議に思った同級生が聞いて来た。


「何してるの?」


「見てわかんねーのかよ!」

「タイヤ蹴ってんだよ!!」


「何で?」


「中学に行ったら、強い奴らが一杯いるだろ?!」

「だから鍛えてんだよ!」

「お前たちに何かあったら俺が守るんだよ!」


俺はそういう子どもだったのだ。


『俺の道』 ~小学生編~ (完)


(『俺の道』 ~中高生編~ につづく)

2019年9月21日 (土)

俺の道 ~小学生編~ (10)

(10)幻の中学受験

6年生の2学期になると、クラスの中で中学受験の話しが出始めていた。


5年生まではほとんど勉強していなかった俺だったが、6年生から急にやり出し、2学期になった頃には、それまで『頭が良い』とされている裕福な家庭の子どもたちに俺は楽勝で追いついていた。


ペーパーテストの100点の数では既に抜いていた。


話しを聞いていると、中学受験をするほとんどの奴が『W実業付属中学』だった。


俺はそれまで全く中学受験に関しては興味が無かった。

興味が無かったというより、考えたこともなかった。


しかし、話しを聞き俺は思った。


「こいつらが行けるんだったら、俺でも行けんじゃねーの?」


俺は帰宅してから親父に言った。


「俺もW実業を受験してしてみたい」


親父の回答はにべもなかった。


「男は公立で良い!」


俺はそれ以上何も言え無かった。


俺自身もW実業付属中学がどういう学校かも知らず、本気で行きたい訳ではなかった。

ただ、以前は俺より成績の良かった奴らがみんな受験することに対して、負けたくなかっただけだったのだ。


俺はあっさり諦めて、その後は受験のことは一切考えなかった。


その後俺は受験することなく地元の公立中学へ通った。


そして、卒業翌年のF先生からの年賀状には、俺の6年3学期の平均点が94.4点で、学年で一番だったと書かれていた。


俺は、凄く嬉しかった。

しかし反面、受験出来なかったことにもがっかりした。


もしあの時、親父がうちにはお金が無いから仮に合格しても私立に通わせることは出来ないと正直に話してくれ、その上で、力試しに受験だけでもさせてくれていたら、俺にも違った人生があったのかも知れないと考えたりしたこともあった。


そして俺にも息子が出来て、俺は親父を反面教師にした。

親としてのプライドを捨て、息子に可能な範囲で正直に話し、出来るだけの応援をする親父になろうと思ってやってきた。


ありがたいことに俺の息子は、ほとんど俺の手を煩わせることなく、俺を反面教師として、素直で真面目な男に育ってくれている。


俺は高一修了までしか学生生活を送っていない。

その中で出会って来た先生の中で唯一俺を真正面から受け止めてくれた先生はF先生だけだった。


俺の中にF先生以外の先生との思い出は何も無い。


俺にとってはたった一人だけだったが、その様な先生に出会えたことは最高にラッキーなことだった。


F先生は既に7~8年前に引退した。


俺がバツ2になって真っ先に会いに行ったのはF先生だった。


今でも年に一回は会いに行っている。


俺も早く新たな嫁さんを連れて、先生に報告に行きたいものだと思うのであった。


(つづく)

2019年9月19日 (木)

俺の道 ~小学生編~ (9)

