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2019年12月

2019年12月31日 (火)

俺の道 ~アラカン編~ 第60回AF研修の巻 (10) <最終回>

(10)2019年を振り返って

昨年12月にイオンで出会った女の子の笑顔とスキップをきっかけに始まった俺の気づきは、俺の内面に数々の気づきを与えてくれた。

そして2月には、亡くなった親父の墓参りに行き、親父の想いに気づき、ただ許せただけではなく、その愛を感じることが出来たのだ。


更には、それまで苦しんだ十数年間、特に息子と別れていた3年間について、後悔と自責の念に凝り固まっていた俺の心が、『苦しんで良かった』、『俺の人生、これで良かったんだ』と、心底思えたのだ。

この変化が、その後の俺の内面を急速に向上させるきっかけだったように思うのだ。


その後、離婚後の苦しみの中で読んで来た本を改めて読み直したことで、6月に野口先生の『鏡の法則』を筆頭とした著書に出会えたのだ。


そして、親父の命日である7月1日からブログを始め、その過程で俺の過去を小説風に書くことに気づき、小説風に書くことで、当時の子ども時代の自分の気持ちに気づき、今の自分がその当時の気持ちを受け止めることで、自己受容が進んで来るのを感じることが出来るようになって来たのだ。


俺の過去を小説風に書くことは、厳しさのみだった自分の中のインナーペアレントを優しいインナーペアレントに育て直しているようなものとなっている。


そして、10月中旬から始めた『自己実現塾』の学びにより、それまでは感覚だけで捉えていた自分の内面の変化を論理的に理解し始めたことで、それを言葉として表現することが少しずつ出来るようになって来ていると思うのだ。


そして俺は、この『言葉で表現する』ということの大切さを今回の研修で痛感したのだ。


人は、自分の想いを言葉で上手く表現できないから、感情的な表現になってしまうのではないかと思ったのだ。


自分の話している言葉が相手に伝わっていないと感じること。

それは、自分の気持ちが相手に伝わっていないと感じることだと思う。

そして、それを無理に何とか伝えようとするから、伝わらない同じ言葉で何度も繰り返すのではないかと思ったのだ。


その様な時、本来はその伝わらない悲しさや悔しさ、自分が伝えられないという無力感や寂しさなどを、自分で感じて受け入れなければならないのに、それが出来ないから、イライラや怒りに変わって行き、感情的な表現になってしまうのではないかと思ったのだ。


その為には、やはり知識としての言葉と、その言葉の意味を知ることであり、それは同時に自分の気持ちを理解する上でも大切なことなのではないかと思ったのだった。

そして、自分の気持ちを自分自身がしっかりと理解して共感することが、自己受容することの真の意味かも知れないと思ったのだ。


なぜなら、仕事でも勉強でも、自分が理解していないことを人に教えることが出来ないのと同じなのではないかと思うからだ。


本来の『教える』ということは、感覚的には『伝える』ことと同じようなものなのではないかと思うのだ。


そういう意味で、人は自分の気持ちを自分自身が一番理解していないといけないのではないだろうか。

しかし、それが上手く出来ないから、人は『解って貰いたい』と思うのではないだろうか。


そして、自分自身で自分の気持ちをしっかりと理解出来るようになれば、理解すること自体が『受容』することになり、無理に他者に解って貰う必要が無くなるのではないだろうか。


逆に他者の気持ちも理解することが出来るようになるのではないだろうか。


これは、自己実現塾で最初に『アクティングアウト』を知った時に、その心理的構造を学び、アクティングアウトをする理由を理解した時の感覚と似ている気がするのだ。


その時アクティングアウトの対処法としては、『健康的な守り』を増やして行くことを学んだのだが、もしかしたら、しっかりと自分の言葉で理解するということは、その根本的なものかも知れないと思ったのだ。


人が感じたくない、味わいたくない感情と言うものは、それだけその人にとっては大きなものであり、計り知れないものなのだと思うのだ。


しかし、人はそれを解って貰いたいと思うのではないだろうか。

そして、解って貰えたと感じることで、傷ついた心が癒されるからなのではないだろうか。


人が感じたくない、味わいたくないと感じる感情を、自分の言葉で理解することが出来れば、その感じたくない感情の大きさや広さ、深さと言ったものを第三者的に自分自身に対して、具体的に共感してあげられることになるのではないかと思うのだ。


そして、それこそが、自己受容の真の意味なのではないかと思ったのであった。


俺は最近、研修をやっていて感じているのだ。

大切なのは、『伝える力』よりも、『受け入れる力』なのではないかと。


自分自身が自分の気持ちをしっかりと言葉で理解して共感出来るということは、その気持ちをきちんと表現する言葉を自分が持っていることだと思うのだ。


きちんと表現する言葉を多く持っていればいるほど、他者に言葉で伝えられる可能性は大きくなると思う。

そして、自分の気持ちを言葉で伝えることが出来れば、人は感情的にならずに冷静に優しく話せるのではないかと思ったのだ。


そして、それこそが本当の意味での『大人』というものなのではないだろうかと思ったのだ。


更には、本当の意味での大人になるということが、ユング博士の言う、『自我の確立』ということなのではないかと思ったのであった。


俺は、今回の研修で自己実現塾での学びを研修で試した後、その後の反省の中で、この様な思いが出て来たのだった。

自分の気持ちをしっかりとした言葉で理解すること、そして共感することの大切さを感じたのだった。


言葉で理解することが出来れば、言葉で伝える事が出来るようになると思うのだ。

そして、自分の気持ちを、より幅広く、より深く理解出来るようになれば、その分、他者の気持ちも、より幅広く、より深く言葉で理解して共感し、その共感した想いを言葉で伝えられるようになるのではないだろうか。


更には、自分の気持ちに対する幅広さや深さは、対人関係における幅広さと深さにも繋がって行くのではないかと思うのだ。

それは、単に他者に対する好き嫌いといった感情だけに頼るのではなく、より理性的な人間関係が構築出来て行くのではないかと思ったのだった。


この気づきは、俺が考える『無敵の世界』の幅を広げて行くことになるのではないかと思うのだ。


今の俺の『無敵の世界』は、まだ限られた狭い範囲の世界だが、その範囲が徐々に広がって行く様な、何かそんな予感のようなものが感じられるのであった。


その想いを胸に秘めつつ、来年は今年の内面の変化の成果が結果として現れると信じて、2019年の締め括りにしたいと思うのであった。


俺と縁あって関わって下さった全てのみなさまへ。

今年一年間、誠にありがとうございました。

みなさまが良い年をお迎え頂けることを祈願し、最後に俺の大好きな詩を載せて、2019年の締め括りとさせて頂きます。


    【言葉の響き】 

     同じ言葉でも 響がちがう

     文字にすれば 同じなのに

     なぜ?


     あの人の言葉はちがう

     深さが 高さが 重さが そして美しさが

     なぜ?


     やはり 通ってきた道がちがうから

     苦しんだ重さがちがうから

     悲しんだ深さがちがうから

     努力の量がちがうから


     その人の前に出ると

     自分の生き方が恥ずかしくなる

     情けなくなる

     涙がにじむ


     でも不思議だ

     やる気も湧いてくる

     これからがんばろうと思えるようになる


     己の言葉の響きを磨くとは 自分自身を磨くことだ


           (大久保寛司 著書 『考えてみる』より)


俺の道 ~アラカン編~ 第60回AF研修の巻  (了)

2019年12月30日 (月)

俺の道 ~アラカン編~ 第60回AF研修の巻 (9)

(9)課題の答え

前項を書いたのは、12月18日の夕方だった。

俺はその日の夜、今年も残すところあと二回の剣道の稽古に行った。


この日の俺は、普段あまり出来ない、館長との稽古に臨むことを決めていたのだ。

思った通り、年末でいつもより稽古に来ている人が少なく、俺はその日、館長にとって最初の相手になれたのだった。

俺が入門して丸6年で初めてのことだった。


普段の館長は、若い四~五段クラスの現役選手のような人たちが中心に稽古をつけて貰っているため、今年の夏過ぎまでの俺は、若い人たちに遠慮して、館長との稽古は三ヶ月に一度位、館長が空いている時だけにしていたのだった。

しかし、今年の夏過ぎ、今年3回目の館長との稽古に臨んだ時、俺は館長に大きな気づきを与えられ、他の70歳代の六~七段の先生方との指導力の違いを痛感したのだった。


六~七段の先生方は、俺の悪い点を指摘してくれ、俺はそれを直そうと意識して稽古をして来たのだ。

それは、基本稽古の時には良いのだが、地稽古で打ち合いになると、その意識が薄れてしまい元に戻ってしまうのだった。

いつも心の中では、「悪い所は分かっている。では、それを直す為にどういう練習をしたら良いのか?」それが分からないのだった。


俺は40代始めの頃、一時期ゴルフに目覚め、プロコーチに付いて指導を受けた時期があった。

そのプロコーチに付く前の俺は、普通のレッスンプロに習ったのだが、普通のレッスンプロは、悪い点を指摘し、そこに本人の意識を持って行かせて直させようとするのだが、実際にそれではなかなか直らないのが現実なのだ。


そのプロコーチが一流だと思ったのは、単に悪い点を指摘するだけではなく、それを改善する為の具体的練習方法を教えてくれる所にあったのだ。

そういう練習をすることで、悪い所を意識せずとも自然に直っているという結果になるのが、良い教え方だと俺は思っていたのだった。


そしてそれは、案外関係無いように思える様な所の改善点だったりするのだ。

例えるば、腰痛があるからと腰の周辺をいくら揉んでも、一時的に腰痛は軽くなっても根本的な改善がされないと、また直ぐに腰痛になるのと同じようなものだと思う。


俺はゴルフで腰を痛め、最初の頃は良くマッサージに行ったのだが、マッサージでは何も改善されないことを知ったのだ。

その後整体に行き、俺の腰痛の原因は股関節にあったことを知ったのだ。


そう考える俺にとっては、悪い所を指摘することは、誰にでも出来ることなのだ。

大切なのは、それを直す為の具体的方法を教えることが出来るかどうかだと思っているのだ。

それが、指導力の違いだと思っているのだった。


俺は、夏過ぎの館長との稽古の時、構えた瞬間に籠手を打たれたのだった。

そして、それは一度や二度ではなかったのだ。

構え直す度にスパーンと鮮やかな籠手を打ちこまれたのだ。

5~6発連続で打たれたのだった。


その時の俺は何も出来なかった。

そして、館長に言われたのだった。


「なぜ、籠手ばかり打たれるのかわかりますか?」


俺は、左の握力が弱いことが原因なのではないかと館長に言ったのだった。


その理由は、俺は他の先生方からも、打込む時に身体が右に傾くことを良く指摘されていたからだった。

俺はずっとそれを直そうと意識しながら稽古をして来てはいたのだが、なかなか直らなかったのだ。


そしてその原因は、若い頃のバイク事故で左手首のスナップを効かせられないことと、左手には痺れがあり握力が右の6割位しか無く、左右の握力の違いから、どうしても右が強くなってしまうことにあると思っていたのだ。

俺の上達の壁は、ずっと左手にあると思って来ていたのだった。


しかし館長は、それを否定したのだ。


そして館長は、俺の構えを真似て見せたのだった。

その構えは、完全に右手が前に出た構えだった。

その姿は、籠手がガラ空きと同じだったのだ。


そして館長は、構えに握力は関係ありませんと教えてくれたのだ。


言われてみると確かにそうなのだ。

俺はそれまで、打ちこんだ時の姿勢が、右が前に出る形で斜めになってしまっていると思っていたのだが、既に打込む前の構えの段階で右が前に出ているとは、一度も考えたことが無かったのだった。


俺は館長から、俺の考え方自体が間違っていたことに初めて気づかされたのだった。


それまでの俺は、構え自体に問題があるとは露ほども思っていなかったのだ。

なぜなら、俺自身は、真っ直ぐ構えているつもりだからだ。

足も竹刀も、板目に沿って真っ直ぐにしているつもりだったのだ。


この日の俺は、右に傾く原因が左右の握力の差ではなく、構えに問題があることに初めて気づかされたのだ。

しかし、その解決方法は直ぐには教えては貰えず、どうしたら真っ直ぐな構えが出来るかを考えるように言われたのだった。


その日帰宅した俺は、風呂に入る前に裸で洗面所の鏡の前で、構えのカッコを映して見たのだった。

すると、左腰が開いていることに気づいたのだ。


そして、十数年前ゴルフを習っていた時に俺の骨盤が左に少し開いていることを指摘されたことを思い出したのだった。


ゴルフのアドレスの際、球を打ち出す前方以外の三方向からビデを撮影し、それに気づかせて貰ったことを思い出したのだ。


俺の身体は自分が真っすぐに立ったつもりになっていても、骨盤が少し左に開いていたのだ。

いくら自分がアドレスで足元にクラブを置いて、足元と肩のラインをスクウエアに構えても、腰だけは左に開いていたのだ。

自分では気づけなかったのだ。


その為、球はスライス系になっていたのだが、アドレスで骨盤を少し前に押し出すことで骨のラインも真っ直ぐになり、身体の開きが無くなり、それ以降、ドローボールが打てるようになったのだった。

要は、俺の身体の歪みが原因だったのだ。


俺は、鏡の前で、裸で構えたことで、それを思い出したのだ。

俺は、その考えが間違っていないか、次の稽古で試すことにしたのだった。


俺は、次の稽古も館長との稽古に臨んだのだった。

その日は、前回のようには籠手は打たれなかった。

そして、稽古の後、俺は館長に言われたのだった。


「今日の構えは真っ直ぐになっていましたよ」


俺は、前回の稽古の後、以前ゴルフを習った時に、自分の骨盤が歪んでいることを指摘されていたことを思い出し、今回は左腰の位置を修正してみたことを話したのだった。


すると館長は、良くそこに気づけましたねと、普通は手先だけで修正しようとしてしまうのだと、普通はなかなか自分では気づけないと、たった一回で気づけるとは、凄くセンスが良いですよと褒めてくれたのだった。


その時俺は、館長と他の先生方との指導力の違いを感じたのだ。

それ以降俺は、以前のような若い人たちに遠慮する気持ちは捨てて、なるべく館長との稽古が出来るようにしたのだった。


そして、18日の稽古では、今年最後の23日の稽古で、館長との稽古が出来なくなることも考え、今年最後のつもりで館長との稽古に臨んだのであった。


その稽古の中で俺は、この三ヶ月間、常に左腰を意識して稽古をして来たのだが、他の先生との稽古だと真っすぐに打つことに意識が行き、左腰の意識を忘れてしまうのだが、館長との稽古では、考えなくても勝手に意識が左腰に行くことに気づいたのだった。


根本的には、どの先生も同じことを教えてくれているのだが、その教え方、気づかせ方により、受け止める側の意識は全く違ったものになることを知ったのだった。


その日帰宅してから俺は風呂に入り、研修でも悪い所を指摘するだけではなく、その間違いに気づかせ、その修正方法を教え気づかせることの大切さを考えたのだった。

そして、その『教え気づかせること』こそが、『諭すこと』だと気づいたのだ。


するとそこで、俺は前項に記載した彼を心の中で責めていた理由にやっと気づいたのだった。


それまでの俺は、心の中で彼の悪い所を指摘し、指摘するだけだった為に自分で、『責めてしまっている』と思っていたのだが、俺がしたかったのは、『叱咤激励』だったことに気づいたのだった。

彼を諭したいと思いながら、その言葉が見つからず、指摘するだけだった為に、『責めてしまっている』と勘違いしていたのだ。

だから、その裏にある自分の気持ちにも気づけなかったのだと思ったのだった。


俺の気持ちは、彼を心配する気持ちだったのだ。

そして、更に気づいたのだった。

俺は、相手を想い心配する気持ちを他者に見破られるのが、恥ずかしかったり照れくさかったりして、それを誤魔化す為に強い言葉になってしまい、それが相手を責めているように受け止められてしまうのかも知れないと思ったのだ。


振り返ると、研修の時に俺が厳しくした外車のセールスマンの人も、二度目の研修と聞き、『厳しくしなければ』と思ったのと同じように、『心の弱い人なんだな』とも思っていたのだ。

その心配する気持ちが、過剰に反応して相手を責めてしまう形になってしまったんだと気づいたのだった。


それは、離婚前に息子にしていたスパルタと同じだったのだと気づいたのだった。

そしてそれは、グレートマザー元型の負の側面に憑依されたのと同じだったことに気づいたのだ。


その原因は、『過剰に心配する気持ち』であり、その裏には、『大丈夫なのか?』と、相手を疑う気持ちがあり、それは相手を信じる気持ちが薄れていることであり、そこには自分の傲慢さが見て取れるのだった。


俺は、それに気づけて本当に良かったと思った。

もし、それに気づけないまま年を越していたら、俺は悪い状態のまま年を越してしまうところだったのだ。


きっと俺の中の何かが、俺に気づかせるために、研修後もずっと拘り続けさせてくれたのかも知れないと思ったのだった。

そして、こうして書いてみると、改めて、人は成功体験より失敗体験から学ぶことの方が大きいと感じたのであった。


(つづく)

2019年12月29日 (日)

俺の道 ~アラカン編~ 第60回AF研修の巻 (8)

(8)課題

俺は今回の研修の後、ずっとある光景が脳裡に焼き付き、その主人公であるインストラクターを一週間以上、心の中で責め続けていた。


直接言葉に出した訳ではない。

彼が憎い訳でもない。

最近は良く頑張っていると思っていたのだ。


しかし、何故か心の中で彼を責めてしまう俺がいるのだ。


その出来事は二日目昼食前のトレーナー研修の中でのことだった。

あまりにも女々しく、情けなかったのだ。


俺は、その状況を静観した。

以前の俺だったら怒鳴っていたかも知れない。

しかし、今回は言葉にはしなかったのだ。

彼らの成長の為には何も言わずに見守ることだと思い、言いたいのを我慢して静観したのだった。


その後俺がトイレに行くと、後からその彼もトイレに来たのだった。

俺は、彼とのすれ違いざま、「『明日死ぬと思って生きなさい』という言葉を忘れたのか?」と彼に投げかけてトイレを後にし、昼食会場へ向ったのだった。


確か6月か7月の研修で、俺は彼がトレーナー研修の中で、トレーナーに対して話している内容を聴き、俺と似ていると思い、彼に俺の座右の銘の言葉を贈っていたのだ。

だから、その言葉で通じるだろうと思ったのだ。


昼食後、俺がメイン室で研修生全員の状況を観察していると、彼は俺の隣に来たのだった。

彼は笑顔になっていた。

そして、彼が担当の研修生の状況を聞いて来たのだった。


俺は、午前中の試験受けで、彼が担当の研修生の試験を受けていたのだ。

俺は彼に、俺が試験で感じた状況を教えたのだった。

それ以降、俺は自分の試験受けに集中し、彼の事は忘れていたのだ。


しかし、研修を終えてから彼のことを思い出し、心の中でそれを責めてしまっている俺がいるのだ。

自分でもそれが何故なのかがわからないのだ。

何故過ぎ去った、自分には関係の無いそんなことに拘っているのかが分からないのだ。


更には、拘っている原因と思われる自分の感情が何であるのかを観察するのだが、それが分からないのだ。

悲しみなのか、残念なのか、ガッカリなのか、期待を裏切られた様な気持ちなのか・・・。

その他で考えられるのは、嫉妬なのだが、仮に嫉妬だとしたら何に嫉妬しているのかが分からないのだった。


俺は彼の何に拘っているのか・・・。

その拘りには、俺のどういう感情が隠れているのかが分からないのだった。


『怒り』は第二感情であることを知り、その第一感情が何であるのかを探るのだが、今の俺には分からないのだった。


実際、頭の中で彼を責めてはいるのだが、彼を責めている気持ちが、『怒り』によるものなのかも実際の所は分からないのだ。

それとも、どうすべきかに気づいていながら、何も言わずに静観した自分を責める気持ちなのだろうかとも考えたのだ。


あるいは、トレーナー研修に参加している彼らの成長を考えて静観したのだが、それが間違っていたのかとも考えた。


分からないことは考えてもしょうがないと思い、考えることを止めるのだが、しばらくするとまた湧き上がってきてしまうのだった。


もしかしたら、彼に自分の何かを重ね合わせているのかも知れないとも考えたのだが、全く持って分からないのだった。


まぁ、忘れた頃に気づくのかも知れないと思い、一応アウトプットの為に書いてみたのだった・・・。


ただ、彼を見ていて思ったのは、『怒り』の感情以外にも、『悲しみ』や『憐れさ』という感情は、出し始めると増幅していく感情なのかも知れないと思ったのであった。

なぜなら、彼が見せた姿は、『自己憐憫』の姿そのものだったからなのであった。


もしかしたら、『自己憐憫』に関わる何かが、今後の俺の課題なのかも知れないと思わせられたのだった。


(つづく)

