« 俺の道 ~中高生編~ (1) | トップページ | 俺の道 ~中高生編~ (3) »

2019年11月 4日 (月)

俺の道 ~中高生編~ (2)

(2)伝統のラガーシャツ

中学1~2年の頃の俺は、サッカー浸けの日々だった。

H中サッカー部の公式戦用のユニフォームは、代々受け継がれて来ていたものだった。

そして、それは何故かサッカー用のユニフォームではなく、ラガーシャツだった。


当時は気づかなかったが、顧問のS田先生はサッカーをやったことがない人だった。

やっていたのは、ラグビーだと聞いたことがあるから、もしかしたらそのせいかも知れない。


そのシャツは、地元東伏見駅前にあるW大ラグビー部から譲り受けたものだった。

元々は赤と黒の横縞だったものだ。

しかし、俺たちが譲り受けた時には、すすけた薄いピンクとグレーになっていた。


そして、そのユニフォームは至る所に破れや穴が開いていた。

袖口はビロビロだった。

ラガーシャツだから生地は厚い綿で、汗をかくとめちゃくちゃ重くなっていた。

まるで、マイケル・ジャクソンのスリラーに出て来る、ゾンビが着ているようなものに近かった。


そんなボロ雑巾のような、すすけた横縞の分厚いユニフォームを着ているような学校は、都内ではどこにもなかった。

よそのサッカー部は、どこもサッカー用の新しい綺麗なユニフォームだった。


そんなボロボロのユニフォームを着ているのは、俺たちのH中だけだった。

しかし、俺たちは、みんなそのユニフォームに憧れたのだ。


ボロボロのユニフォームでも都大会を勝ち進んで行く先輩たちがカッコ良かったのだ。

そのユニフォームは、3年生が引退する時に後輩に譲られた。

譲られるのは、レギュラーと補欠の15人だった。

1年で2年のレギュラーに入ったのはK田だけだった。


俺は、足は特に速く無かった。

テクニックも無かった。

ただ、ガッツだけは誰よりもあった。

そして、スペースを読んだり、ゲームの流れとかの先を読むようなカンは良かったのだ。


1年の終わり頃から先輩の練習試合に、途中交代で時々出るようになった。

ポジションはバックスだった。

テクニックは無かったが、カンを働かせて先に動き、ガッツでボールに喰らいついて行くタイプだった。


相手のセンタリングを阻止する為に、右足の内ももはいつも痣だらけだった。

何度も股間に当てられ、もがき苦しんだこともあった。

流石に股間は鍛えられなかった。

しかし、ビビることは無かった。


2年になるとレギュラーになれた。

2年の夏、俺はT田先輩の4番を引き継いだ。

1コ上の先輩は、背が高いイケメンが多かった。


ミッドフィールダーのM先輩、キャプテンでセンターバックのS水先輩、左バックのI瀬先輩、そして右バックのT田先輩だ。

T田先輩は、寡黙で優しい人だった。

今振り返っても、先輩の中では一番好きな人だったと思う。


俺の最初のポジションは右のサイドバックだった。

そして、2年の終わり頃から、左ハーフになった。


そして、中2秋の公式戦(確か新人戦?)で、俺たちは初の公式戦のユニフォームを着たのだった。

しかし、その公式戦で俺たちの伝統のユニフォームは突然終わりを告げたのだ。


対戦相手がどこであったのかは憶えていないが、何回戦目かのハーフタイムで、相手チームからクレームが出たのだ。

やぶれた袖が競り合っている時にからみつくと。


俺たちは、後半開始前に全員肩から袖を切り離し、ノースリーブ状態で試合を戦ったのだった。

そして、この試合を最後に、何年続いていたのかは知らないが、H中サッカー部の伝統だったラガーシャツは終わりを告げたのであった。


その後、俺たちの公式戦用ユニフォームは、ブラジルと同じカナリヤイエローにしたのだ。

当時の俺たちは、ヨーロッパスタイルのサッカーより、南米スタイルのサッカーの方が好きだったのだ。

パス回しより、個人技を競っていた。


部活の練習開始前や部活以外の練習では、派手な技ばかり練習していた。

オーバーヘッドやジャンピングボレー、ジャンピングヘッド、コーナーキックからの直接のゴール、トリッキーなフェイントなどだ。

当時の俺は、今では考えられないことだが、完璧ではないが、股割が出来た。

ジャンプしてのハイキックの高さは一番だった。


そして後に、『チョーパンからのハイキック』は、俺の喧嘩の時の連続技になるのであった。

当時の俺たちは、競って個人技の習得に励んでいたのであった。


(つづく)

« 俺の道 ~中高生編~ (1) | トップページ | 俺の道 ~中高生編~ (3) »

俺の道 10代編」カテゴリの記事