(9)免許証

6年生になると、免許証というものを先生が作って来て始めた。

F先生が手作りで作った二つ折りの紙のカードだった。


何か良いことをしたり、テストで良い点をとるとプラス点が付いた。

逆に悪さをしたり、悪戯みたいなことをするとマイナス点が付く仕組みだった。


先生の狙いは、それにより小学生の内に中学生で習うマイナスの足し算引き算を憶えさせることだった。


俺は常に何かをやらかしマイナス先行型だった。


マイナスが先行するとその分何か良いことをしたり、テストを頑張ったりして、プラス点を取って挽回しないといけなかった。


俺的には、特に悪さをしているつもりが無いのにいつもマイナス点が先行した。

そのため、何かしら自分の得意分野を見つけて挽回しないといけなかった。


俺は、剣道でもそうだったが、何か目先の目標が出来るとそれに猪突猛進するタイプだった。


正確には憶えていないが、確か5年生の3学期頃から、みんなで塾に通っていた。

俺は、勉強というより、みんなと遊ぶために行っていた。


マイナス点が先行し、それを挽回するために、俺は勉強をする様になった。


それからの俺は急にテストで100点を取るようになった。


それまでは全くと言って良いほど勉強はしなかったのに。


この当時、初めて100点を取ったのは算数だった。

しかし、喜び勇んで家に帰って親父に報告しても、親父は絶対に褒めてくれなかった。


「習ったことをやっているのだから、100点を取るのが当たり前」


それがいつもの親父の言葉だった。


俺は悔しかった。


俺は算数以外でも100点を取れるようにした。


面白いもので、100点を取り出すと面白いように100点が取れるようになっていった。

6年生1学期の終わり頃には、国語・算数・理化・社会、全てで100点ばかりになった。


しかし親父は褒めてくれなかった。


そして、俺は100点ばかりになりプラス点が溜まって来ると、何かしらやらかして一気にマイナスになったりしていた。


この頃、F先生は、1m位の長さのグリーンのグラスファイバーの棒を学校に持って来た。


そして、俺を中心とした悪ガキは、時々大きなヘマをやらかすと、目をつぶって黒板に手をつき、ケツを突き出し、クラスの生徒全員にその棒でケツを叩かれた。

優しく触れるようにしか叩かない奴、この時とばかりに思いっきり叩いて来る奴、普通に叩いて来る奴、色々だった。


目をつぶっていても、思いっきり叩いて来る奴は大体分かっていた。

しかし、仕返しはしなかった。


今やったら大問題である。


しかし、当時は親が先生に厳しくするように頼んでいた時代である。

自分の子どもを叩かれても、文句を言う様な親はほとんどいなかった。


俺は月一くらいのペースでケツを叩かれていた。


いくら100点を取っても親父が褒めてくれなかった悔しさと、大きなヘマでマイナス点がテストの点数だけでは挽回できなくなったことで、俺は考えた。


「どうしたらプラス点を増やせるのか?」


俺は閃いた。


「100点を超える点数を取れば良いんだ!」


「どうやって取るのか?」


俺は更に考えた。


最初に思いついたのは、理科の実験だった。


俺は実験が大好きだった。


理科の実験した内容を、俺は今でいうプレゼンテーション資料のように段階別に図解で綺麗に書いて1枚の紙にまとめて出した。


そんなことをしている奴は一人もいなかった。


この時、正確な点数は憶えていないが、150点とか200点とかで教室に貼り出された。


100点を超える点数が取れることを知った俺は、他の科目でも独自に作成したものをどんどん出した。


ペーパーテストは限られた回数しか無かったが、独創性のあるものは好きなだけ出せた。

そして、F先生はそれら全てに点数を付けてくれた。


俺が特に多く出したのは、『詩』だった。


詩は自分が感じて思ったことを短く書けば良かったので、直ぐに出来た。


いつしか俺は勉強の面白さに嵌っていった。


しかし、親父は褒めてくれなかった。

100点以上を取ったものを持ち帰って見せても、ただ「そうか」と言うだけだった。


でもF先生は違った。

先生は良く褒めてくれた。

しかし、良く怒られもした。


俺はF先生のことが大好きだった。


俺の免許証の点数は上下動が激しかった。

しかし終わってみれば0みたいなものだった。


今振り返ると、俺の人生はこの『免許証』の点数と同じようなものだった。


この時点で既に免許証の点数が、俺の人生を暗示していたのかも知れない。


(つづく)

2019年9月17日 (火)

俺の道 ~小学生編~ (8)

(8)F先生

俺が転校した小学校は、俺が4年生か5年生の時に100周年を迎え、全校生徒1,200人超の大きな学校だった。


4年生の時に転校した俺は、5年生の時にクラス替えがあった。

4年生の時の記憶は結構曖昧で、誰と同じクラスだったかは仲の良かった数人以外あまり憶えていない。


5年生の中頃から、俺の記憶は結構残っている。


5年生の新しい担任の先生は、埼玉の国立大学を卒業したばかりの若い男のF先生だった。


このF先生が面白い先生だった。


教師の癖に遅刻をし、裏門から生徒に助けられ隠れて教室まで来たり、長髪でパーマを掛け、時には腕を広げるとすだれのような紐が付いている服を着てきたり、当時流行っていた沢田研二のTOKIOの様な恰好をして来たり、一風変わった先生だった。