2019年12月28日 (土)

俺の道 ~アラカン編~ 第60回AF研修の巻 (7)

(7)未熟さ

俺は今回の研修で、多くの気づきを得られた。

特に『心構え+モティベーション』試験で、先に書いた二人の他にも何人かの合格を出せたことで、穏かに話しながらも気づきを与えられる感覚が少し掴めた感じだったのだ。

しかし、その反面、全力で向って来ない一人の研修生に対し、強烈な俺を出してしまったのだった。


その研修生は、40代後半の外車のセールスマンだった。

俺はそれまで、まだ彼の試験受けを一度もしていなかったのだ。

彼は、『心構え+モティベーション』の試験で、最後まで残った人だった。


試験前に俺は、彼はあと一歩の所まで来ているから、出来たら合格まで引き上げて欲しいと頼まれたのだった。

そして、試験受けの直前にその研修生は、今回が2回目の研修参加であることを知らされたのだ。


その瞬間、俺に変なスイッチが入ってしまったのだった。

2回目と聞き、内心厳しくしないといけないと思ったのだ。


そして、いざ試験を受けてみると、まだ『心構え』さえも出来ていない状況だと思ったのだ。

俺は、その瞬間、「この人はこの二日間、一体何をやっていたんだ?!」という思いが込み上げて来たのだった。


そして、引き上げるどころか、もう一度突き落とさないといけないと思ってしまったのだ。

それからの俺は、以前の厳しさだけの俺に戻ってしまったのだった。


俺は途中でその過ちに気づいた。

しかし、『時、既に遅し』だった。


俺は、別の誰かがきっと彼を引き上げると、インストラクター仲間を信じて、逆にこの場は彼の壁に成り切ろうと決めた。

そして、心構えの合格点に満たない、厳しい点数を付けて、彼にもう一度研修生仲間のみんなにパワーを貰って、再度チャレンジするようにさせたのだった。


試験の後俺は、俺に引き上げ要請をして来たインストラクターに詫びた。

俺はこの3~4ヶ月、厳しさからはかなり遠ざかって来たつもりだったのだが、まだまだだったことに気づかされたのだった。

己の未熟さを感じたのだった。


その後彼は、研修生の仲間たちに励まされ、俺の後2回目の試験で無事合格となったのであった。

合格した彼を、俺が笑顔で向えると、彼は思いっきり抱きついて来たのだった。


そして、次の『感謝』の試験で、俺はその彼の試験を担当することになったのだった。

俺は内心、俺に引き上げ要請をしたインストラクターたちの思い遣りの采配だろうと感じたのだった。


『感謝』の試験受けでは、俺は彼の全てを認めて受け入れたのだった。

そして、合格と共に、彼に一つの言葉を贈った。


『我以外皆師』


これは、俺の来年の指針にすると決めていた言葉だった。

彼は、『我』という文字が自分の名前の一部に入っているから、絶対に忘れませんと喜んで受け取ってくれたのだった。


俺はそんな彼に対し、内心、『出来が悪い子ほど可愛い』という言葉を思い出したのだ。

そして俺も、彼と一緒だと思ったのだった。


(つづく)

2019年12月27日 (金)

俺の道 ~アラカン編~ 第60回AF研修の巻 (6)

(6)無敵の世界とは

俺が、『無敵』の意味を知ったのは、3年半ほど前だった。

そこには、無敵とは、『自分の周りに敵がいない状況』と書かれていたのだ。


それを知った時の俺は、『自分の周りに敵がいない状況』だけでは、敵でも無ければ味方でも無いのもありで、それだと何だか『孤独』のようなものを感じ、あまり良いイメージを持たなかったのだ。


しかし、それをじっくり考えた時、単に『敵がいない』ということではなく、『自分の周りが全て仲間』という状況こそが、本当の『無敵の世界』だと思ったのだ。


単に敵がいない状況だったら、敵を作らなければ良いだけで、それは、味方でも無いという意味にもなると思ったのだ。

でもそれを、より積極的に考え、全てが仲間、『自分の周りの人たち全てが仲間の状況』と考えた時、俺の腑に落ちたのだった。


そしてそれは、研修三日目の最終日、たった二日前に出会ったばかりの見ず知らずの人が、これまでに出会ったことが無い様な『仲間』になるのだ。


それは、研修項目の試験に挑む中で、共に苦しみ、悩み考え、共に励まし合いながら、喜怒哀楽を共有することで生まれて来る信頼感と絆を感じることで得ていくのだ。


そして、それは、研修生同士だけではなく、それまで何度も厳しいことを言われ続けた、試験官であるインストラクターやトレーナーたちのみんなが、研修生の為に壁になっていたことに気づき、自分の周りにいる人たちの全てが仲間であったことに気づくのだった。


それは正に、俺が言う、『無敵の世界』なのであった。


だが、以前の俺はその表現をあまり多用はして来なかったのだ。

しかし、1年位前からその表現を少しずつ使うようになって来て、9月頃からその頻度は急激に増えて来ていたのであった。


そして、俺は今回の研修中にあることを思い出したのだった。

それは、約30年程前に、T学校の研修で、座禅を組みながら聞かされた説法だった。

それは、『天国と地獄』という話だ。


ある時、修行中の僧侶の前に突然神様が現れ、『おまえは天国と地獄のどちらに行きたいか』と問われたのだ。

修業僧は当然天国へ行きたいと思ったのだが、実際に天国というところはどういうところなのか、地獄というところはどういうところなのかというのがわからなかったのだ。


聞いてきている相手は神様なので、間違ったことは言えない。

そこで、修業僧は答える前に神様に聞いたのだ。

『天国とは何ですか?地獄とは何ですか?』と。


それに対し、神様は修業僧の後ろを指さしたのだ。

すると、そこには『天国』、『地獄』と書かれた二つの扉があったのだ。

その扉は外から見た限りは全く同じで、その扉にはそれぞれ小さなのぞき窓が付いていたのだった。


修行僧はその覗き窓から中を見てみるよう、神様に言われたのだ。

修業僧が中を覗いてみると、『天国』の部屋も、『地獄』の部屋も、中は丸っきり同じ状態だった。


扉の中には、直径5m以上もあるような大きな円卓がいくつもあり、その円卓の真ん中にはご馳走が山ほど置かれていたのだ。

そして、その周りには多くの人が円になるように座らされ、全ての人が両手を隣の人と鎖で繋がれていたのだ。

更には、皆、手には自分の背丈ほどもあろうかという長い箸を持たされていたのだった。


中の状態は、『天国』も『地獄』も、丸っきり同じだったのだ。


修業僧は最初、違いがわからず、何が違うのかを神様に聞いたのだった。

神様はまた、扉を指さしたのだ。


修業僧はもう一度、今度はじっくりと中を覗き見たのだ。

すると今度は、大きな違いに気づいたのだった。

それは、中にいる人の状態と状況が違っていたのだ。


『天国』の部屋にいる人たちは、みんな笑顔で福よかだった。

しかし、『地獄』の部屋にいる人たちは、みんないがみ合いやせ細っていたのだ。


修業僧は同じ状態の部屋にいながら、なぜ『天国』と『地獄』で、中の人の状態や状況が違うのか不思議に思い、しばらく部屋の中を覗き続けて両方を比較したのだった。


そして、修行僧は大きな発見をしたのだ。


天国の部屋の人たちは、みんな長い箸を上手に使って、自分の数人先の隣の人に何が食べたいかを聞き、相手が希望するものを取って食べさせてあげていたのだ。


それに対し地獄の部屋の人たちは、みんな長い箸でなんとか自分で食べようとしていたのだ。


しかし、長い箸で食べ物を取っても、それを自分の口に入れることは出来ずに、皆が皆、食べ物を食べられないのは鎖で手を繋がれている隣の人が邪魔をするからだと文句を言い合い、いがみ合っていたのだ。


それを見た修業僧は、『天国』と『地獄』の違いがはっきりとわかったのだ。


周りの状態が同じであるのに、天国の人たちはみんな仲良く福よかなのに対し、地獄の人たちはいがみ合いやせ細っている違いは、天国の人たちは、相手のことを思いやり、相手の望むものを望む時に与えていることに対し、地獄の人たちは、自分のことばかりを考え、悪いことを全て他人のせいにしていることだったのだ。


そして、修業僧は思ったのだ。


「天国と地獄と言っても、自分の周りの状態は何も変わらない。違いは、相手のことを真に思いやり、それを行動に出せるのか、それとも自分のことばかり考え、悪いことを全て他人のせいにしてしまうのかの『心』の違いなんだ」と。


そして、修業僧は神様に答えたのだった。

「私は天国へ行きたいです」と。


その答えに対し神様は、「おまえは天国へ行ける心を持っているのか?」と聞いたのだ。


その問いに対し修業僧は、「今はまだまだ未熟ですが、今からその心を養い、天国に行ける人になれるよう、日々精進します」と答えたのだった。


俺はこの話しを、15年ほど前までの会社をやっていた頃は、社員に対して良く使っていたのだった。

しかし、社員を持たなくなってからは、すっかり忘れていたのだ。


俺は、今回の研修の最中に、この『天国と地獄』の話しを思い出したのだ。

そして、俺が言い続けている、『無敵の世界』とは、生きている内に自らで創ることが出来る、『天国』なのかも知れないと思ったのだった。


そして、俺が常に自分の中で唱えている、『私は無敵の世界の住人です』という言葉は、『私は天国の住人です』と言っているのと同じだと思い、不思議な感覚を覚えたのであった。


(つづく)

2019年12月26日 (木)

俺の道 ~アラカン編~ 第60回AF研修の巻 (5)

(5)信頼の証とは

今回の研修二日目は、前日の『心構え+モティベーション』の継続状態からの開始となった。

本来であれば、初日の終了時点で全員が『心構え』を終えて、次の項目である『モティベーション』に新たに挑む形になるのだが、この日は『心構え』の合格レベルに到達している人が、まだ半数にも達していなかったのであった。


そのような状況の中、本来は二日目の夕食前に『モティベーション』の試験を全員が合格し、夕食後の夜の部で次の項目へ行くのが理想なのだが、夕食前に『心構え+モティベーション』を合格していた人は、まだ半数にも達していなかったのであった。


夕食後は、インストラクターが中心になっての試験受けとなった。

その中で、最初の段階で、俺に義母の介護のトラウマを吐露した男性が、あれ以来2度目の俺との試験となったのであった。


彼は挨拶をし、俺の前の席に着席した後、試験内容を話す前に、俺に礼を言いたかったと言い、初日の俺との試験の後、他のインストラクターやトレーナーたちから色々なことを言われていく中で、俺に言われたことがやっと理解出来たと話したのであった。

そして、やっと自分を許す事が出来た、諭して頂いてありがとうございますと丁寧に礼を述べたのであった。


その顔は、笑顔だった。

この時俺は思ったのだった。


俺が今回の研修で自分自身のテーマとしていた、『静かに、穏かに、それでも心に響く話し方』とは、『諭すこと』だったのだと、この時彼に気づかせて貰ったのであった。

静かに、穏かに、それでも相手の心に響かせ、そして気づいて貰うこと。


今回は、俺との対話の中で、直接の気づきまでには至らなかったが、彼の心に俺の言葉が響いていたことが、彼の言葉から実感することが出来たのだった。

そして、他のインストラクターやトレーナーたちのお陰で、彼は気づくことが出来たのだ。


俺は彼に、俺もそう言って貰えると嬉しいと言って礼を言った。

彼の話からは、『心構え』は合格レベルにあることは、十分に伝わって来たのだった。

しかし、それだけではダメなのだ。


俺は彼に、『変わりたい!変わるんだ!』という、想いは伝わって来るが、これまでの考え方ややり方である、『心のクセ』を直す覚悟を聞いた。


彼は、『あります!』と答えた。

その意気込みは十分伝わって来たのだった。

俺は、『心構え』に対する合格を与えた。


そして、続けて聞いたのだった。


「では、その心構えを基に『ありたい自分』になる為に、今後具体的にどうしていくんですか?」


彼は、必死になって俺に話しをしたのだった。

奥さんと娘を幸せにするために頑張ると。


彼の想いは痛いほど伝わってきたが、俺はそれではダメだと言った。

それだけではダメなんだと。


「今までだって、そうやって頑張って来てたんでしょ?」

「その結果、自分を責めることになり、病気になっちゃったんじゃないの?」

「また、同じことを繰り返すつもりなの?」


それでも彼は、諦めずに必死に俺に向って来たのだった。

彼は、自分が頑張って奥さんと娘を絶対に幸せにすると、何度も俺に訴えて来たのだ。

俺はそんな彼に言った。


「何かを買って貰ったり、して貰ったりした事は本当の幸せなのかなぁ?」

「そう言うのは、一時的な喜びではあるけど、本当の幸せっていえるのかなぁ?」

「俺は、少し違うと思うんだけどなぁ・・・」


「貴方が奥さんとお嬢さんのことを大切に想う気持ちはわかる」

「それは、貴方だけじゃなくて、奥さんやお嬢さんも同じなんじゃないかなぁ・・・」

「そう考えた時、貴方一人が頑張って、貴方から一方的に与えられた幸せで、奥さんとお嬢さんは、本当に幸せなのかなぁ・・・」


彼は言葉に詰まったのだった。


俺は彼の中での葛藤を感じたのだった。

そして、続けて話したのだ。


「幸せって、誰かにして貰うものなのかなぁ?」

「幸せは、人それぞれが自分で感じるものなんじゃないのかなぁ?」


「どう思います?」


「はい・・・」

「私が幸せにしたいんです・・・」


「そうだよねぇ・・・」

「奥さんやお嬢さんが幸せになってくれると、貴方は嬉しいもんねぇ・・・」


「でもさ、貴方が一人必死になって、犠牲になってさ・・・」

「その犠牲の上で、貴方から一方的に与えられた幸せで、奥さんやお嬢さんが本当に幸せを感じられると思う?」


「!」


彼は、何かを感じたようだった。

俺は続けて話した。


「誰かの犠牲の上に幸せは成り立たないんじゃないかなぁ・・・?」

「俺も若い頃は、自己犠牲の精神で、一人で悪戦苦闘していた時もあったんだよね」

「でも、それだと、どんなにお金があっても幸せにはなれないんだよね」


「俺たちの世代はさぁ、とかく精神論で何とかしようとするけど、それだけじゃダメなんだよ」

「具体的な方法論を持っていないとダメなんだよ」

「精神論も時には大切なんだけどね、それだけではダメなんだよ」


「それは、貴方自身、既に気づいているんじゃないかなぁ?」

「でも、どうして良いか分からない・・・」

「だから、最後は精神論に逃げるんだよ」


「だから、心構えが出来ているのに合格出来ないんだよ」

「これまで、良い所まで行きながら合格出来ないのには訳があるんだよ」


彼は、これまでの試験で何度か仮合格のラインには達していたのだが、最後の合格には一歩及んでいなかったのだった。


彼は言ったのだった。


「教えて下さい!」


俺は言った。


「いいよ・・・」

「でも、聞く以上は、俺を信じて最後までやり抜いて貰わないとダメだよ」


「はい!」


「今の貴方は、自分一人の力で何とかしようとしているんだよ」

「貴方は、自分を犠牲にして、奥さんやお嬢さんを幸せにしようとしているんだよ」


「貴方は、奥さんやお嬢さんが幸せになってくれれば、自分が幸せになれると思っている」

「だから、必死になって奥さんとお嬢さんを幸せにしようと思っているんだ」

「違いますか?」


「違いません、そうです」


「では、聞くけど、貴方が奥さんやお嬢さんの立場になったとして、お父さん一人が自己犠牲の精神で、苦労して何かを買ってくれたり、何かをしてくれたりして、貴方は本当に幸せだと思えますか・・・?」


「・・・」


「人は何かをして貰えれば、それは嬉しくて喜ぶかも知れない」

「でも、それは一時的な喜びではあっても、本当の幸せではないんだよ」


「これは、さっきも話したよね」

「でも、敢えて繰り返して言うよ」


「なぜなら、今までの貴方はそれが正しいことだと思っていたんだよ」

「でも、これまでの貴方が生きて来た結果として、それは間違っていたこと、正しくなかったことを、貴方が心底受け入れて、自覚しないといけないんだよ」


「だから、また、同じ過ちを犯そうとしているんだよ」

「わかるよね?」


「はい・・・」


「だから、『変わる』という決心をし、変わる為にはどんなに不慣れなことにでもチャレンジして・・・」

「はじめは違和感を抱えながらも、それが違和感を感じずに、意識しなくても無意識で出来るようになるまで、諦めずにやり続ける覚悟を持ったんだよね?」


「はい!」


「でも、貴方は懲りずにまた同じような考え方をしていたんだよ」


「はい・・・」


「それは、貴方が50年以上生きて来た中で身に付いてしまった、『心のクセ』なんだよ」

「クセってさ、直すのって凄く大変だと思わない?」


「思います・・・」


「そうだよねぇ」

「だから、『心構え』が大切なんだよ」


「はい」


「話しを基に戻すけど、まず家族を幸せにしたいと思うなら、まずは、貴方自身が幸せにならないといけないんだよ」


「貴方自身が幸せになることによって、家族も幸せになれるんだよ」

「誰か一人が苦しんでいたりしていては、みんなはなれないんだよ」

「一人一人が自ら幸せになることで、みんなが幸せになれるものなんだよ」


「わかるよね?」


「はい」


「そう考えたら、仕事で働いている時に、全く幸せを感じられない、あるいは頑張るだけで、ストレスばかりを抱え込むような働き方をしていては、幸せにはなれないんだよ」


「なぜなら人は、一日24時間の内、起きている時間の大半を『仕事』という時間に費やしているからなんだよ」

「だから、人生の大半は、働いている時間になるんだ」

「その働いている時間そのものが、自分の生きがいや遣り甲斐になる働き方をしないと、人は幸せには遠く離れてしまうことになるんだよ」


「わかるよね?」


「はい・・・」


「じゃあ、聞くけど、どうしたら働くこと自体が生きがいや遣り甲斐になるのかな?」

「人は、やりたくない仕事も一杯やらなきゃいけないよねぇ」

「そういう状況の中で、どうしたらいいと思う?」


彼は、またしても精神論を述べたのであった。

そして、俺は言ったのだった。


「ほら、また精神論だ」

「それが、貴方の心のクセなんだよ」


「・・・」


「ここからが、最も重要なことだから、良く聴いてよ」


「はい・・・」


「まず最初に、一緒に働く人たちを家族の様な大切な仲間だと信じるんだよ」

「そして、俺の場合だけどね、次にやったのは・・・」


「まず、みんなに俺の悪い所や直したい所を話して、そういう悪い俺が出て来ちゃった時は、注意してくれるようにお願いしたんだよ」

「俺よりも遥に若い子たちに」


「!!!」


彼は、衝撃を受けた様子で涙を流し始めたのだった。

俺は続けて話した。


「もう気づいたよね・・・」

「人は、自分の弱さを隠そうとするんだよ」

「そして、強がるんだよ」


「その結果、無理をすることになるんだ」

「そして、自分の悪い所を指摘されると、責められているように感じるんだよ」

「そして、周りの人を敵だと勘違いしてしまうんだよ」


「その結果、周りを頼らずに一人で何とかしようとするんだよ」

「お母さんの介護の時もそうだったんじゃないの?」


「本当はみんな、貴方の為を思って、心配して言ってくれているのに」

「みんなは貴方を助けたくて手を差し伸べてくれていたのに、貴方はそれを拒絶して来たんじゃないの?」


彼は、号泣しながら、無言で何度も頷いたのだった。


俺は、彼が落ち着いて顔を上げるのを待った。

彼が顔を上げると、彼の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。

俺も同じだった。

俺は、続けて話した。


「人は、自分の弱さを隠して強がろうとする」

「でもそれは、周りから見たら、自分の弱さを晒していることなのに、本人はそれに気づかないんだよ」


「逆に、自分の弱さを認めて、受け入れて、その弱い部分を仲間にカバーして貰おうとするのが、本当に心が強い人のすることなんじゃないのかなぁ?」


「自分の弱さを必死に隠して強がっている人と、自分の弱さを認めて協力を求める人のどちらがカッコイイと思う?」

「どちらが、心が強い人間だと思う?」

「どちらが魅力的な人間だと思う?」


「後者ですね・・・」


「そうだよね・・・」


「更に言えば、自分から、そういう悪い自分が出て来てしまった時に注意してくれるように頼んでおけば、注意して貰ったら、それは感謝の気持ちになるんだよ」

「あっ、またやっちゃった、ごめんなさいって・・・」

「でも、注意してくれて、ありがとうってね・・・」


「俺なんか、何度も注意されたよ」

「でも、それが続くと、その内注意される時の流れとか雰囲気が分かって来て、注意される前に自分で気づけるようになるんだよ」


「同じことを繰り返しそうになった時に、自分の中で、あっ、やばいってブレーキが掛かるようになるんだよ」

「そうなってくると、知らない内に意識しなくても注意されなくなってくるんだよ」


「でも、頭の中だけで、自分の精神力だけで何とかしようとしているとさ・・・」

「頭では最初の内は注意してくれていると思っていても、それが続くと、次第に心の中では自分が責められているように感じて、相手を責めたくなったり、自己嫌悪や自己否定の方へ気持ちが行ってしまうんだよ」


「特に、貴方のように責任感の強い人はそうなりがちなんだよ」

「俺もそうだったんだよ・・・」

「そうすると、また元に戻ってしまうのと同じなんだよ」


「わかるかな?」


「はい、確かにそうですね・・・」


「人間は、何度も同じミスを繰り返す生き物なんだよ」

「でもそれを変えて行く為には、自分一人の力ではダメなんだよ」

「そこで、諦めずに何度でも注意してくれる、頼れる仲間の存在が必要なんだよ」


「そして、その注意を、謙虚に感謝の気持ちを持って受け止められる心が必要なんだよ」

「その心を創る為には、自分で自分の弱さを認める勇気が必要なんだよ」

「そして、それを注意してくれる様にお願いする勇気」


「それは、相手を信じて頼るということなんだよ」

「それこそが、相手を信頼するということなんだよ」


「貴方は、逆の立場になって、もし、自分のダメなところや弱い所を打ち明けられて、それを直す為に力を貸して欲しいと頼まれたらどう思う?」


「嬉しくないか?」

「自分は信頼されていると思わないか?」

「この人の力になりたいと思わないか?」


「思います・・・」


「そうだよねぇ・・・」

「人は信頼には、信頼で応えようとするんだよ」


「じゃあ、そういうお互いの信頼関係を築くにはどうしたら良いと思う?」


「自分から信頼する・・・?」


「そうなんだよ」

「その信頼の証が、自分から弱さを打ち明けて、それを直すために頼ることなんだよ」

「逆に、弱さを隠すと言うことは、相手を信じていない証しになってしまうんだよ」


「わかるよね?」


「はい」


「あなたは、これまで自分の弱さを必死に隠して、それを一人で何とかしようとして来ていたんだよ」

「それは、相手を信頼していない証拠になってしまっていたんだよ」


「貴方は、周りに迷惑を掛けたくないと思って来たのかも知れないけど、その思いが逆に、みんなを信じずに迷惑を掛けて来ていたんだよ」


「もう、わかるよね?」


「はい」


「貴方は、もう自分の弱さに気づいたはずだ」

「自分自身がそれを認めて、受け入れて、自分の口からみんなに話し、みんなに力になってくれるように頼むんだよ」


「自分の周りにいる人たちは、みんな仲間なんだと信じて頼るんだよ」

「そうすれば、周りのみんなも貴方を信頼してくれるんだよ」

「そういう、互いに信頼関係で結ばれた仲間と、毎日生き生きと働けたら幸せだと思わないか?」


「思います!」


「毎日働くこと自体に幸せを感じられるようになったら、自然と家族みんなも幸せになれると思わないか?」


「思います!」


この時の彼は、既に泣き顔ではなく、笑顔になっていたのだ。

俺は、彼に問い掛けたのだった。


「それが貴方に出来るかな?」


彼は答えた。


「できます!」

「絶対にやります!!」


俺は言った。


「貴方の目を見ていればわかる・・・」


俺が次の言葉を言おうとした、その瞬間だった。

彼はおもむろに俺に握手を求めて来たのだった。

俺は笑いながら言ったのだった。


「まだだよ・・・」

「では聞く・・・」

「この研修を終えて会社に戻って、一番最初にやるべきことは何だと思う?」


「みんなにこの研修で気づかせて貰ったことを話して、協力して貰えるようにお願いします」


「そうだよな、でもそれは、さっき俺が話したことだよな・・・」

「それは間違いではない」

「でも、その前にやるべきことがあるんじゃないのか?」


「・・・」


「みんなこれまでずっと、貴方の事を心配してくれていたんじゃないのか?」


彼は、ハッとして、涙を流して話し始めたのだった。


「そうですね・・・」

「まずは、みんなに謝らないと・・・」


「そうだよなぁ・・・」

「なんて謝るんだ?」


「今まで心配かけて申し訳無かったと・・・」


「そうだよな」

「じゃあ今、俺をその仲間だと思って謝ってみたらどうだ?」


彼は、俺を会社の仲間に見立て、これまでの自分の非を涙ながら詫びたのだった。

俺は、彼の心からの懺悔を感じ、涙しながらその想いを受け止めたのだ。

そして、俺は言ったのだった。


「そうだよな・・・」

「それでいい・・・」

「心から謝った時、今度はありがとうという気持ちも生まれて来るだろ?」


「はい」


「そういう気持ちになった時、本当に心の底からみんなを仲間だと思えるだろ?」


「はい!」


「これで貴方は、本当のスタートラインに立ったんだ」

「今、俺と話したことを会社に帰ったら、必ず実践するんだ」


「出来るよね?」


「はい!」

「必ずやります!」


「約束だぞ」


「はい!」


「信じるぞ」


「はい!」

「信じて下さい!!」


「よし!」

「俺は貴方が絶対に変われると信じる!」


「合格!!」

「バン!!」


「おめでとう!!」


俺は立ち上がり、彼と握手をし、そしてハグをした。

そして、彼の耳元で囁いた。


「自分の周りには敵は一人もいない、自分の周りはみんな仲間なんだ」

「そういう世界を『無敵』と言うんだ」

「無敵の世界を、貴方が創るんだよ」


「はい!!」


「貴方なら出来る」

「俺は、そう信じているからな!」

「負けるなよ!」


「はい!!」


こうして、彼の長かった『心構え+モティベーション』の試験は終わりを告げたのであった。


今回の研修では、俺は彼を多少なりとも諭せたのかも知れず、俺が目指すべき方向をハッキリと感じることが出来たのだった。


更には、彼の介護による心の傷は、これからの高齢化社会では、既に当たり前に近い世界になっているのかも知れないとも感じたのだった。

そして、『老い』という問題に対し、俺自身が改めて考えなければならない問題なのかも知れないと痛感させられたのであった。


彼との対話は、初日と二日目それぞれ一回ずつで、時間にしたら合計で90分前後だったのではないかと思う。

これまでの『心構え』と『モティベーション』の項目が別の時は、1回当たりの時間を短くして回数を多くしていたのだが、今回の合体パターンでは、試験受けの回数は減り、その分一回の時間が長くなっていたのだ。


その分、彼の様なケースで深く話しを聴くことが出来たことは、俺にとっても大きな学びとして深く心に刻む事が出来たのだった。

もしかしたら、合体パターンの方が俺には向いているのかも知れないと思ったのであった。


(つづく)

2019年12月25日 (水)

俺の道 ~アラカン編~ 第60回AF研修の巻 (4)

(4)不慣れなことに取り組み続ける覚悟

この日の夜の部は、19:15から始まり、メイントレーナーの話しの後、19:45頃から試験が再開されたのだった。

俺は何人かの試験を受けた後、再度30歳の青年が俺の所に回って来たのだった。


俺は、この青年に対しては、『まだ誰にも話したことが無いこと』を話してくれたことで、彼に対する理解は深まっていた。

そこで俺は、彼に対し、ある試みに挑むことにしたのだった。


彼は、俺の前に座ると、俺の目を見て目を潤ませていた。

そして、前回の話しに続き、奥さんと息子、そしてもう直ぐ生まれて来る娘の為にも、自分が変わらないといけないと話した。


彼の「変わりたい」という想いは、十分に俺の心に伝わって来た。

しかし、「変わりたい」という想いだけではダメなのだ。


人は誰もが変わりたいと願っている。

しかし、その殆どが変われないのが現実だとも俺は思っている。

本当に変われるのは一握りの人間だけだと思う。


そして、このAF研修に参加して来た人には、その一握りの人間に入って欲しいと俺は想い、一人一人に相対しているのだ。

特に俺と縁あって、試験という形での出会いではあっても、共に真剣に向き合った人には、その想い入れは強くなってしまうのが現実だった。


だから、中途半端な対応は出来ないのだ。

限られた時間の中で、全力でぶつかり、そして受け止めるのが、俺の出来る唯一の方法だった。


ただ、これまでの俺は、その全力が『熱さ』であり、『強さ』となって表れていたのだが、それを『優しさ』に変えたいと思っていたのだ。

それが、今回の研修での俺自身の最大のテーマだったのだ。


俺は、彼に聞いた。


「日本には四季がある」

「なぜだか知っているかい?」


彼は答えに詰まった。

俺は続けて聞いた。


「春は何のためにあると思う?」


「・・・・・・?」


「夏は何のためにある?」


「・・・・・・?」


「秋は何のためにある?」


「冬のため・・・?」


「冬は何のためにある?」


「春のため・・・?」


「そう、春の準備のためだ」

「春は何のためにある?」


「夏の準備のため・・・?」


「そうだ」


「夏は何のためにある?」


「秋の準備のため」


「そうだ」

「日本の四季と言うのは、全て次の季節の準備の為にあるんだよ」


「では、昨日は何のためにある?」


「今日のため・・・?」


「今日の準備のためだ」

「では、今日は何のためにある?」


「明日の準備のため」


「そうだ」

「明日はなんのためにある?」


「明後日の準備のため」


「そうだ」

「では、今は何のためにある?」


「・・・」


「未来の準備のためだ」


「良いか、これから俺が話す事をシッカリと胸に刻んで欲しい」

「心構えとは、心の準備のことなんだ」


「人間は、『今』という時間を積み重ねて『未来』に向って生きて行く生き物なんだよ」

「『今』は、通り過ぎてしまったら、既に『過去』になるんだ」

「だから、『今』を全力で生きられない人に、明るい未来は来ないんだよ」


「わかるか?」


「はい」


「1年後、君は二人の子どもたちにとってどんなお父さんになっている?」

「同時に、奥さんにとって、どんな夫になっているんだ?」

「3年後、どんなお父さんになっている?」

「あるいはどんな夫になっているんだ?」


「・・・」

「考えていませんでした・・・」


「そうだよなぁ、ほとんどの人が、ああなりたい、こうなりたい、変わりたい、みんな漠然とは考えているんだよ」

「昇給したい、昇格したい、もっと良い家に住みたい、もっと良い車が欲しい、欲望ばかりなんだ」

「そして、昇給し、昇格していけば、幸せになれる、理想の自分に近づけると思っているんだよ」


「若い頃の俺もそうだった」

「常に一番を目指していた」

「常に誰かと競っていた、闘っていたんだよ」


「だから、誰よりも勉強し、誰よりも仕事をした」

「その結果、一番にもなったし、独立もし、一時的には人より多い金も手にしたこともあった」

「それで、楽しくもあったし、喜びもした」


「でも、それは一時的なもので、幸せではなかったんだよ」


「人は、昇給昇格を目指して知識や技術を身に付けていけば、それなりに仕事が出来る様にはなって行く」

「そして、そうなって行けば、当然幸せになれると思っているんだ」


「でも、ありたい自分ではなくなって行くんだよ」

「みんな成功することが、幸せになることだと錯覚しているんだよ」


「わかるか?」


「はい」


「でも、違うんだよ」

「どういう人間でありたいのか、どういう夫でありたいのか、どういう親でありたいのか」

「人間として幸せになるためには、そっちの方が遥に大切なことなんだよ」


「でも、そのための準備は何もしていないのが現実なんだよ」

「ただ日常の中で、仕事や家事、育児とかに追われ、何の準備もないまま、忙しさの中で時に流されていくんだ」


「君だってそうじゃないのか?」


「そうですね・・・」


「みんな、今の自分になりたいと思ってなっている訳ではないんだよ」

「みんな、それなりに一生懸命生きて来た結果が、今なんだよ」

「そして、みんな、そんな自分を変えたいと思っているんだよ」


「それは、ほとんどの人が、今の自分が、心底自分が望んだものではないという証拠なんだよ」

「今の自分が、心底自分が望んだ自分であるなら、変わる必要なんてないだろ?」


「そうですね」


「一生懸命生きて来て、気が付いたら今の自分になってしまっていたんだよ」

「だから、変わりたいと思うんだよ」


「君だってそうだろ?」


「そうですね・・・」


「でも、ほとんどの人間が変われないんだ」

「なぜだと思う?」


「・・・」


「未来に対する準備が出来ていないからなんだよ」

「今よりも、もっと幸せになりたいとみんな思っているんだ」

「それなのに、幸せになるための準備はしていないんだよ」


「幸せになるための心の準備が出来ていないんだ」

「それは、心構えが出来ていないということなんだよ」


「それでも人は、変わりたいという」

「今の自分を作って来たのは、これまでの考え方ややり方なんだよ」


「今の自分を変えたいと思うのなら、まずは、全てでは無くても、これまでの考え方ややり方が間違っていたこと、あるいは正しくなかったことに気づかないといけないんだ」

「これまでの考え方ややり方だけでは、自分が望む自分にはなれないことに気がつかないといけないんだよ」


「それは、『自覚』するということなんだ」

「人は、自分の間違いを自覚して、初めてこれまでの慣れた考え方ややり方を変えなければいけないと心底思えるんだよ」


「わかるか?」


「はい」


「これまでの慣れた考え方ややり方は、習慣になり、その人の心のクセになってしまっているんだよ」

「変わりたいのであれば、今までの慣れた考え方ややり方を変えないといけないんだ」

「慣れた考え方ややり方というのは、自分にとって楽な考え方ややり方ということなんだよ」


「でも、慣れた考え方ややり方は、既に無意識でそうなってしまっているんだよ」

「それを変えて行く為には、意識的に今までとは違う、慣れていない考え方ややり方をして、今までの慣れた考え方ややり方を変えていかないといけないんだ」


「わかるか?」


「はい」


「新しい考え方ややり方は、今までとは違った、慣れていないものだから、最初の内は、かなり違和感が出るんだよ」


「その違和感は、これで良いのか?という不安や疑念も生む」

「そして、それは周りから見ても、これまでとの違いを感じて違和感に映るんだよ」


「あいつ、何か変だぞ・・・みたいな感じでな」

「それは、恥ずかしさや照れくささを生んだりもするんだ」


「変われない人はみんな、変わろうとはしても、そういう違和感や不安感に負けて、元に戻ってしまうんだよ」

「元々慣れていた前の考え方ややり方に戻っていくんだ」


「この元々の考え方ややり方を変えて行かないことには、人は自分が望むような未来には変えていけないんだよ」


「さっき話しただろ?」

「今は、未来の準備のためにあるって」

「自分の未来を変えたいと思うなら、『今の自分』を変えないと、何も変わらないんだ」

「状況や環境と言った、自分の周りや世の中は変わって行っても、自分自身は変わらないんだよ」


「わかるか?」

「はい・・・」


「でも、たった一つだけそれを変えて行くことが出来る方法があるんだよ」

「知りたいか?」


「知りたいです!」


「でも、知っただけでは変われないんだよ」

「変わる為には、知ったことを実践しないといけないんだよ」

「君は知った後、その方法を実践していく勇気はあるのか?」


「あります!」


「そうか、じゃあ、教えよう」

「まず、最初に『絶対に変わりたい!』、『変わるんだ!』と決心することだ」


「はい!そう思っています!」


「そうだよな、それは最初の君の話しで、俺はその想いは感じた」

「でも、それだけではダメなんだよ」


「本当に大切なのは、『覚悟』なんだ」


「今までにやったことの無い、慣れていない、新しい考え方とやり方を身に付けなければいけないんだ」

「人は、慣れていないことには、最初、違和感や不快感を感じるんだよ」

「でも、その違和感や不快感を感じながらも、どんなに周りから変な目で見られても、違和感や不快感を感じなくなるまで、『意識しなくても無意識でそう出来るようになるまでやり続ける』という、『覚悟』が必要なんだよ」


「人間は慣れの動物なんだよ」

「今まで慣れ親しんだ、楽な判断や決断、それに伴った楽な行動」


「そういった自分にとって楽な方を選択する生き方から、自分にとって、最初は慣れずに大変な判断や決断、そして行動を、奥さんや子どもたちとの幸せの為に選択して、それに慣れるまでやり続けていくという『覚悟』が必要なんだ」


「この違和感や不快感は、1週間や2週間で無くなるものではないんだ」

「1ヶ月、3ヶ月、半年、あるいは1年、長いものでは3年とか5年とか掛かるものもある」


「でも、人間は慣れの動物だから、やり続ければ、必ずいつかは意識せずとも無意識で出来るようになっていくんだ」


「自転車に乗ったり、車の運転と同じなんだよ」

「その時、その人は本当に変わったと言えるんだ」

「そうなるまで頑張り続ける『覚悟』は、君にあるのか?」


「あります!」


「そうだよなぁ」

「今、1歳の長男、そしてもう直ぐ生まれて来る長女のことを考えたら、こんな所で諦めている訳にはいかないもんなぁ」


「じゃあ聞くけど、直ぐに怒ったり、イライラしてしまう自分をどうやって変える?」


「・・・」


「君は今、俺に教えて貰いたいと思っているよなぁ・・・」


「はい・・・」


「今の君は、素直で謙虚になっている」

「目を見ていればわかる」


「謙虚というのは、『教えて下さい』という気持ちだ」

「そして、その教えて貰ったことを、良いも悪いも無く、全て『はい』と言って、受け入れて、まずはやってみることが『素直な気持ち』なんだ」


「人はとかく、人に注意されても分かった振りをしたり、分かっているつもりになったりする」

「更には、やったらどうなるのかと、やってもいない内から結果ばかり気にして何もやらない人もいる」

「そして、少しやって直ぐに良い結果が出ないと、諦めて人のせいにしたりする人もいるんだ」

「そういう人は、何をやってもダメなんだよ」


「どんなに謙虚になって教えて貰っても、それを良いも悪いも無く、素直に受け入れて、何かの気づきを得るまでとことんやってみる『素直な気持ち』が合わさってないとダメなんだよ」

「謙虚と素直は、セットになって初めてその力を発揮するんだよ」


「わかるか?」


「はい!」


「まずは、その、『謙虚な気持ち』と『素直な気持ち』を持ち続けること」

「いいかい?」


「はい!!」


「では、聞こう」

「君は、何度か教えたことを覚えてくれない後輩や部下に対して、直ぐにイライラしてきつく当たってしまうといっていたよなぁ」


「はい」


「もし、その後輩や部下が、自分の子どもたちだったとしたら、同じようにきつく当たることは出来るのかなぁ?」


「!!!」

「出来ません・・・」


「何度でも、出来るようになるまで優しく教えてあげるんじゃないのか?」


「そうですね・・・」

「出来るようになるまで教えますね」


「人間なんだから、怒る気持ちやイライラしてしまう気持ちが出て来てしまうのはしょうがないことだ」

「でも、それをただ我慢するだけでは、結局どこかでそのストレスを発散しなければならなくなるんだよ」

「それでは、元の木阿弥だろ?」


「そうですね」


「だったら、それをどうやってコントロールするかだと思わないか?」


「はい、そう思います」


「君の所の長男は、もう歩く様になったか?」


「はい、少し歩き始めたところです」

「しょっちゅう転んでますけど」


「子どもは何度も転んで、何度もテーブルに頭をぶつけて泣いたりするよなぁ」


「はい、うちの子もしょっちゅう泣いています」


「でも、親たちはそれをなだめたり、励ましたりするよなぁ」

「そして子どもは、諦めずにまたチャレンジして、次第に歩けるようになっていくんだ」


「一度や二度転んだから、失敗したからと言って、怒るか?」


「怒りませんね」


「そうだよなぁ、歩けるようになるまで励ますよなぁ・・・」

「そして、歩いてくれたら一番喜ぶのは、励まして来た自分たちなんじゃないのか?」


「そうですね」


「俺の言いたいことがわかるか?」


「はい」


「最初は難しいかも知れない、違和感があるかも知れない」

「でも、会社で働く仲間を自分の家族と同じように、大きな家族だと思うんだよ」

「年下なら弟や妹、年上なら兄や姉、俺みたいに歳が離れていたら、親父や叔父、そんな風に考えて、自分の周りにいる人たちはみんな、家族の様な仲間なんだと思うんだ」


「なかなか覚えてくれない後輩や部下は、君に教え方を上達させるチャンスを与えてくれている、仲間なんだと考えるんだ」


「そうすれば、今までより怒ったり、イライラしたりする気持ちは減っていくはずだ」

「最初は大変でも、毎日毎日そう思い続けていれば、次第にイライラではなく、感謝する気持ちが生まれて来るはずなんだよ」


「わかるか?」


「はい」


「今までみたいに、直ぐに怒ったり、イライラたりして、その気持ちを家に持ち帰って行ったら、子どもたちは言葉は分からなくても、雰囲気で察知するんだよ」

「そして、そういう目に見えない小さなものが積り積って行くと、将来の子どもたちのいじめとかに繋がって行ったりするんだよ」


「それで幸せになれると思うか?」

「ハッピーになれると思うか?」


「なれませんね・・・」


「そうだよなぁ」

「それよりも、職場で共に働くみんなが家族の様な仲間で、少しでも良い会社にして行く為に、みんなで役割を分担して力を合わせていけたら、その仲間たちと共に働くこと自体に生きがいや遣りがいを感じられるんじゃないのかなぁ?」