顔はタレ目の優しい感じで、中村雅俊を小さくしたような感じだった。

社会科見学で国会議事堂に行った時は、守衛と言い争いになり、女子生徒にたしなめられていたりする先生だった。


先生は当時、PTAからはかなり反感を買っていたようだった。


しかし、子どもたちのやる気を引き出すのが凄く上手く、色々な方法で子どもたちを動機付け、生徒たちからは大人気だった。


俺が5年生の時は、男子生徒全員で腕相撲大会をやり、チャンピオン、1位、2位、3位・・・と10位までランキングを付けて教室に貼り出し、競わせていた。

ある時はボール紙に金紙や銀紙を貼って作ったチャンピオンベルトを持ってきて、みんなを喜ばせた。


この腕相撲大会では、俺はいつも1位だった。


チャンピオンは当時俺が一番仲の良かったKだった。


こいつは身体は大きくなかったが、少年野球をやっていて、力が特別強い訳ではないのに手首が強くて、俺はこいつにだけは勝てなかった。


当時の保谷リトルは世界大会のトップレベルで強くて有名だった。


俺も入りたかったが、やらせて貰えなかった。


放課後は、毎日のようにドッジボールだった。

家が近所の奴は一度帰宅してから放課後校庭に集まったが、俺の家は隣の学区域の境界の所で一番遠かったから、そのまま残って毎日校庭で夕方まで遊んでから帰っていた。


6年生の時、俺たちの間でプロレスが流行った。


砂場で、ドロップキックやパイルドライバー、バックドロップにコブラツイスト、卍固めや足4の字固め、当時流行っていたプロレス技を片っ端から掛け合っていた。


弱くて泣きだす奴が続出だった。


ある時F先生は、見かねて注意した。


しかし、止めさせはしなかった。


先生は放課後、場所を体育館に移し、厚さ30cm位のマットを床に敷き、先生がレフェリーになって好きなようにやらせてくれた。


更には、女子生徒を全員観客にし、応援させた。


それまで泣いていた奴らも、女子が応援に来るようになったら、俄然やる気になり出した。


こういう時、男はバカなのである。


そして先生は、男子生徒全員に、当時のプロレスラーの名前をモジッってリングネームを付けた。


俺が与えられたリングネームは、当時のロシアの怪力レスラーだった『イワン・コルフ』をモジッて、『イワン・コルク』だった。


プロレスでも先生は、チャンピオンを筆頭に1位~10位までランキングを付けて、トーナメントで競わせた。


俺はまたしてもチャンピオンになれずに1位だった。

この時のチャンピオンが誰だったのかは憶えていない。


6年生の体育の授業で跳び箱をやった時だった。


F先生はみんなの前で山下跳びをやって見せた。


「オォーーー!スゲーーー!!」


生徒全員が拍手した。


F先生は学生時代は少林寺拳法をやっていたらしい。


「誰かやってみたい奴はいるか?」


先生は、聞いた。


しかし、誰もビビって手を挙げなかった。


それを見た俺は、真っ先に手を挙げた。

俺は、こういう誰もまだやったことが無いようなことにチャレンジするのが大好きだった。


先生が補助に付いた。


俺は、今先生がやった跳び方を思い出していた。


そして、助走して思いっきり跳んだ。

回った瞬間、先生が軽く背中を押した。


俺は勢いが付き過ぎ、上手く着地出来ずに前につんのめって倒れたが、綺麗に回れたようだった。


みんなから、拍手が沸き起こった。


そして、俺が上手く行くと、みんな俺も俺もとやり始めた。


何回かやるうちに先生の補助が無くてもかなりの割合で出来るようになった。


そして、この時、一人の天才が生まれた。


同じクラスのOだ。

こいつは俺から見て体操の天才だと思った。


もともと身軽な奴だったが、気の弱い奴だった。

しかし、一度恐怖心を無くしてからは、前転、側転、バック転、バック中、何でも出来た。

マット運動や跳び箱でOに勝てる奴はいなかった。

まるでサルみたいだった。


しかし、Oは勉強は出来なかったのだった。

天は二物を与えなかった・・・。


(つづく)

2019年9月15日 (日)

俺の道 ~小学生編~ (7)

(7)迫りくる恐怖

俺が4年生になる前の春休みに引越した家は、同じ市内の中町という町にあった。


ちょうど目の前の道路が学区域の境界だった。


その家は平屋建ての2世帯住宅の片方で、隣に大家さんが住んでいた。

俺からしたら、おじいさんとおばあさん位の年齢の人だった。


広さは6畳と8畳の和室に台所が付いている2Kだった。

そしてトイレは汲み取り式だった。


風呂が付いていたかどうかは記憶にない。

毎日のように庭から隣の大家さんの所に行っていた記憶からすると、お風呂は大家さんの所へ貰いに行っていたのかも知れない。


8畳間に置かれた2段ベッドの上と、ベッドの脇に押し込める形で置かれたライティングデスクのわずかなスペースだけが俺のスペースだった。


そのせいか、この頃の俺は、新聞の折り込み広告で家の広告を見るのが大好きだった。

いつも家族の一人一人が自分の部屋を持つ夢を想い描いていた。


その家は十字路の角地で、四方が緩やかな坂の一番低い所に建っていた。

玄関は、道路から一段一段が結構高い階段を4~5段位上がり1m位は高くなっていた。


ある雨が強く降った日のことだった。

玄関ドアの下から雨水が流れ込んで来たのだった。

俺は驚いた。


水はどんどん増えて来て、もう少しで床の上にあがって来そうだった。

俺は大騒ぎした。


俺はどういう訳か突然トイレに行った。


俺はギョッとした。


俺はそこで更に大騒ぎした。


「パパー!うんこが溢れるよー!!」


なんと、汲み取り式のうんこがもうそこまで迫っていたのだ。


親父もトイレを覗き込んだが、為す術はなかった。


当時の俺は親父のことを『パパ』と呼んでいた。

お袋のことは、『お母さん』だった。


水はもう少しで床上になる直前で止まった。

そして、しばらくすると玄関の中の水は引いて行った。


玄関の水が引いてから玄関を開けて外を見ると、目の前の道路が真っ黒な川のようになっていた。


この家は、大雨が降ると必ず水没していた。


俺が小学生の時だけで3~4回あった。


一度、夜中に大雨が降り、朝登校する時は晴れていたのだが、水は玄関まで来ていて引いていなかった。

その時は、俺と3つ下の妹、そして隣の家の姉妹の4人は、大人がゴムボートを出し、それに乗せられ水の無い所まで運び出され、そして登校したのだった。


結果的にうんこが溢れたことは一度も無かったが、うんこが迫って来る恐怖はハンパじゃなかった。


俺は16で一人暮らしを始めてから10回以上引越しをしてきたが、無意識に高い所を好み、低い所は敬遠してきた傾向がある。


もしかしたら、このうんこの恐怖体験が根底にあるのかも知れない・・・。


(つづく)

2019年9月13日 (金)

俺の道 ~小学生編~ (6)

(6)剣道

正確な時期は憶えていないが、確か2年生の頃、俺は家の直ぐ近にあった剣道場に通い始めた。


剣持館道場といい、館長は70歳位のおじいさんで、確か九段か十段だった。


低学年だけでも近所の子どもたちが数十人いた。


隣が畳屋で、いつも道場の前を鼠色の三輪車が畳を積んで走っていた。


雨の日は、その三輪車が左折して道場の隣の倉庫に入ろうとして、よくコケていた。

道場の子どもたちはそれを見て、みんなでよく笑った。


現在の剣道は最上位が八段範士。


今振り返るとそこは面白い道場だった。


多分小学生は6年生で2級までなのが、1級まで取れる道場だった。

更には、2級からは、2級相当、2級、2級上位、1級相当、1級、1級上位と6段階に分かれていたのだった。

昇級試験も年に何度かあり、年齢による昇級の制限はなかった。


俺は4年生の時に1級相当になっていた。

次は1級上位になれると思っていた。


出欠に関しては、『皆勤賞』があり、毎月一日も休まずに稽古に出ていると表彰された。

俺は、毎月『皆勤賞』を貰っていた。


更には、大きな声を出せるようになるためにと、稽古前に『詩吟』をやっていた。

しかし、詩吟は面白くなかった。

いつも、変な歌だと思っていた。


今考えると、館長が子どもたちのやる気を引き出すために色々と工夫をしていたのだと思う。

そして、俺はいつも中学生や大人を相手に稽古していた。


俺は元々の膂力が強いようだった。

入門したばかりの頃は子ども同士で稽古をしていた。

しかし、俺が打つと相手が痛くて泣いてしまうのだ。

俺は館長に手加減するよう何度も注意された。


俺としては大して力を入れているつもりは無いのだ。

しかし、相手は痛くて泣いちゃうのだった。


結果、俺は館長か師範の先生か、中学生の上級生が稽古相手になった。


そしてこの道場では、3ヶ月に一度位の割合で、小学生同士の大会があった。


同級生の中で一番背の高く、一番長く剣道をやっていたNとKがいつも優勝争いをしていた。

二人とも1級上位だった。

そして、見た目は二人とも既に中学生だった。


その優勝争いに、時々俺が加わっていった。

俺は比較的Kには強く、決勝でKと当たった時は、俺が優勝できた。

しかし、Nには勝てなかった。

そして、KはNに強かった。


俺は剣道が大好きだった。


4年生になる時に転校し遠くなったが、この道場には5年生になるまで通った。


5年生の時、俺は転校した学校で仲良くなった友だちの通う、市の剣道会に変わった。

そこは、人数は多かったがあまり強い奴がいなかった。

昇級審査を受けると、俺はすぐに3級になった。


しかし、5年生では、それ以上にはなれなかった。

次の2級は、6年生にならないと受けられなかった。


前の道場は、年に何度か昇級審査があった。

昇級審査を受けられなくなった俺は、剣道が面白くなくなった。

そして、市の体育館には数えるほどしか稽古には行かなかった。

6年生になってからは全てサボって一度も行かなかったのだった。


(つづく)

2019年9月11日 (水)

俺の道 ~小学生編~ (5)

(5)自縛霊?!