「そうなったら、働くこと自体がハッピーになるんじゃないのか?」


「毎日ハッピーな気持ちで働けたら、家に帰ったらもっとハッピーになれるんじゃないのか?」

「そういう働き方が出来たら良いと思わないか?」


「良いですね!良いと思います!!」


「なかなか仕事を覚えてくれない、後輩や部下も敵ではないんだ」

「仲間なんだ」


「少し不器用なだけなんだよ」

「そういう、少し出来が悪い弟たちを上手く指導出来るようになった時、君は教え上手になっているんだよ」


「はい!」


「では、もう一度聞く」

「今までの慣れた考え方ややり方を変えて行くために、最初は不慣れで、違和感や不快感を持ちながらも、新たな考え方ややり方を、無意識で出来るようになるまで、自分の習慣になるまでやり続けて行く覚悟はあるか?」


「はい!あります!」


「壁にぶち当たって悩む時もあるかも知れない・・・」

「苦しくてどうしようも無くなる時もあるかも知れない・・・」

「三歩進んで二歩下がる時もあるかも知れない・・・」


「それでも大切な奥さんや子どもたちとの幸せのために、変わることを諦めないで頑張り続けていく覚悟」

「その覚悟が、君にあるのか?」


「はい!あります!!」


「よし!君の覚悟は、目を見れば分かる!」

「今の君は、絶対に変われると、俺は信じる!」


「君の『心構え』は、合格だ!」

「そうしたら、次はモティベーションだ」


「君は今、『心構え』で絶対に変わるという決意と、そのために、どんなに不慣れなことでも、慣れるまでやり続けて行くという覚悟を持った」


「それは、会社でも家庭でも、君の人生において、『絶対に幸せになる!』という、未来に対する君の心の準備が出来たと言うことだ」


「では、その心構えに基づいて、今後具体的にどうして行くのかを考えるのがモティベーションだ」

「さっき話した、自分の周りに敵が一人も居ない、全ての人が仲間の世界のことを何と言うか知っているか?」


「・・・」

「わかりません・・・」


「敵が一人もいない、周りの人全てが仲間」

「それを、『無敵』と言うんだ」


「!!!」


「この研修が終わる三日目に、君はその無敵の世界がどんなものであるのかを現実のものとして体現することが出来る」


「モティベーションは、そういう世界を創る為に、君自身が何をどうして行くのかを考えて実践し、身に付けて行くことなんだよ」


「次の試験からは、今俺が話して聞かせた事で、君が感じた想いを、君自身の言葉で話すんだ」

「それが出来た時、君の『心構え』は、より強固なものになる」

「そして、自分自身のものになる」


「その上で、何をどうしていくのかを相手に伝えるんだ」

「わかったか?」


「はい!」


こうして、彼の『心構え+モティベーション』試験の内、『心構え』部分についてのみの合格を俺は与え、次に向わせたのであった。

俺はこの後、もう一人にも同様に『心構え』のみの合格を与えた。


『心構え+モティベーション』の合体試験が始めての試みであったことから、最初は多少の戸惑いもあったが、この時点での俺は、合体方式に何となくの手ごたえを感じ初めていたのだった。


そして、俺自身に掲げていたテーマである、『熱さと強さ』を『優しさ』に変える話し方。

いつもの熱い語り口ではなく、静かに、穏かに、それでも相手の心に響く話し方にも多少の手ごたえを感じ始めた俺なのであった・・・。


(つづく)

2019年12月24日 (火)

俺の道 ~アラカン編~ 第60回AF研修の巻 (3)

(3)介護の傷

30歳の青年の次に来たのは、52歳で管理職の男性だった。


その男性の企業側からの要望書には、以前はやる気溢れる営業部長だったが、ここ数年うつ病になり、配置転換したが効果が薄く、現在も不安定な状況が続き、以前のように戻って欲しいというものだった。


彼は、俺の前に座り、自分の長所と短所を簡単に話したかと思うと、俯き黙り込んで考え出したのだった。

俺は、まだ何も話していなかった。

俺は、彼から出て来る言葉を待った。


彼が顔を上げて俺の目を見つめると、いきなり、「まだ、誰にも話したことが無いことなんですが、話しても良いですか?」と聞いて来たのだ。


俺は内心、さっきの彼といい、「誰にも話したことが無い話しが続くなぁ・・・」と不思議に感じながらも、「良いですよ」と答えたのだった。


彼は岩手の出身で、彼の奥さんは奥さんのお母さんが40歳の時の子どもの一人っ子で、奥さんのお父さんは奥さんが若い頃に既に亡くなっていて、母子二人暮らしであり、彼が次男であったことから婿養子に入って結婚したのだと話したのだった。


そして、義母が80歳になる頃からボケ始め、奥さんと二人共働きでありながらも、協力して介護をしてきたが、7~8年前から急激に悪化し、その壮絶なる介護の状況や東日本大震災では義母を抱えて逃げたことなどが語られたのだった。


そして、義母が90歳になる頃には老化で皮膚が弱まり、抱えあげただけで皮膚が剥がれたりしたことで、病院に連れて行くと虐待を疑われたりで、彼は精神的に追い詰められ、その限界を超えた時、彼は義母に対し殺意を持ってしまったことを涙ながらに語ったのだった。


そして、今年の5月に義母は亡くなったのだが、毎日仏壇に手を合わせて謝っていると話したのだった。


彼は、義母が若い頃は、孫の面倒も良く見てくれ、優しかった義母に対し、一時的ではあるにせよ、殺意を持ってしまった自分自身を許せずに責め続けていたのだ。


それは、彼の奥さんや娘にも、誰にも言えなかったと、彼は涙ながらに話したのだ。


俺は、彼の痛みや苦しみ、自己嫌悪や自己否定、責任感から生じる無力感など、感じられるもの全てに共感し涙した。


更には、義母の自分で自分が誰かも分からず、家族のことも家族と思えず、それでも生き続けている気持ち、『死にたくても死ねない辛さ』、『無意識とは言え、子どもたちに苦痛を与え続けてしまっている親の辛さ』など、彼の義母の想いも共感したのだった。


俺は4年前、親父の死で絶縁状況になっていた祖母が亡くなったことを知った。

その祖母の死は、俺に『人間としての生きる意味』と、『人間としての死ぬ権利』を問いかけられたようなものだったのだ。


祖母は、俺が16で家を出た数年後から、親父と同居していた。

そして、親父の死後は、弟の叔父が面倒を見ていたのだが、叔父も癌で亡くなり、叔父が亡くなった後は叔父の嫁が面倒を見ていたのだが、その嫁も認知症になり、誰も面倒を見る者が無く、行政の管理下に置かれていたのだ。


亡くなる前の数年間は、意識の無いまま、鼻からチューブで繋がれ、栄養だけを送りこまれ、丸々と太った呼吸だけをしている肉の塊のようになっていたのだ。

俺が知っている祖母の面影は一切無かった。

変わり果てた姿だったのだ。


二人の息子は先に亡くなっているというのに、意識の無いまま呼吸だけしているだけだったのだ。

その姿は丸で、病院の入院費を払う為だけに、無理矢理生かされているようだった。


俺は、離婚直後にその事実を知り、病院を訪れ、チューブを抜いて死なせてあげることが出来ないのかと聞いたのだが、病院側としては、それは殺人になることから、出来ないことだったのだ。

その姿は、人間としては、あまりにも憐れで、無情さを痛感したのだ。


医療の発達により、簡単には死ねない、死にたくても死なせてくれない、苦しさや辛さをその時の俺は痛感したのだった。


その病院は、普通の病院とは全く違っていた。

昼間だというのに、受付は病院の人ではなく、警備員だった。

ナースステーションさえ無かった。


意識の無い、ただ呼吸だけをしているような人たちや、意識はあっても既に自分が誰かも分からなくなっている人のためだけの病院だった。

医師も看護師も見当たらず、見舞客は一人もいなかった。

誰も居ない静まり返った廊下に時々響いて来る音は、呻き声だけだった。


探し回ってやっとの思いで見つけた看護師の顔つきは、常人とは思えないものだった。

もはやそれは、人間の病院と言える様なものではなかったのだ。

病院とは名ばかりの『生き地獄』のようだったのだ。


俺の脳裏にその時の光景が蘇って来たのだった。

俺は彼に言った。


「貴方は悪くない」

「貴方が出来ることは精一杯やったんだ」

「しょうがなかったんだ」


「もう自分を責めなくて良い」

「もう自分を許していい」

「許してあげな・・・」


彼は、頭では理解出来ても、気持ちとしては納得出来ない様子だった。


そんな彼に対し、俺は自分の過去を話した。

そして、俺自身が昨年やっと自分を許すことが出来、同時に27年前に自殺した親父を許せたことを話した。


その時だった、彼の目の中で何かが動いたのを俺は見たのだった。

彼の心の中の変化の兆しが見て取れたのだった。

俺は、思った。


「大丈夫だ、彼は絶対に立ち直れる」


俺は、続けて話して聞かせた。


「俺が、義理のお母さんだったとしたら、酷いことをしたのは私の方だと言う」

「貴方達を長く苦しめてしまって、ごめんねってと言う」


「なかなか死ねなかった苦しみから、私はやっと解放されて楽になれたのだから、これ以上貴方は苦しまなくて良い」

「貴方は、出来るだけのことを私にしてくれた」

「だから、もう自分を責めなくていい」


「いつまでも貴方が自分を責め続けていては、私は安心して成仏できない」

「娘と孫の為にも、早く貴方は自分を許してあげなさい」


「お母さんは、きっとそう言うと思う」

「だから、仏前で毎日謝っている貴方を見たら、きっと悲しむと思う」

「お母さんは、決して貴方を恨んでなんかいない」


「今のままの自分で良いの?」


「亡くなってしまったお母さんより、今生きている奥さんやお嬢さんの方が大切なんじゃないの?」

「もっと顔を上げて、今生きている周りの人たちの気持ちを考えてみて」


「今生きている奥さんとお嬢さん、そしてお嬢さんから生れて来るであろう未来の孫、更には共に働く仲間たち」

「そういう人たちの気持ちを考えてみて」


俺は彼にそう言って、彼の試験を終了させたのだった。


そして、この後夕食となったのだが、俺は不思議に思っていた。

この日の俺は、試験開始前から注意していたことがあったのだ。

それは、無理に相手の心に入って行かないことだった。


『マインドレイプ』にならないように心掛けていた。

相手が自ら心を開くまでは、絶対にこちらから無理には相手の心に入らないと決めていたのだ。


それなのに、そう決めて試験受けに臨んだ俺に対して、いきなり、『誰にも話したことが無い話しを聞いて貰えますか?』と、二人が続けて言って来たのだ。


それも二人の話しは、内容は違えど、これまでの5年間で一度も聞いたことが無い、想像を絶するものだったのだ。

特に30歳の青年の話しは、19歳の少年時の話としては辛過ぎると感じたのだ。


聞いていた俺も、一瞬ヤバイと思ったほどだった。

自分の気持ちが持って行かれそうになるのを感じたのだ。


その時の俺は、『鏡の法則のミュージカル』で観た、主演の『樋口麻美』さんのことを思い出したのだった。

彼女の涙を流し、鼻水も垂れ流し、それでも堂々と歌う彼女の姿を。

俺は彼女に『プロ根性』を見せて貰ったのだ。


あの時俺は、俺たちの試験受けも、樋口麻美さんのように出来るようにならないといけないと思っていたのだ。

相手の気持ちに共感し、涙を流し、鼻水を垂れ流しても、心には一本、凛としたものを持ち、相手に何かを気づかせること。


俺は二人の話しに共感し、涙を流し、鼻水も垂れ流したが、冷静に、落着いて、静かに話しが出来たのだ。

それは、俺にとっては一つの成長だと感じられたのだった。


しかし、なぜ彼らは開始早々、俺に話す気になったのだろうか?

メイントレーナーがそういう話をしたのか?

しかし、まだ始まったばかりのこの時間帯で、そんなに深い話しをするとは思えなかったのだ。

それとも、何かそういう、話したくなるような雰囲気みたいなものが、俺に生まれて来ているのか?


そんなことを考えながら、俺は夕食の会場へと向ったのだった。


(つづく)

2019年12月23日 (月)

俺の道 ~アラカン編~ 第60回AF研修の巻 (2)

(2)怒りとは

この日の『心構え』で、俺が二人目に相対した研修生は、ある企業から参加してきた30歳の青年だった。

企業からの要望書には、パフォーマンスも高く、現場での対応力も良好で、更なる飛躍を望んで営業職に抜擢したが、壁に当たり元の位置に戻したことが記載されていた。


その彼は、直ぐに怒ってしまったり、イライラしてしまう自分が嫌だと言った。

俺は、どういう時に怒ったり、イライラしてしまうのかを聞いた。

彼は、運転をしている時や、部下が何度か教えたことが出来ないと直ぐにイライラして怒ってしまうと言った。


いつもの俺だったら、それが何故なのかを聞く所だったのだが、この日の俺は変えたのだった。

怒りの感情については、ちょうど11月に自己実現塾で学んだことだったからだ。

いつもより少し時間はかかるかも知れないと思ったが、俺は試してみるには良い機会だと思ったのだ。


俺は、『怒り』や『イライラ』という感情が、心理学的には『第二感情』であることを説明した。

そして、その根底には、『第一感情』があることを教えたのだ。


更に、例えば、教えた事がなかなか出来ない部下にイライラするのは、教えたことがなかなか分かって貰えない辛さや悲しみ、自分がなかなか上手く伝えられていないと思う無力感などが第一感情にあること。

そして、その感情を自分の中で上手く消化出来ず、その気持ちを怒りやイライラで誤魔化していることを教えたのだ。


そして、最近多い、『あおり運転』や、SNS上の誹謗中傷などは、その典型的な例で、やっている人たちはみんな、自分の寂しさや辛さを自分で抱えることが出来ずに、怒りやイライラという形で外にぶつけているんだよと話したのだった。


すると彼は、「すぐ怒る人は、本当は寂し人なんですか?」と聞いて来たのだった。

俺は、「そうだよ」と答えた。

そして、「俺の若い頃は酷かったんだよ」と、話して聞かせたのだった。


そして、その寂しさや辛さが自分一人で抱えきれないのは、その人だけの責任ではなく、子どもの頃からの親子の関係とかにも原因があることを教えたのだった。


すると彼は、「寂しい人・・・」とつぶやき、しばらく考え込んだのだった。

俺は、黙って彼から出て来る次の言葉を待った。


彼は突然、「まだ誰にも話したことがないことなんですけど、話しても良いですか?」と聞いて来た。

俺は、「いいよ」と答えた。


彼は4人兄弟の長男だと言った。

そして、彼が19歳の専門学校に通っていた時のことを話し始めたのだった。


彼の口から出て来た話しは、想像を絶するものだった。

その出来事があってからの彼は、長男としての責任感から、まだ中学生や小学生の弟や妹を守る為に専門学校を辞めて働き出したと語った。


俺は彼の辛さや寂しさや無力感に共感し涙を流した。

そんな俺を見て、彼は言った。


「あの事件以来、俺、泣けなくなっちゃったんですよ・・・」


「そうかぁ・・・」

「それは辛かったなぁ・・・」

「頑張って来たんだなぁ・・・」

「よく耐えて来たなぁ・・・」


「もう、自分を責めなくて良いんだよ・・・」

「泣いても良いんだよ・・・」

「泣くことは、恥ずかしいことなんかじゃない・・・」


俺は、そう言った。


彼は目を真っ赤にして涙を流したのだった。


そして彼は、「来て良かった・・・」と、つぶやいたのだ。


彼は1歳の長男がいて、今奥さんが二人目の臨月で、この研修中にも産まれそうで、研修に来るかどうか悩んだと話したのだった。


俺は、二人目の子が、男の子なのか女の子なのかを聞いた。

彼は女の子だと答えた。


俺は、それは良かったなぁと、それなら、お父さんが頑張っているんだから、きっとこの研修が終わるまで、出て来るのを待っていてくれるはずだと言った。


彼は、「そうですよね」と笑顔で答えた。


俺は彼に言った。


「奥さんを愛しているんだろ?」

「子どもたちを愛しているんだろ?」


「はい」


「ならば、仕事での怒りやイライラなんかのストレスを家に持ち帰っちゃいけないんじゃないのか?」


「そうですね・・・」


俺は彼に問いかけた。


「奥さんや子どもたちの幸せを考えたら、今までの直ぐに怒ったりイライラしたりする自分のことをどう思う?」


「小さいですね」


彼は答えたのだった。


「そうか、小さいか・・・」

「良かったなぁ・・・」


「君は今、俺に過去の誰にも話せなかったトラウマの話しを話す事が出来たんだ」

「それは、過去に囚われて執着していた出来事を、君自身が手放したことなんだよ」

「一度手放した以上、もう囚われたり、執着する必要は無いんだよ」


「君にとって一番大切なものは家族なんだろ?」

「ならば次は、これからの自分はどうありたいのか、その為に自分はどうしたいのか、どうすべきなのかを考えるんだ」


こうして、この彼の試験は次のステップへと進んだのだった。

しかし、俺の中では驚きだったのだ。


通常なら、過去のトラウマと向き合う為には、何人ものインストラクターやトレーナーとの試験を経て、何度も「なぜ?」を自問自答した結果、生まれて来るものだからだ。

そこまで行くのに、通常なら少なくても2~3時間は掛かるのだ。


それが、まだ始まったばかりの初っ端で、いきなりトラウマの話しが出て来たのには驚きだったのだ。

何か不思議な感じがしたのだった。


(つづく)

2019年12月22日 (日)

俺の道 ~アラカン編~ 第60回AF研修の巻 (1)

(1)初めての試み

12月9日の昼過ぎ、俺は月1回のAF研修へ参加するため熱海に向けて出発した。

AF研修は、3月と8月を除き月に1回、年に10回ある。

今回は第60回だった。


俺が始めて参加したのは、2014年10月の第12回だった。

当時の俺は、2013年10月に離婚し、息子と別れたことで精神的に最悪の状況だった。

その少し前の7月頃から、俺は自分で精神科か心理カウンセラーの受診を真剣に考え始めていた。

その翌月の8月下旬にAF研修を紹介され、巡り会ったのだった。


そんな俺は、この研修をきっかけに後悔と自責の苦しみの中から一筋の光明を見出し、脱出することが出来た。

俺はその翌月からは、研修生ではなくトレーナーとして参加し、それから2年ほどしてトレーナーを卒業し、インストラクターとなったのだ。

これまで、病気などで2~3回欠席したが、丸5年間継続して参加して来た。


その中で、特にこの1年半ほどは参加する度の気づきが多く、都度俺の中での変化も大きくなって来ているのだった。

今年最後の今回の研修では、いつもの俺に『自己実現塾』での学びや気づきも取り入れて、実践してみるつもりだったのだ。


俺は15時過ぎにいつもの研修会場に到着した。

俺が到着した時は、第一項目の『発誠』がまだ終わっていなかった。

いつもより少し遅いと感じた。


俺は控室で、その日の研修参加者の概要をチェックした。

今回の研修参加者は約20名で、中間管理職の人がいつもより多少多めだった。

最年長が53歳、最年少は20歳だった。


研修は二泊三日の三日間で、俺は最初の3年間程は三日間全て参加していたが、この2年程は初日夕方から二日目終了までの参加にしていた。

研修全7項目の内、研修の核となる、『心構え』、『モティベーション』、『感謝』の3項目に絞って参加しているのだ。


その3項目の中で、最も重要なのが、俺は『心構え』だと思っている。

そして、『心構え』の項目は第二項目で、初日夕方から深夜まで、参加者全員が合格するまで行われていたのだった。


しかし、今回の研修では急遽、第二項目の『心構え』と第三項目の『モティベーション』を合体し、一つの項目としたのであった。

その目的は、時短だった。

二つの項目を合体することで、合格の有無に関わらず、初日は22時を終了時間としたのだ。


この2~3年、若いトレーナーは増えていたのだが、3~50代で経験値の高いインストラクターが徐々に減少していたのだ。

そして、初日『心構え』の試験終了時間は、本来は20時、その後の感想文やリーダーミーティングなどを経て、終了時間は21~22時だったものが徐々に遅くなっていたのだ。