俺の低学年の時の数少ない記憶の中で特に強烈に残っている記憶がある。


確か2年生か3年生の時である。

寝坊して集団登校に間に合わず、俺は一人学校まで走って行った。


「間に合わなかったらどうしよう?」


俺は学校の校門の目の前まで来て異常な緊張感が走った。

そして、急におしっこが漏れそうな感覚に襲われたのだ。


俺は、そのまま校門には入らず、校門の手前の電柱の陰に隠れ立ちションをしようとした。


しかし、ション便は出ない。


そして、ズボンのチャックを上げ、校門に向おうとすると、またション便が漏れそうな感覚に襲われた。


俺はもう一度電柱の陰に戻り、立ちションを試みた。

しかし、出ない。

一滴も・・・。


そして、もう一度電柱から離れようとすると、漏れそうになるのだった。


俺は何度となく、立ちションを試みるのだが、ション便は出ない。

しかし、電柱から離れようとすると、急に漏れそうな感覚に襲われるのだ。


チンコを出したりしまったりの繰り返しだった。


始業時間は刻一刻と迫り、心臓は高鳴り、焦る気持ちに襲われた。


「早く行かなきゃ!」


校門は直ぐ目の前なのに、俺は電柱から離れられなくなった。

まるでそれは自縛霊にでも取り憑かれたような状態だった。


俺は泣きたくなった。

でも泣きはしなかった。


その時だった。


「キ~ン、コ~ン、カ~ン、コ~ン」


学校のチャイムが鳴った。


俺はダッシュで教室まで走った。


俺を自縛霊から救ってくれたのは学校のチャイムだった。


チャイムが鳴り終わるのと同時に俺は教室に駆け込んだ。


自分の机に座った。

めちゃくちゃ息が切れていた。


「はぁ~、はぁ~、はぁ~、はぁ~・・・」


そして、思った。


「セーフ!・・・」


そして、直ぐにテスト用紙が配られた。


いきなり漢字の書き取りテストだった。


俺の心臓はまだバクバクいっていた。


先生に名前を書く様に言われて、みんなは書き始めた。


しかし俺の手は震え、名前も直ぐには書けなかった。

みんなから遅れて何とか名前を書いたが、俺はそこで力尽きた。


頭は真っ白になり何も考えられなかった。


テストは0点だった。


忌々しいのは、電柱に憑いていた自縛霊である。

この時から俺は、時間的余裕がないとダメな人間になった。


時間的プレッシャーは俺の弱点となった。


この頃の俺は、負けず嫌いで正義感が強く、ガキ大将的な存在だった。

しかし、実際には時間的プレッシャーには非常に弱かったのだ。


(つづく)

2019年9月 9日 (月)

俺の道 ~小学生編~ (4)

(4)貧乏

俺は子どもの頃、家族で外食に言った記憶はほとんどない。

唯一と言える記憶は、中華料理屋へ行った記憶だ。


多分、俺が1年生か2年生頃だったと思う。


その店は、壁一面に油まみれの手書きのメニューが貼られ、安っぽいテーブルに背もたれの無い赤いドーナツ型のイスが置かれた、赤い暖簾の店だった。


俺は、母から言われた。


「はれちゃん、好きなの頼んでいいよ」


俺は壁に貼られたメニューを見回した。


しかし、俺が食べたいメニューが見当たらなかった。

そして、俺は言ったのだった。


「お母さん、サッポロ一番がない!」


店の中は爆笑の渦になった。


俺は、なぜみんなが笑っているのかわからなかった。

そして、俺は何故か母に頭を叩かれたのだった。


当時の俺は、毎日のようにおやつ代わりに『サッポロ一番みそらーめん』を食べていたのであった。


俺は、『ラーメン』という食べ物を、この時までずっと、『サッポロ一番』だと思っていたのであった。


俺が、2年生か3年生の時だった。


俺は虫歯で母に歯医者に連れて行かれた。

そして、治療が終わった後、母は俺の前歯のことで先生に相談していた。


俺は出っ歯ではないが、前歯の2本が大きく、歯と歯の隙間が開いていたのだった。


母は最初、俺に、それはカッコ悪いから治した方が良いと言ったのだった。

そして、それを先生に聞いていたのだ。


先生は言った。


「2年間通って、最低でも20万円は掛かりますよ・・・」


すると、それまで治した方が良いと言っていた母が一転したのだった。


「はれちゃんは、男の子だから大丈夫!」


俺は子どもながらに思ったのだった。


「うちにはお金が無いんだな・・・」

「俺の歯を治すことより、20万円の方が大切なんだ・・・」


俺は、この時から家が貧乏であることを自覚し始めたのだった。


(つづく)

2019年9月 7日 (土)

俺の道 ~小学生編~ (3)