最近では、『心構え』の試験終了が24時を過ぎてしまうのが当たり前になっていたのだった。

その為、リーダーミーティングは無くなり、感想文は部屋に戻ってから翌日の朝までの提出に変化していたのだ。


試験の時間が長くなり、終了時間が遅くなることは、研修生だけではなく、インストラクターやトレーナー側の負担も大きくなっていたのだった。

実は、俺が三日間全ての参加ではなく、二日間に短縮したのも、加齢と共に肉体的疲労が大きな原因だったのだ。


これまでにも観るべき映画を無くし、その分を試験時間に当てたりして時短を図って来たのだが、一時的には時短になったが根本的な解決にはならなかったのだ。

今回の試みは、個人的には根本的な解決策だとは思えなかったが、かなり大胆な対応策ではあると思った。


『心構え』と『モティベーション』の合体とは言え、まずは『心構え』からだった。


『心構え』の項目では、まずは自らの長所短所を考え、そこを切り口に自分の嫌な所やダメな所、あるいは嫌いな自分を見つめるのだ。

そして、その原因に気づき、『変われたら良いな』、『変わりたい』という、漠然とした願望を、『絶対に変わる』という決意に変え、変わる為の覚悟を持つことが、その目的なのだった。


『心構え』は木に例えたら、『根』だ。

根がしっかりしていないと、その木は成長しても直ぐに倒れてしまう。

如何にしっかりした根を作るのかにより、その後の成長に大きく影響するのだ。


その為、『心構え』が甘くなると、後に続く項目で研修生が苦労することになるのだ。

研修生の為にも、甘い合格には出来ないのだった。


しかし、若いトレーナーの場合、人生経験の少なさから、甘くした訳ではなくても、結果的に甘くなってしまうことが多くなってきていたのだった。

その為、二日目の『モティベーション』の項目で、インストラクターによる『心構え』のやり直しが多くなって来ていたのだ。

すると、その後に続く項目も遅くなり、二日目の終了時間も遅れることになってしまっていたのだ。


今回は、そんな状況を打開する為の初の試みだったのだ。

そして、俺自身も自己実現塾での学びや気づきをどう活かすかの初の試みだったのであった。


(つづく)

2019年12月21日 (土)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (13)

(13)新人ドライバー育成係

秋真っ盛りの頃、一人の大型車の運転手が入社して来た。

新人ドライバーはSさんといった。


それまでは、東小金井の貨物駅構内から、キリンビールの杉並工場、武蔵境にある米の政府倉庫への運搬の運転手は、構内ではフォークリフトの運転手でもあったN瀬さんが中心で、時々N谷社長もやっていた。


俺は、この二人にルートや下ろし方を教わっていた。

俺はN谷社長にSさんに配送ルートと下ろし方など全て教えるように頼まれた。

そして、俺の日給は一気に6千円から8千円にアップされた。


Sさんは20代後半で、身長が俺より少し低い感じの細身の人だった。

髪型が、マンガの『アラレちゃん』に出て来る、『がっちゃん』に似たクルクルパーマのイケメンだった。

大型免許を取ってから、まだ実践経験が少なく、大きな事故では無かったようだが、事故歴があるとN谷社長から聞かされていた。


最初の内は、交差点を左折する際の頭の振り方やダブルクラッチなどの運転技術から教えた。

当時のトラックは旧型で、クラッチはダブルで踏まないと入らなかったのだ。

また、下ろし先の敷地に入ったら、狭い所は俺が替わって運転した。


俺は、N谷社長の助手になった時は、構内だけではなく、たまに空荷になった時には、無免許で公道も運転していたのだった。


検問や緊急の際のN谷社長と俺の交代の仕方も練習していた。


検問の時は、一度手前に停めて、俺が運転席の背もたれを後ろに倒して、すかさず後ろに隠れ、N谷社長がセンター席から運転席に滑り込む形だった。


当時、菅原文太主演のトラック野郎が流行っていた。

俺は、N谷社長にトラック野郎になるように言われたのだった。

その為には、無免許のうちから練習しておかないとダメだと言われ仕込まれていたのだった。


N谷社長は俺を信頼してくれていると思った。

Sさんは、まさか普通免許もまだの俺から、運転技術まで教えられるとは思っていなかったらしく驚いていた。


荷降ろしに関しては、最初の一ヶ月は、ほとんど俺一人でやった。

米の荷降ろしは、倉庫に横付けしたトラックの荷台にベルトコンベアが設置され、そのコンベアに米を乗せるのだ。

コンベアの先には、倉庫内の作業員が何人も居て、一人が一袋ずつ肩で担いで奥まで運んで行くのだ。


早く下ろすためには、横付けしたトラックの移動回数を出来るだけ少なくして、コンベアになるべく小さな隙間で米を乗せ続けるのだった。

その為には、運転手と助手の二人で手鉤を使って一緒に米を持って投げるのだが、Sさんにそれをやらせたら直ぐに潰れてしまうと思ったのだ。

Sさんは身体が細く、なかなかそれが出来るようにならなかったのだった。


当時の運転手の日給は、12,000円だった。

それまでの俺の倍だった。


米の政府倉庫は、隣の武蔵境駅に近く、実際にトラックで走るのは、片道10分程度だった。

それを一日に何往復もするのだが、実際には走っている時間より、荷降ろしの時間の方が多いのだ。

普通の運送会社の運転手は、運転がメインで、荷降ろしはプラスαの作業だが、東建の仕事は逆だったのだ。


その運転手が荷降ろし作業が出来ないとなると、助手としての俺の作業量は一気に倍になるのだった。

俺の日給を一気に2千円も上げてくれた理由を、俺は知ったのだった。


(つづく)

2019年12月20日 (金)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (12)

(12)S水社長の伝説の指

トーケンの社長はS水社長と言った。

N谷社長とは違い、少し変な訛りがあり、タヌキをでかくしたような少しおっとりした感じの人だった。


そして、トーケンの仕事は引っ越しだけではなかった。

企業の専属で、その企業の製品や商品の配送を行っている人たちもいた。

その人たちには専用車が与えられ、助手は付かずにドライバー一人で仕事をしていた。


引っ越しチームとは別だったことで、控室で一緒になることは少なかったのだが、俺はそれなりに仲良くなっていた。


そんなある日の昼休み中、東建では一番の力持ちのK西さんと俺がトーケンに呼ばれたのだった。

K西さんは、40後半くらいのおじさんだったが、ボディビルダーのような身体をしていた。

口数の少ない人で、仕事以外のことはあまり話したことは無かったのだが、優しい人柄は感じていた。


俺とK西さんがトーケンに行くと、その日の仕事は引っ越しではなかった。

引っ越しではないトーケンの仕事は初めてだった。


俺とK西さんは、S水社長が運転するライトバンに乗せられ、場所が何処だったかは忘れたが、一部上場の東京精密という会社に行った。


どうやら、東京精密の専属ドライバーのS藤さんからの応援要請のようだった。

荷物は、小さいのにかなりの重量物で、相当高価な精密機械とのことだった。


行ってみると、S藤さんが待っていた。


S藤さんの専用車は、パワーゲート付き4t車だった。

積む時はフォークリフトで積んだのだが、下ろす場所にフォークリフトが無かったのだ。

見るとその精密機械は、一片が1m程で、高さが1m強程のステンレスで囲われた四角い箱の様な機械だった。

足は4本で床から2~3cmの隙間があった。

重さが250kg位あるとのことだった。


小さいから4人で持ち上げるしかなかったのだ。

そこで俺とK西さんが選ばれたのだった。


それにS水社長とS藤さんの4人で持ち上げることになったのだ。

見た目は4人の中で俺が一番細かった。


当時の俺は、身長174cm、体重63kg、ウェスト73cm、胸囲103cmだった。


俺とK西さんには不安はなかったのだが、一番心配なのはS水社長だった。

俺はS水社長と現場で一緒になったことは無かったのだ。

身体はでかかったが、普段事務仕事しかしていないS水社長にどの程度のパワーがあるのか分からなかったのだ。


取りあえずバランスを保てるように俺とK西さんが向きあい、S水社長とS藤さんが向き合う形で持つことにした。
最悪の時は、俺とK西さんで支えれば何とかなると思った。


作戦としては、まず荷台のパレットの上から機械を持ち上げて一度パワーゲートまで行き、パワーゲートから設置場所まで行くという単純なものだ。


しかし、難関が一か所あった。

それは、パワーゲートだった。

方法は2つだった。

一つは、一度パワーゲート上に機械を下ろして、パワーゲートを下げてから再度持ち上げて設置場所まで行く方法。

もう一つが、パワーゲート上に下ろさないで、パワーゲートには4人が持ったまま乗り、そこからパワーゲートを下ろして設置場所まで一気に行く方法。

その2択だった。

安全なのは、一度パワーゲート上に機械を下ろす方法だった。


S水社長は、一度パワーゲートに下ろした方が良いのではないかと言った。

しかし、俺はその意見に反対した。

俺は、S水社長に言った。


「一度地べたに下ろしたものを再度持ち上げられますか?」

「今はパレットの上だから地べたより20cm位上だから持ち上げられますけど、一度地べたに下ろすと相当足腰が強くないと持ちあがらないと思いますよ」

「20cmの差はでかいですよ」

「俺とK西さんは大丈夫だと思いますけど、社長、それ出来ます?」


S水社長は唸った。


俺は、腹がでっぷり出たタヌキ体型のS水社長には無理だと思ったのだった。


結局、俺の案で行くことになった。

そして、俺が一番危険な後ろ向きで行く役になったのだった。


俺の左がS藤さん、右がS水社長、向いがK西さんの配置になった。

東京精密の社員の一人にゲートの操作をお願いした。

そして、他の社員の方には、俺たちの足元の確認と合図をお願いした。


俺たち4人は荷台に上がった。

2~3度、4人で一気に持ち上げるタイミングの練習をした。

そして、打ち合わせた配置につき、声を掛け合った。

互いの顔は見えなかった。

俺は言った。


「一気に一拍子で行きますよー!」

「せーのっ!!」


俺の掛け声とともに一気に持ち上げた。


若干S水社長が遅れたが大丈夫だった。

俺は、立ち上がりさえすれば何とかなると思っていた。


掛け声を出しながら、俺は一歩ずつ後退した。

ゲート上まで来て、少しだけS水社長に動いて貰い、ゲートに対し、機械が菱形になるようにした。

俺が真後ろのままでゲートを下ろすのは、危険過ぎると感じたのだ。

最初の作戦には入ってない、俺の勝手な指示だった。


S藤さんの合図でゲートがゆっくり下がった。

そして、ゲートの付け根が地面に接地した瞬間、俺は言った。


「ストップ!!」


俺が危険を感じたのはこれだったのかと分かった。

ゲートの付け根が接地し、更にゲートの先が接地するまで下ろすとゲートは斜めになるのだった。

もし真後ろ向きのまま、斜めになったらバランスを崩すところだったのだ。

これも作戦の中に無いことだった。


ゲートと地面に約20cm位の段差がある状態になった。

まず、俺が後ろ向きで降りることにした。

続いて、S藤さんとS水社長、最後にK西さんがゲートから降りた。


難関を無事クリアした。

あとは数m先の目的地に行くだけだった。


俺は東京精密の方の声に従った。

目的地に着き、俺は東京精密の方たち数人に、上を支えてくれるようお願いした。


俺たちは、下ろす態勢に入った。

掛け声を掛けてゆっくりと下ろし始めた。

床ギリギリまで下ろしてから、まず位置合わせで俺が引かれたラインの上に一度下ろした。

続いて左側のS藤さんが下ろす形で直角を確認し、まずS藤さんが両手を放した。


俺の右手はまだ支えていた。

右側はS社長だ。

K西さんにも声を掛けてゆっくりと右を下ろした。

そして、右側を下ろしてホッとした瞬間だった。


「あいててててて!!」


S社長の叫び声だった。

俺は、何が起きたのか分からなかった。

K西さんが僅かに再度持ち上げた瞬間、S水社長は手を引いて尻もちをついたのだった。


なんと、床から2~3cmある隙間に右手の指が挟まったのだった。


「おーいてぇ・・・」


S水社長は右手の指をフーフーしていた。


それまで気づかなかったのだが、S水社長は軍手をしていなかった。

俺たち三人は滑り止め付きの軍手をしていた。

俺たち三人は、誰も指が挟まるなんてことは考えていなかった。


見るとS水社長の指は、魚肉ソーセージよりも太そうな指をしていた。

俺たち三人は大爆笑した。

そして、笑いながら俺は言ったのだった。


「社長の指、ふってぇ~!!」

「そんなふってー指、見たことねぇーよー!!」

「ぎゃははははははは!!!!」


「その指じゃ、軍手も入んないんだぁ~!」

「ぎゃははははははは!!!!」


俺とS藤さんは、鬼の首を取った勢いで社長の指の太さを笑ったのだった。

普段口数の少ないK西さんも笑いを堪えられず、一緒に笑っていた。


S水社長は、何も言えず、ただムスッとしていた。

仕事を終えた俺とK西さんは、再度S水社長の運転で帰路についた。


俺は、後部座席から運転するS水社長の指を見て、また爆笑した。

良く見ると、象の皮の様な分厚い手だった。

そして、俺は笑いながら言ったのだ。


「しゃちょ~、プッシュフォンのボタン押せます?」

「そんなに指が太かったら、2コ一緒に押しちゃうでしょ~」


社長は、うるさそうな顔をしながら言ったのだった。


「大丈夫だよ」


「ふ~ん、そうなんですか~」


俺は何か怪しさを感じたのだった。


そして、帰社すると現場の人間はまだ誰も帰っていなかった。

S水社長は、今日の仕事はこれで終わりだと言った。


真面目なK西さんは、直ぐに構内に帰って行った。

俺は、この日の出来事を誰かに言わずには帰れなかった。

控室で休んで行くことにした。


俺は控室でじっとしていられなかった。

本当にあの指でプッシュフォンのボタンを押せるのか確認せずにはいられなかったのだ。


俺は控室を抜け出し、事務所内のS水社長を陰から覗いて見ていた。

そして、S社長が受話器を取った瞬間だった。


なんと、S水社長は右手に持ったボールペンを逆さにして、ボールペンのケツでボタンを押したのだった。


俺は、笑い声を押し殺して、控室に急いで戻った。

そして、一人で大爆笑した。


もう、早く誰かに話したくてしょうがなかった。

しばらくして、みんなが徐々に戻って来た。


俺は帰って来る人たちみんなに、この日の出来事を話したのだ。

更には、社長が電話を掛ける時はボールペンのケツを使っていることも暴露したのだった。


その日からしばらくの間、トーケン社内ではS水社長の指の太さの話しで持ちきりになった。

そして、みんなもS水社長の電話を掛ける所を覗きに行ったのだった。

S水社長はみんなの見世物となったのであった。


こうしてS水社長の指は、トーケン社内での『伝説』となったのであった。


(つづく)

2019年12月19日 (木)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (11)

(11)生涯の友

当時、構内作業の東建の人数は、俺を含めて総勢9人、引っ越しセンターのトーケンは20数人と、トーケンの方が会社としては大きかったのだ。

そして、年齢的にも2~30代が中心で、全体的にはトーケンの方が平均的に若い人が多かった。


いつだったのか正確には憶えていないが、俺がグリーンの作業服を着るようになってから何回目かの引越しの手伝いに行った時、俺はそいつと出会ったのだ。


そいつは、背丈が180程あり、俺よりも一回りでかかった。

歳は俺の2コ上で、水戸連合の特攻隊長をやっていたらしい。


細かい事情は聞かなかったが、水戸から一人出て来て、会社に住み込みで働いていたのだった。


そいつはK上といった。

ドライバーではなく、運転助手で入っていたようだった。

俺はこいつとは、いきなりの意気投合だった。


俺たちは会ったその日から互いに名前で呼び合った。

K上の名前は、Oと言った。

Oは、俳優の佐藤浩一タイプの二枚目だった。


俺はOと仲が良くなってからは、構内作業の日でも仕事が終われば、トーケンに行ってトーケンの連中と毎日飲むようになった。


俺はOの他、8コ上のYちゃん、30歳のT田さんとHさんと特に仲が良くなった。


Yちゃんは中央線の線路を挟んで、トーケンとは反対側で、10歳位年上の奥さんが『樹々』というカラオケスナックをやっていた。

Yちゃんは、そこのマスターでもあったのだ。


俺たちは仕事が終わると、東小金井の通称『寝床(ねどこ)』(うなぎの寝床のように間口が狭くて奥に長い間取だったことから付いた呼び名)という居酒屋で、生やホッピーを浴びるほど飲んでから、Yちゃんの『樹々』へ行っていたのだ

浴びるほどと言うのは、最近多い『中生』ではなく、大ジョッキで生やホッピーを10杯は飲んでいたのだ。


この頃から俺は、花小金井の連中とは集会以外での付き合いが急激に減って行った。

俺がトーケンに手伝いに行くようになってから、それまでの東建とトーケンの関係が急に変わったのだった。

俺が行き来する前は、同じ発音の社名の兄弟会社でも全く交流はなかったのだ。


しかし、俺が行き来するようになってからは、引っ越しが忙しくて構内作業が暇な時は東建の人間がみんなでトーケンに手伝いに行き、引っ越しが暇で構内作業が忙しい時は、トーケンの連中が全員で構内作業を手伝いに来るようになったのだった。


しかし、そうなると東建側の人間のパワーとスタミナと、トーケン側の人間のパワーとスタミナの差がハッキリしてしまったのだった。

そして、パワーとスタミナのバランスと仕事量では、俺が断トツだった。

更には両方を繋ぎ合せる形になったことで、俺の存在感は急激に高まって行ったのだった。


そして秋頃、トーケン作業員のボス的存在のK村さんが俺に言ったのだった。


「今度、俺の甥っ子が入って来るから、よろしく頼む」


K村さんの甥っ子の名前はE一といった。

俺の1コ下だった

しかし、経歴を聞くと、こいつが悪のエリートみたいな奴だったのだ。


K村さんは、E一のお袋さんの弟だった。

E一の親父は、広域暴力団K会の副会長だった。

E一は、練馬の族で、喧嘩集団で知れ渡っていた『VAMPIRE』の頭だった。

そして、国士舘高校の応援団をやっていたのだった。

学ラン姿は白ランだった。

しかし、その国士舘を中退し、行き場が無くなりトーケンに入って来たのだ。


最初は、どんな生意気な奴が来るのかと思っていたのだったが、E一は全く生意気では無かった。

生意気どころか、礼儀をわきまえていた。

E一は、俺とOに懐き、俺とOを常に立てていた。

俺より少し背が高く、二枚目俳優を思わせる甘いマスクの奴だった。


俺たち10代の三人は、常につるむようになったのだ。

その中で一番喧嘩っ早くてバカなのは俺だった。

族の『全国制覇』。

俺たち三人ならできる。

そんな夢物語のようなことを、俺たち三人はバカになって語り合っていたのだ。


OとE一、そして俺たち三人の兄貴分のYちゃんの3人は、その後俺にとっての生涯の友となった。


この三人には、もう何十年も会ってはいない。

連絡も毎年の年賀状だけだった。

電話連絡も全くしていなかった。


Oは茨城、E一は練馬、Yちゃんは長崎、俺は横浜、みんなバラバラだった。

しかし、これまでずっと、いつも俺の心の中にはこいつらが居続けたのだ。

この三人に対しては、何かあったら、何処に居ようと何時でも助けに行く。


そんな約束をした訳ではなかった。

ただ俺一人がそう決めて、そう信じて来ただけだった。

この三人はいつも俺の心の中にいた。

だから、俺はそれまでどんな困難にも立ち向かえたし、寂しさを感じないで来れたのだ。


しかし6年前、俺が息子と別れ、心を病み、心が完全に折れそうになった時、俺は助けに行くのではなく、助けを求めた。

そんな言葉を吐いたのは初めてだった。

俺は、三人にショートメールを送った。


『助けてくれ』


たった一言だけ。


真っ先に電話して来てくれたのは、E一だった。

E一は、20代前半、俺より数年先に独立していた。

親父とお袋さんの人脈が凄かった。

バツイチになった後、二度目の結婚をしたのは聞いていた。

幸せな家庭を築いていると思っていた。

しかし、違っていた。


E一は俺より先にバツ2になり、少し前に脳梗塞と心筋梗塞を同時に患い、生還したところだった。

俺は言った。


「お前、何やってんだよ?!」

「バカじゃねーの?!」

「閻魔さまとタイマン張って来たのか?!」

「死ぬ時は勝手に死ぬんじゃねーぞ!」

「死ぬ時は一声掛けてから死ねよな!」


俺とE一は、互いのバカさ加減を笑いあった。

俺はE一に元気を貰った。


その日の夜、Oからも、Yちゃんからも電話が掛かって来た。

俺は救われた。

そして、思った。


「みんな変わらない」

「みんな同じだ」

「みんなあの時のままだ」


そして、俺は確信した。

俺が選んだ友に間違いがなかったことを。


(つづく)