(3)危機一髪

俺の低学年の頃の学校での記憶は少ししかない。


俺は、小さい頃から身体はでかい方だった。

ただ、一番ではなく、いつも後ろから2番目か3番目だった。

そしてデブまでは行かないが体格は良かった。


同じクラスだったかどうかは憶えていないが、俺より身体が一回りでかいAという同級生がいた。

仲は悪くなかったが、いつもこいつとケンカをしていた。


Aは、弱いものいじめが好きな奴で結構ないじめっ子だった。

俺はしょっちゅう、Aと取っ組み合いのけんかばかりしていた。


そして、実際に仲が良くて遊んでいたのは比較的大人しいいじめられっ子の方だった。


この頃から俺は、いじめっ子を守り、いじめっ子と戦う子どもだった。


当時、仮面ライダーやウルトラマン、キカイダ―とかのヒーローものが流行り、俺は正義の味方が大好きだった。


3年前、ひょんなことから36年振りに中学の同窓会に出席した。

その時、中学高校と同じだった女に会った。

そして、小学校転校前の3年生の時は同じクラスだったと言われた。

俺は全く憶えて無かった。


その女の話しだと、当時の俺は結構モテていたらしい。

バレンタインデーにはチョコを一杯貰っていたらしい。

俺には全く身に覚えがなかった。


俺の人生で女にモテていた時代があったとは驚きだった。

今とは真逆である。


ある雨上りの学校からの帰り道、みんな傘を持って帰っていた。


途中の空き地に畳が山のように積まれていて、俺たちはその山の上で遊んでいた。

誰かが傘で畳みをブスブス刺して遊びだした。


俺は、黒で先が鉄の大人用の傘だった。

俺も笑い声を上げながら傘で畳みをブスブス刺して遊んだ。


その時である、勢い余った俺の傘の先は、俺の長靴を貫通した。


俺は一瞬声を上げそうになったが、声は出さずに息を飲んだ・・・。

冷や汗が流れた・・・。


子どもながらに俺は思った。


「やっちゃった?!」


俺の足は畳に釘付けになった。


瞬間的に考えた。

抜いたら血が噴き出すんじゃないかと。


しばらく動けなくなった。


その状況に気づいた友だちが驚いた。

そして、一緒にいたみんなが俺を見た。

みんな凍りついた。


痛みはなかった。

俺はみんなの目を見た。


そして抜く覚悟をした。

俺は目をつぶった。

そして、両手で一気に傘を引き抜いた。


畳の山を下りて、長靴を脱いで足を見た。

傷はどこにもなかった。


長靴を見ると、右足の親指辺りを貫通していた。


偶然にも、傘の先は俺の右足の親指と人差し指の間を貫通したようだった。


危機一髪だった。


それ以降、傘で何かを刺す遊びはやらなくなった。


俺の右足の長靴には上下に穴があいて、家に帰った頃には右足は水浸しだった。


雨が上がったのに、待っていたのは母のカミナリだった。


(つづく)

2019年9月 5日 (木)

俺の道 ~小学生編~ (2)