2019年12月18日 (水)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (10)

(10)無休への道

8月の構内作業は、夏休みシーズンで米の貨物は減り、ビールが増えるのだった。

ビールは、ほとんどがフォークリフトの作業だったから構内作業は暇だった。


逆に引っ越しはシーズンで、俺は連日引っ越しに駆り出されたのだった。

俺にとっての引っ越しは、昼飯は出るし、チップは貰えるしで、まさに天国だった。

財布の中の金は減るどころか日に日に増えて行ったのだ。


チップはドライバーも作業員も関係無く、一緒に行った者で山分けだった。

今の引っ越しではチップの慣習は無いようだが、当時は一回の引越しで、一人2~3千円位は貰えたのだった。

多い時は、5千円とか、時には1万円というのもあった。


しかし、ある日突然、俺だけが構内に残され、後輩連中の3人が引越しに行ったのだ。

俺は、N谷社長に文句を言いに行った。

なんで、俺だけが居残りなのかと。

俺はてっきり、N谷社長の嫌がらせかと思ったのだった。


しかし、理由は全然違う所にあった。

その理由は、俺がグリーンの作業服を着ないことにあったのだ。


そして、俺はこの時初めて社長と色々なことを直接話したのだった。

すると、構内作業が暇なのに俺だけが引越しの手伝いに出されていたのには、N谷社長の優しさであったことを知ったのだった。

N谷社長は、引越しの方が楽でチップが出ることを知っていたのだ。

そして、俺のこれまでの頑張りを認めてくれ、俺を優先的に稼がせてくれていたのだと知ったのだった。


俺はてっきり、後輩連中を俺がコントロールして社長の言うことを直接聞かせない様にしたことへの仕返しかと思っていたのだ。

しかし、それは俺の思い過ごしだったことに気づかされたのだった。


話しを聞くと、N谷社長もフォークリフト運転手のN本さんとコンビで、若い頃はかなりの悪だったのだ。

立川では超有名人だったらしく、ヤクザも二人が通ると道を開けるほどだったらしい。

見た目は50近いショボイおっさんだったのだが・・・。


俺は、N谷社長に俺が間違った見方をしていたことを詫びたのだった。

そして、引っ越しの時はグリーンの作業服に着替えることを約束したのだ。


そして、N谷社長から、引越しは日曜日がメインだと聞かされた。

そして、構内作業が休みの日曜日も仕事をするかと聞かれた。

俺は二つ返事でやることにしたのだった。


この時から俺は、無休の道を選んだのだった。


(つづく)

2019年12月17日 (火)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (9)

(9)株式会社トーケン

俺は、N谷社長に翌日分の仕事を余分にやっても、翌日は誰も休ませない約束を取り付けた。

そこで俺は、逆に後輩たちには1日の仕事量を多くさせるようにしたのだ。

中途半端な量の仕事は残させず、なるべく翌日午前中分の仕事は終わらせるようにした。

俺の目的は、まとまった空き時間を多く作ることだった。


俺はその空き時間を使って、フォークリフトの運転や11t車や乗用車の運転、またバイクの乗り方とかも後輩たちに色々教えたのだった。


それは、仕事と言うより、ほとんど遊びだった。

そういう日が日増しに増えて行ったことで、多分社長も考えたのだろう。


俺は知らなかったのだが、東建には、直ぐ近くに兄弟会社があったのだ。

その会社は、トーケンと読み方は同じでも漢字と片仮名の表記が違う会社だった。


トーケンの方は、大型車ではなく、2~4tトラックの定期配送と、『ハトのマークの引越しセンター武蔵野営業所』をやっていた。


構内作業が無い時、最初に俺がトーケンの手伝いに行かされたのだった。

エンジ色のニッカボッカの上下を着て、頭は金髪のアフロで眉毛も全剃りの俺が、引っ越しの手伝いに出されたのだ。

トーケンの人たちは、全員『ハトのマークの引越しセンター』の上下グリーンの作業服だった。


俺は、作業服を着替えるように言われたのだった。

しかし俺は、「そんなダサいカッコ出来るか!」と断った。

そして、ニッカの上下のまま引っ越しに行ったのだった。


驚いたのは、引っ越しをする40代位のお客さんだった。

作業を開始する為の挨拶に行くと、俺を一瞥し、目をまん丸にしたのだった。


俺は、そういう目で見られるのには慣れていたから、またかという感じだった。

しかし、仕事をしている内にお客さんは俺に興味を持ったようだった。

荷物を運ぶ俺を呼びとめ、色々なことを聞いて来たのだった。


まず最初は、歳だった。

そして、どうしたらそんな髪型になるのかとか、なんで眉毛を剃っているのかとか、何で学校を辞めたのかだとか、色んなことを聞かれたのだった。


聞かれればこっちも何も隠す必要がないので、俺は素直に答えた。

お客さんは俺の回答に一つずつ納得して行き、その内俺はお客さんと仲良くなってしまったのだった。

そして、お客さんは、昼飯は出してくれるし、終わった時にはチップまでくれたのだった。


俺にしてみたら、引っ越しはいつもやっている構内作業に比べたら、超楽勝な仕事だった。


トーケンの人たちは、少し重いと必ず二人で荷物を持っていた。

しかし俺は、大概のものは一人で運べたのだ。

2ドアの冷蔵庫や洋服ダンス位は一人で楽勝だった。


箱物も全て楽勝だった。

構内で中身の入ったビールケースを、俺は腰の高さからなら4ケース持てた。

当時のビールは、今のような中瓶ではなく、全て大瓶だった。


それに比べれば、引っ越しの荷物は超楽勝だったのだ。

プロの引っ越しセンターの人たちより、引っ越しには素人の俺の方が仕事量は多かった。

その分、仕事も早く終わった。


そして、最初は怪訝な顔で見ていたトーケンの人たちとも、終わった頃には仲良くなっていた。

仕事を早目に終えて帰社した俺は、そこで構内作業との違いに驚かされたのだった。


それは、トーケンの人たちは、その日の仕事が早く終われば、それでその日の仕事は終わりになのだった。

そして、控室で直ぐに酒盛りが始まったのだ。


俺たち東建のロッカールームと控室は日通の人たちと同じだった。

その為、着替える時は一緒でも、それ以外で使ったことはなかった。

俺たちの休憩場所は、貨物の中か、積み上げられた米の上だった。

東建専用の控室はなかったのだ。


俺は初日から酒盛りにも付き合った。

一気にトーケンの人たちとも仲良くなった。


俺はこの時、引っ越しは仕事が楽で昼飯は出るし、チップまで貰えて、なんて良い仕事なのだろうと思った。

俺は、17時まで控室で軽く飲んでから、構内の方へ戻ったのだ。

そして、引越しが大変だったと、わざと愚痴っぽく言ったのだった。


俺は、その後何度も引越しの手伝いに出され、引越しの美味しさを味わうのだった。

季節は、丁度8月の引越しシーズンだった。


N谷社長の俺だけ引っ越しに行かせる思惑を、俺は逆手に取ったつもりになっていたのだった。

(つづく)

2019年12月16日 (月)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (8)

(8)有限会社東建(とーけん)

3月に高校を中退し、4月から俺がN村の紹介で働きだした会社は『有限会社東建』という会社だった、

この時の仕事の名目は、『大型トラックの運転助手』だったのだが、実際にやらされたことは米かつぎみたいなものだった。

今では既に無くなってしまったが、当時、東小金井のJR貨物駅で日通の下請けの仕事だった。


貨物で運ばれて来た米やビールなどを手作業でパレットに積み替え、それをフォークリフトで11tトラックに積み、近くの倉庫まで運び、それを再度手作業で下ろす仕事だった。


米は貨物1輌に、麻袋に入った60kg(一俵)のものが250袋入っていた。

それを4人一組で手鉤という道具を使ってパレットに積み替えるのが主な仕事だった。


それを通常で、10~20輌、多い時は30輌ほどやるのだ。


60kgの250袋を10輌で2500袋、30輌だと7500袋だ。

それを4人一組でやるのだ。


麻袋は手鉤を使えるからまだ良いのだが、30kg入りの紙袋になると、1輌に500袋入っていて、全て手下ろしだった。

これが、下の方は腰をかがめて抱えあげなければならないのでかなりきついのだ。


普通の人は、まず半日ももたなかった。

だから、日給月給だったのだ。


時間は8時~17時で昼休みが1時間の8時間労働だった。


族の頭のI森は、3月まで働いていたらしく、俺と入れ違いで辞めていたのだった。

I森が居た期間は大して長くはなかったようだった。

そして、俺を紹介したN村も休んでばかりで、俺が入った1ヶ月後には辞めていたのだった。

ツッパリと言っても、本当に根性がある奴の数はたかが知れていた。


最初の1~2週間はかなりきつかった。

しかし、やること自体は単純労働だった。

その為、俺は直ぐにある程度の仕事は覚えた。


米の麻袋は手鉤の使い方のコツを覚えてしまえば大丈夫だった。

紙袋は単に体力と腕力勝負だった。


学校を辞め、後戻りできないと思っていた俺にとっては、体力勝負に負ける訳にはいかなかったのだ。

だから、辛くて辞めるという考え方は、俺の中には無かった。

兎に角言われたことを必死でやった。


実際に、族連中とつるんでいて、喧嘩が俺より強そうだ、俺より根性がありそうだと思えるような奴は、俺の周りには一人も居なかった。


当時の俺は、『ブルース・リー』が大好きだった。


プロレスラーやボディビルダーのようなゴツイ身体は好きでは無かった。

ブルース・リーのような、普通に見えて脱いだら凄いという身体になりたかった。

今で言ったら、『細マッチョ』な体型が好きだったのだ。


だから、身体は常に鍛えていた。

腕立て伏せと腹筋だけは毎日欠かさずやっていた。


俺は、最初の1ヶ月目、定休の日曜日以外、一日も休まなかった。

N村はしょっちゅう無断で休んでいた。

始めての給料を貰った時は、社長のN谷さんが本当に褒めてくれたのだった。


N谷社長は、以前はプロレスラーの『ストロング小林』(当時猪木の宿敵)も居たことがあったと教えてくれた。

怪力だった様だが、持久力が無かったと話していた。

中身の入ったビールケースを一人で6ケース持ったと言っていた。


N村が辞めた後、俺以外は、社長も含め40代くらいの人が5人の小さな会社だった。

ここの人たちはみんな厳つかったが、俺には優しく接してくれた。

俺を一人の大人として扱ってくれたのだった。


とにかく俺は、言われたことを何でもバカになって必死にやっていただけだった。

その為、仕事を覚えるのは早かった。


2ヶ月目には、フォークリフトの運転も11t車の運転も出来るようになっていた。

貨物駅構内は、無免許でも大丈夫なので、何でも教えてくれたのだ。


そして、5月末でファミレスのバイトを辞めた俺は、仕事を東建一つにしたのだった。

その後俺は、族仲間で俺を慕って来た後輩のM田とK村の2人と、I森の補佐役の様なことをしていたK保の3人を東建に入れたのだった。


いきなり俺と同じようにやらせようとすると直ぐに辞めてしまうだろうと俺は考えた。

最初の1ヶ月は、彼らの分まで俺がカバーした。

休憩を多く取らせながら辞めないように育てたのだ。


彼らに基本的なことは大人の人たちが教えてくれた。

俺は、手鉤のコツから、紙袋の疲れない持ち方とか、俺が掴んだコツを徹底的に教えた。


2ヶ月もして一人一人に力が付いてくると、急激に仕事がはかどるようになった。

そして俺は、構内作業よりトラックの助手で外に出ることが多くなったのだった。


しかし、俺が構内にいないことを良いことに、そこで事件は起きたのだ。

社長のN谷さんが後輩たちに命令し、構内作業を翌日の分まで仕事をさせ、翌日の構内作業を休みにしたのだった。


給料は日給制なので、働いている方は休めば給料が減ってしまうのだ。

会社としてはその方が良いのかも知れないが、俺たちにはそうではなかった。


俺はこの時、怒るよりも『しまった!』と思ったのだった。


俺が構内にいる時は、その辺のコントロールは俺がしていたのだ。

しかし俺は、まだそれを三人には教えていなかったのだ

昼間に入ってきた貨物の種類と量で、その日の午後の仕事量を俺が大人たちと相談してコントロールしていたのだった。


それ以降、俺は三人に、俺を通さない社長の直接の指示は聞くなと言った。

俺の居ない所で社長に直接命令されたら、全て俺に確認させるようにしたのだ。


そして、社長が俺のいないところで三人に指示を出しても、俺の指示が無い限り、三人は動かなくなったのだ。


それには社長も困ったようで、俺に交渉して来た。

俺の日給は500円アップした。

そして俺は、仮に翌日午前中分の仕事を先にしたとしても、翌日は誰も休ませない約束を取り付けたのだった。


俺は3人に俺の日給が500円上がったことを話し、その分は時々彼らに昼飯を奢って返したのだった。

しかしこの後、N谷社長は姑息な手段で俺に反撃をしてきたのだった。


(つづく)

2019年12月15日 (日)

俺の道 ~アラカン編~ 自己実現塾『晴太老の部屋』の巻 (5)

(5)進化の瞬間

俺は、夏目雅子が好きだった理由の原点を思い出した。

それが、『西遊記』の三蔵法師だったとは・・・。

とんだ記憶違いだった。


それに気づいた俺は、一旦そこで思考停止させたのだった。

既にその日の剣道の稽古に行く時間が迫っていたのだった。

俺は、晩飯の支度を終えて、稽古に向った。


この日館長は、先週からヨーロッパ三カ国の指導の為の海外遠征中で留守だった。

すると、稽古開始前に館長に代わり、七段教士で一番年配のK先生がみんなに集合を掛けたのだった。

そして、突然発表したのだ。


「先週の11月28日と29日に行われた全国八段審査会で、当道場のO先生が見事合格されました!」


まさに突然の発表だった。

その場にいた全員が感嘆の声を上げて拍手した。


そして、続けて、言われたのだった。


「今回の審査会では、初日1,000人の内合格者3名、二日目1,000名の内合格者4名で、合格率は初日0.3%、二日目0.4%でした」

「O先生は、二日目の4人の合格者の内の一人です」

「神奈川県の合格者は、O先生一人だけでした」


みんな更に続けて感嘆の声を上げ、大きな拍手を送ったのだった。

O先生は、私が入門してからは、館長以下3人目の八段合格者だった。


O先生はこれまで、七段の中では一番下座に位置していたのだが、この日の稽古では、館長が不在だったために一番の上座になったのだった。


そして、稽古が始まり、俺はいつも通り六段のY先生に基本稽古をお願いした。

基本稽古を終えた俺は息を整えるべく、道場の隅から何気なくO先生の姿を見ていた。

丁度蹲踞から立ちあがった所だった。


すると、これまでは感じていなかったものをO先生から感じたのだった。


ずっと以前から俺が思っている八段の先生と七段の先生の圧倒的な違い。

『構え』

構えた時の立ち姿の美しさ。


全く力みが無いのに一本筋が通っているように見える構え。

その姿は、俺には、天上界から見えない光の糸で吊られているように見えるのだ。

何か神々しさの様な美しさを感じるのだ。

それが、八段としてのオーラなのだろうと思うのだ。


それは、蹲踞から立ちあがった時だけではなかった。

打ち合いの中でも相手との間合いを取った瞬間に見える構えの中でも同じだった。

俺は思った。


『すごい・・・』


この日見たO先生は、前週までのO先生の構えとは全く違って見えたのだった。

俺にはそう見えたのだ。


それは、蛹から脱皮して蝶になった瞬間を見た様な思いだったのだ。

すると、ある思いが浮かんで来たのだった。


「きっと、合格したことで一切の迷いが無くなったのだろうな・・・」

「それが確信となり、格となって表れているのだろうな・・・」


これまでの俺は、八段の先生方が共通して持っている七段の先生との違いを感じることは出来ても、それが一体何であるのかが分からなかった。

しかし、それが少しだけ分かったような気がしたのだ。


昨年八段に昇段したK先生の時は、昇段の前後、しばらくK先生は稽古に来られていなかったからその違いに気づけなかったのだ。

八段になってから稽古に来られるようになった時には、既に館長と同じオーラを放っていたのだ。


しかし、今回のO先生は、昇段審査日前日の稽古を見ていたのだ。

だから、気づけたのだと思う。

その違いに。


O先生は、その日の稽古の最後に穏かな表情でお礼を述べられ、68歳だと言われた。

七段での修業期間が、20年だったのか30年だったのか、何年だったのかは分からない。

しかし、やはり壁を越えた時、人は変わるのだと思ったのであった。


越えたから変わったのか、変わったから越えられたのか・・・。

本当のところは、俺にはまだ分からないのだが・・・。


俺は、自分の感覚で得た気づきを、もしかしたら剣道女子だったというPさんなら分かって貰えるかも知れないと思い、『気骨ある人生』という言葉のお礼に、剣道での気づきをコメントしたのであった。


(つづく)

2019年12月14日 (土)

俺の道 ~アラカン編~ 自己実現塾『晴太老の部屋』の巻 (4)

(4)お釈迦様の掌の上

Pさん、参りました!


俺は、Pさんへの返信コメントの冒頭にこう書いたのだった。

剣道の三本勝負なのに、一撃でいきなり二本取られてしまったような気分だったのだ。

Pさんからのコメントに書かれていた言葉とは・・・。


『気骨ある人生を送ってこられたのですね』


俺は、これまでの人生でそんな風に言われたことは、かつて一度も無かった。

胸を一発で打ち抜かれた感じだった。

イチコロだった。


男前だった。

男前過ぎだった。

カッコ良過ぎだった。


俺はシビレタのだった。


『男前』は俺にとっては、女性に対する最上級の讃辞なのだ。


なぜなら、若い頃の俺は、ただ可愛いだけのアイドルとかには一切の興味が無く、『鬼龍院花子の生涯』を演じた夏目雅子と、『極道の妻たち』を演じた岩下志麻に憧れたのだ。


そして俺は、『沈黙は金、雄弁は銀』という言葉を思い出したのだった。

正にPさんの一言は、『沈黙は金』に値する一言だと思ったのだ。


するとその日の夜、晩飯の支度をしていた俺はあることに気づいたのだった。


それは、『気骨ある人生』だなんて・・・と、一人Pさんの言葉を思い出し、ニヤケながら炒め物の鍋を振っている時だった

俺は、Pさんに対し、なんて褒め上手な人なんだろうと思ったのだった。

そして、きっとご家族(特に旦那さん)は、奥さんの掌の上で転がされていて(遊ばせて貰っていて)、幸せなんだろうなぁと思ったのだった。


するとその時、ふと俺の中でお釈迦様の掌の上の孫悟空のイメージが湧いて来たのだった。

そして、以前子どもの頃に見た、堺正晃主演のドラマ『西遊記』の中の、夏目雅子演じる三蔵法師を見て、夏目雅子に憧れていたことを思い出したのだ。


俺の記憶の中では、夏目雅子を好きになったきっかけは、『鬼龍院花子の生涯』と『時代屋の女房』だとばかり思っていたのだが、そうではなかったのだ。


『西遊記』の三蔵法師・・・。

それが夏目雅子を好きになった理由の原点だったんだ・・・。

単に夏目雅子の美しさに憧れたのではなかったのだ。


俺は、自分の中の記憶の間違いに気づいたのだった。

そして、『西遊記』を見たのは中学生の頃だったように思ったのだ。


更には、若い頃はよく、自分が孫悟空で、お釈迦様のように掌の上で遊ばせてくれる様な人に憧れを持っていたことを思い出したのだった。


求めるべき理想像が少し見えた様な気がしたのだ。

忘れかけていた求める女性像を思い出したのだ。


ただ、それが今後の俺にどう影響するのかは分からない・・・。

しかし、この夏に味わったようなものとは、大分違う様な気がして来たのだった。

何か、今後の俺が目指す理想の家族像に、新たなスパイスが加わった様な気がしたのだった・・・。


(つづく)

2019年12月13日 (金)

俺の道 ~アラカン編~ 自己実現塾『晴太老の部屋』の巻 (3)

(3)晴太老の部屋

俺は閃いたのだった。

誰もが出入り自由な俺専用の場所を作ってしまえば良い。

そして、イメージとして思い浮かんだのが、『徹子の部屋』だった。

俺は、コミュニティフォーラムの中に『晴太老の部屋』を作ることを思いついたのだった。


俺は、『晴太老の部屋』を始めるに当たって、一番注意したいと思ったことは、俺の気づきは自分の経験体験を通しての気づきである事から、どうしても俺の過去を書くことになることだった。

そして、その過去は、俺にとっては既に乗り越えていることから、既にトラウマだとか、深い心の傷ではないのだが、見方によってはその様に見えてしまい、同じような悩みや迷いを持っている人にとっては、俺の書くことがその人のトラウマや深い心の傷を誘発してしまう可能性があることだった。


それは、最初にアクティングアウトと一緒に教えられた、『マインドレイプ』に繋がる可能性があるということだ。

俺は、その点に注意を払い、俺が書くことは既にトラウマや深い心の傷では無いことを記載した。

その上で、トピックのタイトルは、『俺だけの部屋』みたいになっているが、そうではないから、みんなのコメントも大歓迎だと記載したのだった。


『晴太老の部屋』を始めるに当たって俺は、その考えをまずは記載したのだった。

そして、最初の投稿として、11月にアクティングアウトを知ったことによる俺の気づきを書いたのだった。

いきなりのカミングアウトみたいな形で。


10代は高校1年で中退し、ヤンキーの暴走族で、スピード狂で、ヤクザとも平気で喧嘩し、暴力の塊みたいな人間であったこと。


そして、20代は言葉による暴力、恫喝をしていたこと、不動産業界に入ってからはワーカーホリックであったこと、特に独立してからはそのワーカーホリックが加速し、仕事は上手く行っているのに自ら破滅に向う様な誰もがやらないことを自ら好んでやってきたことなどを。


更にそれらの行為は、傍から見たら自殺行為であり、全てはアクティングアウトのリストカット、いわゆる自傷行為と同じであったことに気づいたこと。

それらの『死を恐れない行為』こそが、俺の最大のアクティングアウトであったことに気づいたことを書いたのであった。


それは16で家を出てから急速に加速し、50過ぎまで約35年もの間続いて来ていたこと。

更には、なぜ俺は、健康的ではないアクティングアウトという方法しか取れない人間だったのか?