(2)傷だらけの珍生

幼稚園に行き始めると、俺はそれなりに友だちは出来た。


しかし、その頃の記憶は、極僅かな写真に残された友だちと先生の顔を憶えているだけで、具体的なものはほとんど無い。


ただ、良く遊びに行っていた友だちの家は、2階建ての大きな家で、いつもお菓子やケーキを食べさせて貰っていた。


俺は、小学4年生に上がる前の春休みに、同じ市内の中町に引越し、学区域の違いから転校するのだが、3年生までの学校での記憶があまりない。


当時は、空き地や芝生、そして畑が多くあり、やたらとバラ線(鉄条網)が張ってある所が多かった。

ブロック塀の上にもバラ線は良く張られていた。


俺はそういう所が何故か好きだった。

バラ線が張ってある塀を見ると、その塀の上を良く歩いていた。


脚や腕は、いつもバラ線の引っかき傷の生傷だらけだった。

まだ絆創膏などあまり無かった時代で、俺はいつも赤チンだらけだった。


1年生だったのか2年生だったのかは定かではないが、ある夏の日、俺は半ズボンにランニングシャツ1枚の姿で友だちと

三角ベースをやっていた。

俺は外野を守っていた。


そして、打たれたゴムボールは俺の頭上を越え、ボールはその後ろのバラ線を張られた芝生の中に転がり入って行った。


バラ線は、地上から3~40cm間隔位で4段位張られていた。


俺はボールを追い、ヘッドスライディングで一番下のバラ線を潜り抜け芝生の中に入った。


ボールを拾って仲間に投げ返し、再度ヘッドスライディングでバラ線を潜り抜け、自分のポジションに戻った。


そして、チェンジになり、攻守が交代となった。


丁度その時、母は買物からの帰り道だった。


母を見つけた俺は、母に走り寄った。


すると母は悲鳴をあげた。


「どうしたのコレ?!」


俺は何を言われているのか分からなかった。


友だちがみんな走り寄って来て大騒ぎになった。


俺は母にランニングシャツを脱がされ後ろ向きされた。


脱がされたランニングシャツは血だらけだった。


どうやら、俺の背中は縦に大きくパックリと割れていたらしい。


母は言った。


「なにしたの?!」


俺は、自分では気づいていなかったのだが、どうやらヘッドスライディングでバラ線を潜り抜けた行きか帰りに、バラ線で背中をザックリと切っていたのだった。


俺は、母にそのまま家に連れ帰られた。

そして、激怒された。


俺は病院には行かず背中の傷に赤チンを塗られた。


赤チンはめちゃくちゃくすぐったかった。

俺は転げ回った。


そして、また怒られた。


その後、ガーゼを貼られただけだった。


後日、風邪をひいて掛かりつけの病院に行くと、先生に傷のことを聞かれた。

母が説明すると、こんなに大きな傷をよく赤チンで治したなと、先生は驚いていた。

そして、あと1cm背骨に近かったら、脊髄をやって歩けなくなっていたぞと脅されたのだった。


どこに行った帰りだったのかは憶えていない。


俺は親父が駐車場に停めた車の助手席から降りた。

そして、ロックボタンを押し下げ、ドアのノブを上に押し上げたまま車のドアを勢いよく「バン!」と閉めた。


当時の車は、今の車のように自動ロックは無い。


親父も車を降りて、鍵を掛けた。


俺は、左手で窓をバンバン叩いていた。


親父は何事かと車の中を覗き込み、慌ててロックを解除し車の内側から助手席のドアを開けた。


俺の右手の薬指は、何故かドアを閉めた瞬間に根元から挟まれていた。


俺はドアを自分で開けようとしたが、ロックをしたので開かず、窓を叩くことしか出来なかったのだ。

声も出せなかった。


挟まれた指を見ると、白い骨が見えていた。

指の肉は押しつぶされたようになっていた。

血はほとんど出ていなかった。


俺は泣かなかった。


親父が俺の指を見ると一言言った。


「折れてない、大丈夫だ」


俺は大丈夫だと思った。


この時も病院には行かなかった。


家に帰ると、親父は電気で水道水を酸性水とアルカリ水に分離させた。

この頃の親父は、その機械に嵌り、アルカリ性の水を飲み水にし、酸性の水は怪我に効くとよく言っていた。


俺の右手は、酸性の水に浸けさせられた。

何回か水を取り替えながら何時間か浸けた。

知らない内に潰れていた肉が盛り上がっていた。

血は出ていなかった。


その後傷口に赤チンを塗られガーゼを貼られて治療は終わった。


この頃の俺は、とにかく赤チンだらけだった。


赤チンは、俺にとっての万能薬だった。


(つづく)

2019年9月 3日 (火)

俺の道 ~小学生編~ (1)

(1)燃えた左膝

昭和39年11月、東京は足立区北千住に俺は生まれた。


北千住の家は、20㎡にも満たない土地に、一階に2~3畳ほどの小さな台所とトイレ、二階にも同じ広さの和室と上下合わせても10畳あるかないかの風呂の付いていない小さな家だった。


俺の北千住時代の記憶は、写真に残っている近所の友だちだった子のことを僅かに憶えているだけでほとんどない。


3歳の頃、家の近所の公園の前で、バイクにはねられ左太ももを複雑骨折し3ヶ月入院していたらしいが、俺の記憶には無い。


俺は、幼稚園に上がる前、練馬区の隣にある保谷市(現在の西東京市)の東町という町に引越した。


家は、昔の古くてこげ茶色の小さな平屋建ての家だった。


引越した当日だったのか翌日だったのかは憶えていないが、引越したばかりの頃、その家に付いていた風呂に入ろうと俺は走って風呂場へ行った。


中には先に母が入っていた。


俺は、風呂の入口で滑って転んだ。
そして、入口脇の一段下がった所に付いていた給湯器の中に俺の左膝が入った。


当時の給湯器は、今では考えられない様な、煙突の付いた箱の中にガスバーナーが入っているだけのものだった。


俺の左膝は、「ボン!」という音と共に一瞬無くなったように思った。


俺は悲鳴を上げて気を失った。


気が付くと、母が胸にバスタオルを巻いただけの格好で俺を抱きかかえ、向いの家に掛け込み助けを求めていた。


俺の家には電話はまだなかった。


俺の脚に巻き付けられた白のバスタオルは真っ赤だった。

何人かの知らない大人たちが、「救急車!救急車!」と騒いでいた。


そして、俺はまた気を失った。


どのくらい経ったのかは分からない。

俺はまた悲鳴をあげて目を覚ました。


左膝の肉は、大きなクレーターのように無くなっていた。

その傷口に注射を打たれていた。


痛みではあまり泣いた記憶が無い俺だったが、その時は泣いた。


それ以降、痛みや苦しみで泣いた記憶は、俺には一切無い。


この時、何針縫ったのかは定かではない。


それからしばらくして、傷がほとんど治り抜糸をした。

俺は友だちと二人で自転車で遊びに行った。


その帰り道、俺は友だちを誘い、行きには使ってはダメと注意された道に自転車を入れた。

その道は2~3cmの大き目な石を敷き詰めたアスファルト舗装前の工事中の道だった。

俺は近道をしようとしたのだった。


道はゴツゴツしていて、上手く走れず、俺たちは楽しかった。

何度か転びそうになりながらも、あと少しで出口のところまで来て、俺は転んだ。


左膝の傷はまたしてもパックリと開き、血だらけになった。


俺が泣かないのに、一緒にいた友だちは大泣きだった。


血だらけになりながら俺は自転車を漕いで帰った。


帰宅した俺を待っていたのは、母のカミナリだった。


(つづく)

2019年9月 1日 (日)

逃れの道 (2)