なぜ俺は、健康的な心の守り方が出来ない人間だったのか?

その疑問の先にあるものにも気づき始めて来ていることも書いたのだった。


その日は、他のメンバーからのコメントは何も無かった。

俺は更に翌日、『永遠の少年』元型の去勢についての俺の経験を書いたのだった。


実際にその気づきが果たしてそうだったのかは分からないが、俺はユング博士が唱える、『集合的無意識』の中の『永遠の少年』元型に適合していると思ったのだ。


そして、昨年12月の気づき。


俺のそれまでの人生での最大の気づき。

自分を許し、自殺した親父を許し、更には騙されたと思っていた人たちをも全て許す事が出来た気づきが、『永遠の少年』からの脱皮である、『去勢』だったのかも知れないと思うことを書いたのであった。


そして、その過程の中で、『集合的無意識』の中のもう一つの元型、『グレートマザー』元型の負の側面である過保護、過干渉による子どもを支配する心理から脱却出来たことを書いたのだ。


俺は以前、『巨人の星』の星飛雄馬の父親である『星一徹』と同じく、超スパルタで強要ばかりしていた頃は、正しく『グレートマザー』に憑依された状態だったと思ったのだ。

そして、息子と別れた寂しさと苦しみの中で、自分の過ちに気づけたことで抜け出せたことも書いたのだった。


俺は一度ブログで書いている事から、大分コンパクトにまとめて書けたと思ってはいるが、それでもかなりの文章量であることは間違いなかった。

始まって1ヶ月を過ぎたところだが、俺が一番自己開示し、一番多く書いているのは間違いないのだ。


果たして、こんな長いものを最後まで読んでくれる人はいるのだろうか?

最初から、こんなに自己開示して、変な奴と思われるだろうな・・・。

拒絶する人も沢山いるだろうな・・・。

そう思いながら、俺は投稿したのだった。


そして翌日、朝起きて見ると、前夜の内に一通のコメントが寄せられていた。

俺はホッとした。

そして、嬉しかった。


それは、Pさんという子どもを持つ母親である女性からのコメントだった。

それには、『信念』についての問いかけと、アイデンティティについての考えが書かれていた。


俺はコメントしてくれたことへのお礼の気持ちと、『信念』についての俺の考えを、具体例を上げて伝えた。

その具体例には、息子に対する俺の信念を書いた。


すると今度は、Nさんという不登校の子を持つ母親である女性からのコメントが寄せられた。

そこには、『晴太老の部屋』を始めたことへの感謝の気持ちと、俺の気づきや考え方に共感したというメッセージが書かれていた。


そして、そのコメントに対するお礼のメッセージを俺が書くと、その翌日には、Bさんという、やはり子どもを持つ母親の女性から、子どもに対し口うるさくなってしまったり、怒ってしまったりで、子どもを信じることが出来ていない、俺やNさんのように子どもを信じられるようになりたいというコメントが寄せられたのだ。


俺は、自分も以前は超スパルタで、最初から今のようには出来ていた訳ではなかったこと、そして出来るようになったきっかけや考え方を伝えた。


その翌日には、それに対するNさんの自分の経験に基づくコメントがあり、Bさんが俺とNさんに励まされるような形になった。


コミュニティフォーラムでは、聞かれてもいないことに対する会員間の直接的なアドバイスは禁止されている。

だから、あくまで相手の悩みや苦しみを感じ取り、それに合わせた自分の経験体験で得た気づきを伝えるだけだ。

それを読んだ人がどう捉えるかは、人それぞれなのだ。


しかし、そうは思っていても、活字の表現だけで、こちらが望んだ形で受け止めて貰えると、やはり嬉しいと感じるのだった。

やってみて良かったなと思えるのであった。


更には、まだ投稿者個人の経験体験や考え方などはコメントせずとも、共感するところが多々あり、興味深く読ませて貰っているとお礼の気持ちを伝えてくれる人も出て来た。


これまでに、俺の『晴太老の部屋』には、4人の人が来てくれたのだ。


そして、12月3日、俺は自分が剣道の二段に合格した時に館長が話してくれた、『これからの心構え』から得た気づきの話しを通し、俺が『親』という肩書を捨てられたことと、肩書を捨てたことで、俺自身が『自由』になり、息子との関係が良好になっていること、更には、そこに至る際の自分の気持ちの変化を新たに書いたのだった。

するとその翌朝には、BさんとNさんから共に励みになったとのお礼のコメントが来たのだった。


俺はその日、新たに今月の課題である『心の器を育む』こと、そのためのルーティーンについての考え方を書き、二人の『子供は親への授かりものではない。神様から預かった尊い個の人格を持った存在なのだ』という考え方についての俺の考え方を書いた。


そこに俺は、田坂広志先生の『3つの真実』と、その真実に基づく田坂先生の問いかけを書き、そこから得られた俺の気づきを記載したのだった。


するとその日の午後、『晴太老の部屋』を始めて、最初にコメントを送ってくれたPさんからのメッセージが来ていた。


Pさんからのメッセージは数行と短いものだった。

そして、Pさんも昔剣道に打ち込んでいた時期があったと書かれていた。

Pさんは剣道女子だったようだ。


そして、そこに書かれていた一言で、俺はPさんから剣道の三本勝負なのに、一撃でいきなり二本取られたような気持ちになったのだった。


(つづく)

2019年12月12日 (木)

俺の道 ~アラカン編~ 自己実現塾『晴太老の部屋』の巻 (2)

(2)誰にも見せない自分の感情を記す日記に代わるもの

事務局担当者から回答を得た俺は、直ぐお礼の返信をした。

そして、取りあえずコミュニティフォーラムの中では直ぐにブログの存在は明かすことは止めた。

そして、今後の塾との関わり方を考えたのだった。


俺がブログの存在を明かすかどうかを考えたのには理由があった。

それは、10月26日のメールで野口先生が『誰にも見せない自分の感情を記す日記』をつけることを推奨されたことにあった。


野口先生からのメールを読み、俺は直ぐに田坂広志先生の『こころの技法』に記載されていた、『内省日記』と同じだと思ったのだ。

そして俺は、『こころの技法』を読んで『内省日記』を知った時、俺が『俺の道』を書いていることとある意味同じだと思ったのだ。


内省日記との違いは、『誰にも見せないもの』なのか、『誰かが見る可能性があるもの』なのかの違いと、小説風に語り口にしているかどうかだ。

そして、この『誰かが見る可能性があるもの』であることが、実は今の俺にとってはとても意味のあることなのであった。


やっていて気づいたことなのだが、誰かに見られる可能性があるということで、俺は一度流して書いたものを何度も読み返すのだ。

そして、その読み返しにこそ、本当の意味があることに気づいたのだ。


何度も読み返すことで、その出来事の意味に気づいたり、当時の自分の感情に気づいたりするのだ。

そして、少しでも嘘偽りの無い真実の自分を表現したいという心理が働き、誇張されていた記憶が修正されたり、それまでのネガティブな捉え方がポジティブな方向へ変わったりするのだ。


その結果、書いている出来事に対する当時の捉え方や対応の仕方を見つめることが出来、当時の自分をそのまま受け入れられるのだ。

更には、記憶に残る出来事に対し、一つずつ『あれで良かったのだ』と思えているのである。


俺はそのことに書いている内に気づいたのだ。

最初からそれを狙った訳ではなかったのだ。


最初は、自分の気づきを将来の息子に役立つかどうかは分からないが、今の俺が残せるものとして、言葉として残してやりたい、それが見ず知らずの誰かにも役に立ったら更に嬉しい。

ただそれだけだったのだ。


それが結果的に、小説風に書くことに気づいたことで、それが自己受容に繋がっているということなのだ。

それも急速に。


そして、面白いのが、何度も読み返しながら書いている内に、その当時関わっていた、既に忘れかけていた人たちに対する色々だった思いが、全て感謝する気持ちに変わって来ることだった。

これは一種、『遺書』を書いた時に出て来る感情に近いものがあるかも知れないと思ったのだ。


俺は、何度か本気で死を考えた時に、何人もの人それぞれに『遺書』を書いたことがあるのだが、最後は『感謝』しか無くなるのだ。


こんな弱い自分で、ごめんね。

ダメな自分で、ごめんね。

でも、そんな自分とこれまで付き合ってくれて、ありがとう。

そういう気持ちになるのだ。


そこまで行き、最後息子宛に書いた時、俺は途中で書くことが出来なくなり、『俺と同じ苦しみを味わわせてはいけない』、『俺と同じ思いをさせてはいけない』と気づいたのだ。

そして、その感謝に少しでも報いたいという気持ちが生まれ、もう少し頑張ってみようと踏ん張ることが出来たのだ。


そして今、『俺の道』を書くことで、当時の若かった自分に対し、息子に語りかけるように、認め、許し、受け入れることが出来るようになって来たのだった。


言い換えれば、自分で自分を育て直しているようなものなのだ。


俺は、『自己受容』を深めて行く為の一つの手段として、『自分の過去を小説風に書くこと』と、その効果・効用を知って貰えると、他の受講生の気づきに役立つのではないかと考えていたのだ。

しかし、やり方を間違えると、『俺の過去を知って貰いたい』と思っているようにしか受け止められかねないとも思うのだ。


結果的にどう受け止められるかは、人それぞれだから、俺自身はどう思われようと一向に構わないのだが、入口の目的だけは一応ハッキリと伝えておかないといけないとも思っているのだ。


そして、塾が始まった11月1日にコミュニティフォーラムの最初のトピックに、日記についてのトピックが立ったのだった。

俺は、そのトピックが立った時に、そういうことを発言して良いものなのかどうか悩んだのだ。

俺はこういうやり方をしているよと、言っていいものなのかどうなのか。

直ぐに答えは出なかった。


俺は、11月の動画を見てのコメントで、ある女性受講生の子どもとの会話に感銘を受けたのだった。

そして、俺はその感銘から与えられた喜びに対するお礼を伝えたくなり、『コメントを見て感じたこと、気づいたこと』のトピックを新たに立てて発信したのだ。


俺の発信には、何人かの方が反応してくれ、俺は自分の考え方や気づきを綴るようになった。

そんな時、11月も下旬になって来た頃、俺が立てたトピックに新たに投稿してきた女性のコメントに俺は直ぐに対応出来なかったのだ。


その女性のコメントを読んだ時、俺は以前の俺と重なったのだった。

凄く相手のことを心配しているのに、その表現が不器用で上手く伝えられず、相手を攻撃しているように捉えられかねない内容だったのだ。


俺はその対応を考えた時、俺の塾への関わり方を明確にしておかないといけないと思ったのだ。

そして、俺は野口先生(事務局)宛てに質問メールを送ったのだった。


その間に先の女性がコメントした相手の女性がコメントを返したのだった。

内容を読むとその女性も同様だった。

お互いがお互いを心配しているように俺には感じるのだが、見え方は丁寧な言葉を使っていながらも攻撃し合っているように見えてしまうのだ。


俺は、先の女性が投稿したことに気づいて直ぐにフォロー出来なかったことを悔やんだ。

そして、俺が二人に対するフォローを考えている内に、二人のコメントは事務局により削除されたのだった。


俺は何か凄く悔しくなった。

そして、やるせない気持ちになったのだった。


この自己実現塾は、オンラインの塾だ。

現状、概算で160人位が参加していると思うのだが、自分のプロフィールを書いている人は1割前後だと思う。


そういう意味では、本名も住まいも分からず、何処の誰かも分からない人たちが集まって、それぞれがそれぞれの目的で受講している人たちが集まっているだけのコミュニティなのだ。

塾が終わった後も人間関係が繋がっていく人が出来る確率はかなり低いと思うのだ。


人のことなど気にせず、自分の学びだけに集中してコミュニティフォーラムには参加せず、一人でやっているのが一番良いのかも知れない。

しかし、それでは、この塾を100%活用していることにはならないと思うのだ。


自己受容を深めることで、他者受容も深まると野口先生は言われている。

そして俺は、その『逆も真なり』もあると思っているのだ。

その為のコミュニティフォーラムだとも思っているのだ。


女性二人のコメントが削除されたその日の夜、俺は晩飯を作りながら考えていた。

俺のブログの存在を明かさずに、かつ、ブログに書いて来た俺自身の気づきを、押しつけや余計なお世話にならない形で上手く伝えられる良い方法がないかと・・・。


翌朝、俺は起床してトイレに入っていた。

そして、閃いたのだった。


『俺の道』をコミュニティフォーラムの中に作っちゃえば良いんだ!


これまで俺は、メインの動画を見てのコメントを記載した後、自分のトピックにコメントをしてくれた人への返事を書いたり、他の人が立てたトピックに書きこんだりしていた。

要は、あっちこっちで書いていたのだ。

そして、トピックは今後、毎月の課題が変わっていく中で、色々なものが色々な人から立てられると思ったのだ。


そう考えると、それでは統一性が全く無く、自分の気づきもあっちこっちに散らばってしまうと思ったのだ。

それでは、最終的に何が何だか分からなくなってしまうのではないか?

俺は、そう思っていたのであった。


それに対し、これから自己実現塾が終了するまでの残りの11ヶ月間をずっと通して書き続ける場所を作ってしまえば良いと気づいたのだった。


誰でもが出入り自由な俺専用の場所を作ってしまえば良い。

俺はそう考えたのだった。


(つづく)

2019年12月11日 (水)

俺の道 ~アラカン編~ 自己実現塾『晴太老の部屋』の巻 (1)

(1)自己実現塾との関わり方

11月25日、俺は自己実現塾の野口先生宛てに一通の質問メールを送った。

塾では、事務局宛てと野口嘉則先生宛ての質問メールが用意されていたが、野口嘉則先生からメンバー個人へ直接の返信はないことになっていた。

野口先生への質問は、教えられたことに対する質問で、メンバーからの質問の中で多いものに対して、週2回のメールレターの中で質問に答えて行くという形式を取っているのだ。


俺の質問は、教えられたことに対する質問ではなく、野口先生から回答を得られる訳でもないことを知りながら、敢えて野口先生宛てに送ったのだった。

それは、俺自身の今後の塾との関わり方に関する質問であり、『野口先生の塾を邪魔するようなこと(混乱させるようなこと)はしたくない』という、俺の気遣いからのものだった。

そのため、野口先生から直接の返信が頂けなくても、事務局からでも構わないから返信を頂きたい旨を記載して質問を送ったのだった。


質問内容は2つだった。

まず一つ目は、野口先生の動画セミナーやメールレターで語っている言葉を引用、転載、転送などを禁止されている為、俺が『自己実現塾』で学んでいることと、その気づきをブログに書いている事に対する可否。

2つ目は、気づきについてブログをやっていることをコミュニティフォーラム内で明かして良いかどうかの可否。

この2点だったのだ。


俺は、『俺の道』のURLを記載して質問メールを送った。

そして翌日、俺の思った通り、野口先生直接ではなく、事務局から回答が送られて来た。

その回答は、あくまで事務局担当者のこれまでの経験に基づいた個人的な参考意見としてのものだった。


そこには、過去のオンライン塾で、俺のように他の受講生の役に立てればとの善意からばかりではなく、自分のビジネスの宣伝も兼ねてURLを記載する人が何人もいたことからHPやブログのURLの書込みは禁止にしているとのことだった。

そして、野口先生が語っている言葉の引用、転載、転送については、禁止だが、学んだ者が自らの言葉で語られることは問題ないと思うとの回答だった。

俺には、事務局担当者からの回答で十分だった。


そもそも俺にとってのブログ『俺の道』は、今では俺の自己受容を深めて行く為の一つの手段になっていて、書いている目的は、自分自身の為なのだ。

そして、将来の息子の為に、現状残してやれるものを何も持っていない俺にとって、唯一残せるものとしての『言葉』としてのものなのだ。

更に欲を言えば、見ず知らずの誰かが、偶然俺のブログと巡り会い、その言葉の中から何かを感じ、何かを得てくれたら、こんなに嬉しく、ありがたいことはないというだけのことなのだ。

そして、その喜びを感じることが俺自身の幸せの一つである以上、全ては自分自身の為なのであり、ビジネスが目的ではないのだ。


俺のブログは、アフリエイトや何らかのビジネスにつなげることを目的としているようなものではないから、仮にどんなに読者が増えようと1円にもならないものなのだ。

だから、本音で楽しく書けるのだ。

その為に俺のブログでは、コメントやトラックバックというものも一切やらず、メールのみの対応にしているのだ。

最近のSNSのような、見ず知らずの誰かの誹謗中傷に付き合う気は全く無いのだ。

何かあれば直接メールで伝えてくれれば、それにはきちんと対応するつもりなのだ。


逆にいえば、だから、『ビジネス目的や宣伝の様には思われたくない』という思いも強い。

そのように思われる位なら、知られない方が良いと思っている。

だから俺は、野口先生(事務局)へ確認したのだった。


(つづく)

2019年12月10日 (火)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (7)