(2)剣道を始めた理由

1年ほど前だったと思うのですが、同じ道場で稽古をし、区剣道連盟の役員もやられている女性剣士のH先生から、稽古の後、突然剣道を始めた理由を聞かれたのです。


この時は、正直焦りました。


その方とは、稽古の時の挨拶程度しか話したことは無く、竹刀を合わせたことも無く、どこまで本当のことを話していいものか、一瞬迷ったのです。


そして、私は無難な答えとして、「小学生時代に少しやっていたことがあったので・・・」と答えたのです。


しかし、内心では、正に1本取られた感じでした・・・。


私が剣道を始めた理由の一つには、『小学生時代に少しやっていたことがある』ということはもちろんあるのですが、真の理由は別の所にあったのです。


私が、T道場に入門したのは、2013年11月下旬です。


私は、その少し前の9月に2度目の離婚をし、10月に妻子が家を出て行き、寂しさを知り始めた時期だったのです。


そして、11月下旬の金曜の夜、以前東京で不動産会社をやっていた時に大変お世話になっていた司法書士のT先生の住まいがたまたま私と同じで、私を慰めようと駅前の居酒屋で一杯やってくれたのでした。


その帰り道のことだったのです。

T先生と別れた後、私が駅前のバス停に向った所、何やら奇声が聞こえてきたのです。


私は不思議に思い、その奇声の聞こえる方へ歩いて行ってみると、何とT道場で大人の人たちが剣道の稽古をしていたのです。


私は元々東京生まれの東京育ちです。

私がこの地に来たのは2004年3月、40歳の時です。

そして、30代の頃は不動産会社を港区白金台でやっていて、自宅も歩いてすぐの所でした。


当時、白金台で不動産会社をやっていた頃、確かマンガの『六三四の剣』を読んでだと思うのですが、もう一度剣道をやりたいと思い、道場を探したことがあったのです。


しかし、その時は近くに大人が稽古出来る道場が無く、勝手に大人が稽古出来る場所はあまりないものなんだと思い込んでいたのです。


ですから、T道場も表に、『少年少女剣士の募集』が掲載されていても、大人の募集は書かれていなかったので、子どもだけの道場だと思い込んでいたのです。


それがその夜、大人たちが稽古しているのを偶然発見し、この地に10年近く住んでいて、初めてその存在を知ったのでした。


そして、『剣道をもう一度やりたい!』という衝動にかられたのです。


しかし、その時は酔っていましたので尋ねることはせず、週明けの月曜日に改めて訪問することにしたのでした。


月曜日の夕方、T道場を訪問すると館長のT先生がおられ、入門について色々と教えてくれました。


そして、T先生は早生まれで、学年としては1学年上ですが、私と同じ昭和39年生まれであることを知りました。


そして丁度その時期、T先生は八段(剣道では最上位)に合格された直後だったのです。


私は、話を聞けば聞くほど、自分の年齢的なことから身体が動くかどうかや、継続出来るかどうかと不安が募って来たのです。


しかし内心では、息子と別れたことからの寂しさから逃れるためには、何かやるしかないと思っていたのです。


そして、T先生はゆっくり考えてからでも良いと言ってくれたのですが、私は考えれば考えるほど不安が募ると思い、その場で入門を決めたのです。


そうです。

私が剣道を始めた真の理由とは、『寂しさから逃れるため』だったのです。


特に私が研修に参加するまでの1年間は、剣道に巡り会わなかったらどうなっていたかと思います。


剣道は毎週月曜日と水曜日の20時~21時の2回なのですが、剣道をしている時だけは、息子のことを考えずに済んだのです。


当時の私は、夜になるとどうしようもない寂しさに襲われていたのです。


しかし、1度稽古に出ると、翌日までは精神的に大丈夫な状況でした。


ですから、月曜日の夜から木曜日の夜までは剣道のお陰で大丈夫だったのです。


しかし、金曜日の夜から日曜日の夜までの三夜を乗り切るのは正直大変でした。


そこの所は、また別の機会にします。


しかし私は、剣道と再会し、本当に救われました。

そして、ただ寂しさから逃れるために始めた剣道ですが、今では生きている限り、身体の動く限り、続けていきたいと思っています。


生涯に何段までいけるのかは分かりません。


ただ、私の目指す剣道は、『美しい剣道』です。


剣道を初めて6年足らずの私のような者が、剣道を語るのはおこがましいことですが、私が見ていて感じる、八段の先生方と七段の先生方の決定的な違いがあるのです。


それは、竹刀を構えた時の『立ち姿』の美しさなのです。


私の通うT道場には、館長のT先生の他、時々二人の八段の先生が来られます。


この三人の八段の先生方に共通していると私が感じる所は、構えた時の『立ち姿』の美しさなのです。


全く力みが無いのに、一本筋が通っているように見える構え。


その姿は、私には、天上界から見えない光の糸で吊られているように見えるのです。


私もそのような『美しい構え』に少しでも近づきたいと思っているのです。


剣道にも沢山の良い言葉があります。


『打って反省、打たれて感謝』

私の大好きな言葉です。


『逃れの道』 (了)

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