(7)仲間

いつの集会だったかは定かではないが、季節は夏だった。

その時は中規模の3~400台レベルの集会だった。

この頃の俺は、特攻一番機と信号止め、そして走るルート決めは俺に全て任されていた。


この夜は、結果的に中規模レベルの台数となったのだが、当初は内うちの100台レベルの集会の予定で、行き先は吉祥寺だった。

集会の噂を聞きつけて集まって来たり、途中参加して来たりで、吉祥寺に入る頃には、規模が膨らんでいたのだった。


俺はいつも通り先頭を走り、五日市街道を右折して近鉄の前を通り、吉祥寺駅に向った。

そして、吉祥寺駅北口のガード手前の交差点で信号止めをし、後続車両を通過させていたのだ。

俺は、交差点内で停止し、空吹かしで爆音を轟かせていたのだが、その時いきなりあり得ないことが起こったのだ。


エンストだった。


俺は、キックでエンジンを再始動しようとしたのだが、エンジンは掛からなかった。

サンパチにはセルが付いていなかった。

何回キックしてもエンジンは掛からなかった。


俺は、ヤバイと思った。

交差点の斜向かいには交番があったのだ。

『なかよし』でいつも鬼ごっこをしていた警官がいる交番だった。


俺は、後ろに乗っていたN村に押しがけをしようと、後ろから押す様に指示した。

しかし、押し掛けをしてもエンジンは掛からなかった。


交差点の斜向かいの交番から二人の警官が外に出て来て、通過車両に目を奪われていた。

俺は、こっちに気づかれる前にエンジンを掛けようと何度もキックを繰り返した。

しかし、エンジンは掛からなかった。


何台かが俺の横で止まり心配して声を掛けてきた。

その中の1台に頭のI森を後ろに乗せた、特攻隊長のH庄のFXもいた。


俺の周りに数台が溜まったことで、警官がこっちに気づいた。

俺はI森に言った。


「逃げろ!!」


全ての車両が通過した後、俺は1台だけ取り残された形になった。

俺は完全に交番の警官に見つかった。


後ろに乗っていたはずのN村は既に走って逃げていた。

俺はエンジンを掛けようと、ギリギリまで粘ってキックをし続けた。

彼女を置いて行けないと思った。


この当時、特攻服に靴はブーツか長靴の奴が多かった。

しかし、俺一人だけは地下足袋だった。


俺は常に先頭を走り、突っ込んで行く役割だった。

その分パクられる確率も高くなることは覚悟していた。

最悪は走って逃げるしかないと思っての地下足袋だった。

サッカーで鍛えた足と体力には、それなりに自信があった。

だから、ギリギリまで粘った。


交番から二人の警官がこっちに向って走り出して来た。

そして、相手の顔がハッキリ見える距離まで近づいた時、俺は諦めた。

彼女を捨てて走って逃げたのだ。


俺は近鉄前からサンロードに入り、五日市街道方面に全力で走った。

すると、西友の向いにあった寺の暗闇が目に入った。

俺はしめたと思った。

瞬間的に、暗闇の中に隠れることを考えたのだ。


後ろを振り返ると、警官との距離は4~50m位あった。

警官との差は広がっていた。

逃げ切れると思った。


俺は寺の中に走り込んだ。

10m位走ると正面に高さ1m位の垣根があり、先は真っ暗だった。

よし!と思った。


俺は、その垣根をハードルを飛ぶように飛び越えたのだった。

着地したら直ぐに身を潜めるつもりだった。


しかし、その考えは一瞬にして消えたのだった。

そこにあるはずの地面が無かったのだ。

俺は何が起こったのか分からなくなった。


俺は数m落下した。

全身に衝撃が走った。

そして、着地に失敗した俺は呻き声を上げてしまった。

辺りは真っ暗闇だった。

自分がどうなっているのか全く分からなかった。


気づくと俺は、上から光を当てられ、押さえつけられていた。

俺は、二人の警官に敢え無く御用となったのだった。


しばらく俺は立ち上がれなかった。

俺が落ちた所は、地下駐車場への入口だった。

見上げると俺は、垣根の上からだと3~4m落ちたようだった。

落ちた先もコンクリートだった。

俺は運良く、特攻服を多少破いた程度で、大きな怪我はしていなかった。


俺は、パトカーで三鷹警察に連行されたのだった。

そして、夜通し仲間の名前を尋問されたのだが、俺は黙秘を貫いた。


更に、言わなければ今夜も泊って行って貰うことになるぞと脅された。

しかし、俺はそれならそれでいいと覚悟し、そう答えた。


朝になり、親元の連絡先を聞かれ、俺は答えた。

そして、警察から親元へ連絡されたのだ。

しかし、電話に出たのはおばあちゃんらしく、三鷹警察と言った瞬間に電話を切られたと教えられた。


俺は声を上げて笑った。

おばあちゃんらしいと思ったのだ。

あの人はそういう人だった。


俺は、何日でも泊っていってやると言った。

朝7時を過ぎた頃、警察は諦めて俺を解放すると言った。


今がどうなのかは分からないが、当時は基本的に現行犯じゃないとパクれなかった。

俺は、走っているところを捕まったのではなく、見つかった時はエンジンが止まった単車に跨っていただけだったのだ。

仲間の名前を出して、『協同危険行為』にしないとパクれなかったのだ。

更には、サンパチは違法改造車ではあったが、それも走っていた訳ではないのだった。

警察は、交通違反のキップさえ切れなかったのだ。


俺のサンパチは、吉祥寺から三鷹警察署まで運ばれていた。

そして、絶対に乗って帰るなよと注意され、俺は押して帰ることになったのだった。

しかし、どうせエンジンは掛からないだろうと思っていた。

昨夜あれだけやって掛からなかったのだ。


しかし、明るい所で、特攻服姿でとぼとぼと派手な族車を押す俺の姿はみっともなかった。

そして、情けなかった。

まるで、翼をもがれた鳥のようだった。


一晩中尋問され続け、一睡もしていなかったことで疲れてもいた。

家まで押して行くことを考えると気が遠くなった。

俺は、最初の交差点を曲り、警察署から見えなくなった所で、念のためと思いエンジンを掛けてみた。


「バリバリバリバリ・・・・・・」


驚いたことに、前夜あれだけキックし押し掛けまでして掛からなかったエンジンが一発で掛かったのだ。

この瞬間、俺は生き返った。

俺の彼女は、何を拗ねていたのか・・・。


時間は既に8時を過ぎていた。

白バイの出動時間だった。

俺は、白バイに出くわさないことだけに注意し、裏道で帰路についたのだった。


帰宅すると俺んちの前の駐車場は族車で一杯だった。

そして、玄関ドアを開けると、中には頭のI森を中心に花小金井の大半の奴らが全員で雑魚寝をしていた。

その中には先に逃げたN村の顔もあった。

俺はN村が無事逃げ切っていたことを知って安心した。


そして、みんなの寝ている姿を見て俺は思った。


「待っているなら起きて待ってろよなぁ・・・」

「でも、心配して待っていてくれただけ上等かぁ・・・」


この時の俺は少しだけ嬉しくなったのだった。

そして、俺は全員を起こすべく、怒鳴って言ったのだ。


「帰ったぞーーーーー!!」


頭のI森が目を覚まし、眠そうに目を擦りながら言ったのだった。


「大丈夫だったかぁ?」


俺は大声で言ったのだった。


「全然大丈夫じゃねーよ!!」

「でも、誰の名前も言ってねーから安心しろ!!」


みんな安堵の顔なのであった。


この後、俺は何度か集会で彼女を捨てて逃げることになるのだった。

そして、警視庁内での俺の名は上がって行ったのだ。


先頭は、検問を張られていても、止まったり、Uターンは出来ないのだ。

台数が多くなればなるほどそうだった。


検問やバリケードを張られていても捨て身で突っ込むしかなかったのだ。

一度だけだが、俺は後ろの奴を下ろし、単身で突っ込んだことがあった。

検問のバリケードの直前に俺は彼女から飛び降り、彼女を一人突っ込ませたのだ。


そして、そこを突破口に仲間たちは検問を破ったのだ。

俺は、彼女を捨て、後ろから来た奴の3ケツになり逃げたのだ。


その時彼女は、第八交通機動隊に没収された。

そして俺は、八交機の指名手配になったのだった。

1ヶ月ほど時間は掛かったが、後に俺は彼女を取り戻した。

戻って来た彼女は傷だらけだった。


今では考えられないようなめちゃくちゃさだった。

しかし、当時の俺は、それが俺の生きる道だったのだ。

そして、いつしか俺の後ろには、誰も乗らなくなったのだった。


(つづく)

2019年12月 9日 (月)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (6)

(6)なかよし倶楽部

花小金井には、『BLACK EMPEROR』の他に、レディースの『なかよし倶楽部』というチームがあった。

当て字だったので、漢字の記憶は定かではない・・・。

当て字が思い出せないのだ・・・。

奈花夜紫?

奈華夜死?

那華夜死?

仲夜紫?

そんな当て字だった。


『なかよし』は、原チャリの集会だった。

当時の原チャリは、パッソル、パッソーラ、タクトが中心だった。

原チャリ集団の前後に1台ずつ、原チャリを守る形で中型の単車を配置して走っていた。

大体3~40台位の小さな集会だった。


花小金井の男たちは、あまり『なかよし』を好んではいなかった。

幹部連中の彼女が出ているのに幹部は出なかった。

奴等なりのメンツがあったのだと思う。


しかし、走ること自体が好きな俺には関係なかった。

メンツも何も無かった。

楽しければそれで良かったのだ。


俺は、サンパチとパッソルの2台持ちだった。

誘われれば、『なかよし』にも喜んで参加した。

そして、俺は毎回誘われたのだ。

俺のパッソルは、もちろん常時直管で、こいつもめちゃくちゃうるさかった。


パッソルの後発で発売されたパッソーラとタクトの方が、馬力があって全然速かった。

レディースの連中は、パッソーラとタクトが中心だった。

しかし、俺のパッソルは、直管にしてから何故かスピードが1割位アップしていたのだ。

パッソーラやタクトにも引けを取らなかった。

しかし、最高速度では勝つことは出来なかった。

やはり音だった。


レディース連中の原チャリは、基本ノーマルだった。

僅かに外観をドレスアップしている程度だった。


そんな『なかよし』での俺の役割は、最後尾での親衛隊的役割だった。

中型車の守りが無い時には、俺がサンパチで参加した。


しかし、『なかよし』の面白さは、やはり原チャリだった。

行き先はいつも吉祥寺で、吉祥寺では結構有名だった。


吉祥寺北口アーケード通りのサンロードや、駅ビルのロンロンを攻めていた。

サンロード内を走っているといつも歓声と声援が沸き起こっていた。


俺は、駅ビルのロンロンの中まで入って行ったこともあった。

交番警官のチャリンコとの追っかけっこが結構面白かったのだ。


しかしこの後、俺はこの交番警官にパクられることになるのだが、この時の俺はまだ知る由もないのであった。


(つづく)

2019年12月 8日 (日)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (5)

(5)『来るもの拒まず、去る者追わず』の精神の始まり

花小金井に引っ越してきてからの3ヶ月程は、怒涛のような日々だった。

K高校で仲の良かったM沢とも、集会の時にしか会わなくなっていた。

N村とTが出て行った後、やっと俺に平穏な日々が戻って来たのだった。

しかし俺は、毎日朝晩の走りだけは止めなかった。


それからしばらくは、俺は仕事を終えると帰宅し、近くの銭湯で風呂に入って、自分で簡単な晩飯を作って一人で晩酌をしながらのんびりする日が増えて行った。


すると不思議なことに、それまではほとんどが男しか来なかった俺の部屋に、何人かの女が出入りするようになったのだった。

そして俺は、その内の何人かと関係を持つようになり、女を知ったのだった。


毎日のように違う女が来た。

俺のサンパチの後ろに乗せてやった奴もいた。

彼氏がいる女もいた。

しかし、俺は誰も彼女にした訳では無かった。

今で言う、『セフレ』みたいなものだった。


それまでの俺は、自分が惚れないと女とは付き合う気にならなかったのだが、この時から対応が変わっていったのだった。


自分でもなぜそうなったのかはよく分からない。

男のサガなのだろうか・・・?

そして、この頃から俺は、『来るもの拒まず、去る者追わず』の精神に変わって行ったのだった。


(つづく)

2019年12月 7日 (土)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (4)

(4)アンパンマン

俺は、掛け持ちでやっていたファミレスのバイトは、5月一杯で辞めていた。

昼間の肉体労働がキツくて掛け持ちが続かなかったのもあったが、それ以上に遊ぶ時間が必要だったのだ。

そして、その後、N村とTが俺の部屋に居就くようになったのだった。


N村は、背は低かったが女ったらしの二枚目だった。

頭はかなりイカレていた。

Tは背が高い優男で、アンパン小僧だった。


集会では、俺の後ろは、この二人の内のどちらかだった。

二人とも頭が悪く、二輪免許の学科試験に受かることが出来ずに無免許だったのだ。


二人には彼女がいた。

俺にはいなかった。


中三の初恋で別れた以降、俺が惚れるような女は周りにはいなかったのだ。

何人かには告られたのだが、その気になれなかったのだ。


この頃の俺は、考え方がめちゃくちゃ固かった。

自分が惚れた女としか付き合いたくなかったのだ。


N村とTの彼女は共に小金井の女だった。

そして、俺の職場の直ぐ近くだった。


俺はTに誘われ、Tの彼女の家に付いて行った。

Tの彼女のCの家は、結構裕福そうな家だった。

しかし、行ってみると、そこはアンパン好きの溜まり場だった。

小金井の女は、結構マブいのが多かった。


俺はここでアンパンを覚えたのだった。

そして、他の連中はラリっての乱交だった。

Cの親は、そんな状況でも何も言わなかった。

そして、夜になるとアンパン仲間がCの家に集まり、アンパンにおぼれる生活になっていった。


俺は朝になると、Cの家から直接仕事に行っていた。

何回か、半日くらいラリったまんま仕事をしたこともあった。


この当時、俺はまだ女を知らなかった。

しかし、アンパンは好きだったが、女にはあまり興味が無かった。

俺の横で誰かがHをしていても、俺は全く気にならなかった。

俺は自分の世界に入っているだけで良かったのだ。


Cの家への出入りは数週間続いたが、いつしか俺は飽きたのだ。

こいつらと一緒にいても何も無いと思ったのだった。

俺は一人、自分の部屋に戻った。


Tは彼女の家に住み着いた。

そして、N村はホストになると言って歌舞伎町に移って行った。


俺がしばらく自分の部屋に戻っていなかったことで、帰ってみると誰も居ない静かな状態になっていたのだった。

そして、この後、俺としては全く予想していなかった状況になっていったのであった。


(つづく)

2019年12月 6日 (金)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (3)

(3)天上天下唯我独尊

当時の俺は、集会があるから走るのでは無かった。

俺は、毎朝毎晩一人で走っていた。

その中で、週末になると集会があったから出ていたという感覚だった。


俺は、総長とか、特攻隊長とか、親衛隊長とか、そういう肩書みたいなものには全く興味が無かった。

俺が唯一拘ったのは、特攻一番機の信号止めだった。


信号無視で先頭で交差点に進入して車を止め、全車両が通過するまで空吹かしし続けるのだ。

そして、全車両が通貨した後、最後尾から反対車線を再度先頭まで走り抜き、先の信号をまた止めるという役だった。


通常の集会だと2~300台で、交差点内で止めている時間は数分レベルなのだが、大規模な集会で1,000台を超える様な時は、信号止めの時間も10分以上になり、最後尾から先頭までは1Km以上になっていた。

最後尾から反対車線を全開で先頭まで走り抜くのは爽快だった。


新青梅街道などの中央分離帯のある道路の反対車線を全開で走るのは特に快感だった。

前からダンプが並んで走って来ても、俺はダンプとダンプの間のど真ん中から正面に突っ込んで行っていた。

後ろに乗っていた奴は、悲鳴を上げ、すり抜ける瞬間は、後ろの奴の股間に思いっきり力が入るのが分かって面白かった。


俺を避けるために事故っていた車もあった。

次第に俺は、仲間内からキチガイ扱いされるようになった。

そして、俺の部屋には更に毎日人が集まるようになっていったのだった。


そんなある日、花小金井の幹部が俺の部屋に集まっていた。

そして、頭のI森が言ったのだった。


「俺たちは今後『硬派集団』で行く!」

「シャブ厳禁、全員髪は黒で二グロにしろ!」


真っ先に異を唱えたのは俺だった。


俺は金髪のアフロだったのだ。

俺と同じ長髪系は、俺の他はN村とTの二人だけだった。

I森の言った言葉は、正に俺たち三人に言った言葉だったのだ。


俺は言った。


「てめぇ、誰に口利いてんだぁ?!」

「おめえは、エンペラーの頭かもしんねーけどなぁ、俺はてめえの舎弟じゃねぇんだよ!」

「エラそうな口利いてんじゃねーぞ、この野郎!!」


俺とI森は言い争いになったのだった。

そして、いつしか俺の身体は勝手に動き、気づいた時にはI森に馬乗りになっていたのだった。

I森のあまりの弱さに俺は拍子抜けした。


そして内心では、そんな弱いI森が三中出身の悪どもを束ねて頭を張っているのは、こいつには人望があるんだろうなぁと思ったのだった。

俺には無いものをこいつは持っていると思ったのだ。


俺はI森を放して言った。


「俺に命令するな」

「でも、お前の頼みだって言うなら聞いてやるよ」

「但し、一回だけだけどな」


結局、I森は俺に二グロになってくれと頼み、俺はそれを聞いてやることにしたのだった。


みんなが帰り、N村とTと俺の三人になってから、俺は二人から言われたのだった。


「お前がもう少し頑張ってくれれば、俺たちも二グロにならずに済んだのによ~」


俺は言ったのだった。


「あそこで俺がI森を締めちまったら、あいつのメンツが丸潰れだろーが」

「それでも良かったのかよ?」


二人は言ったのだった。


「まぁ、しょうがねぇなぁ・・・」


この頃の俺たちは、三人で同居状態だったのだ。

働いているのは俺一人だった。

N村も俺が入った後は休んでばかりで、結局仕事がキツくて続かずに辞めていたのだ。

Tはアンパン小僧で最初から仕事に就いてないプー太郎だった。


何だかんだで、俺はこの二人を食わしてやっていたのだ。

俺が買い置きしていた食料を、こいつら二人は俺のいない間に食ってしまうのだ。

一度、月末の金の無い時に、冷蔵庫の中を見るとキャベツが半分しか無い時があったのだ。

その時は、俺がキャベツを千切りにして、ソースをかけて三人で分けて喰った記憶が鮮明に残っているのだ。


今となっては、良い思い出だ。


しかし、俺は今でもそうなのだが、人に命令されると、ことの良し悪しに関わらず、反射的に反抗してしまうのだ。

逆に同じことでも、お願いされると、一肌脱いでしまうタイプなのだった。

言われ方の違い一つで俺の反応は変わってしまうのだ。


俺は、自分でも結構バカな奴だと思う。

もう少し上手い生き方もあったと思うのだが、そういう性質なのでしょうがないのであった。


(つづく)

2019年12月 5日 (木)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (2)

(2)サンパチ

城を手に入れた俺が次に求めたのは女だった。

俺が選んだ女は、SUZUKIのGT380(通称サンパチ)といった。

5月にバイク雑誌の個人売買で手に入れたのだった。

売主は、三鷹のスペクターの奴だった。


俺は本当は、KAWASAKIのZ400FXが欲しかったのだが、FXは当時一番の人気車種で、高くて俺には手が出せなかったのだ。

FXは発売されたばかりで、新車だと45万位した。

中古でも30万以上した。

俺が手にしたサンパチは12万だった。


購入した時は、濃紺の車体に白の三段シートに集合マフラーの付いただけの地味な奴だった。

俺は、このサンパチを自分の手でドレスアップしたのだ。


地味な濃紺だった車体は、剥離剤で一度全て色を落とした。

そして、小さなへこみは全てパテ埋めし、丹念にペーパーで磨き上げた。

そして、ムラにならないよう、風の無い晴天の日を選んで、綺麗な紫のメタリックに塗り替えた。


集合マフラーは、サイレンサー部分を全て切り落とした。

音がでかくなるよう開口部が広がるように斜めにカットした。

そして、耐熱スプレーで真っ赤に塗装した。


更には、旗棒を付け、風防を逆さにに付けた。

この風防を逆さに付けるのがミソだった。

角刈りにした菅原文太の前髪みたいな感じだった。


ハンドルは歪みやへこみが出ないよう、ハンドルのパイプの中に砂を詰めて、ゆっくり絞った。

アップハンドルの根元を直角になるまで絞り、更にグリップが前輪に対して並行になるように捩じりも加えた。


そして、仕上げはオイルをカストロにした。

カストロの香りは、シャネルの5番みたいなものだ。

カストロの香りが最後の締めなのだった。


逆さに付けた風防と幅25cm程度しかない絞りハンドルとの相性は抜群で、めっちゃマブかった。


この絞りハンドルの絞りと捩じり具合がミソなのだった。

通常ハンドルは前輪に対して十字の形で位置し、ハの字になり車体幅の中で一番広くなるのだが、俺の絞りハンドルは、タンクの幅とほとんど同じだった。

そして、グリップ位置を腹の前まで下げたものが、俺のスタイルだった。


すると、後ろから見るとその姿は、ハンドルが無いように見えるのだ。

それが俺の拘りだった。


そして紫メタリックの車体に短く真っ赤な直管はめちゃくちゃ映えて、俺のサンパチのシンボルだった。


いじらなかったのは、白の三段シートだけだ。

当時三段シートは、まだ少くて珍しかった。


ここまで完全な族仕様の単車に乗っている奴は、花小金井には誰もいなかった。


俺が付けなかったのは、3連とか6連のホーンだけだった。

ホーンは俺のセンスではなかった。

見た目が下品で好きではなかったのだ。


ほとんどの奴は、まず車体の塗装をしていなかった。

そして、集合マフラーを付けていても、普段はサイレンサーを装着したり、サイレンサー代わりに空き缶を入れたりして音を小さくし、集会の時にだけ外して爆音にしていたのだ。

学生は、普段はノーマルマフラーを付け、集会前に集合管に付け替えたりしていた。


三段シートの奴は一人もいなかった。

常時直管なのは俺だけだった。


その後の俺は、狂ったように走り回った。

毎朝出勤前には、ノーヘルで爆音を轟かせて駅前を旋回してから出勤していた。

そして、仕事が終わり、銭湯に行った後は、毎晩ほぼ同じ時間に同じコースを走っていた。


俺は、サンパチの音が大好きだった。


当時人気があったFXや4Fourは、4サイクルでフォーーーーーン!という綺麗な伸びのある音だったが、サンパチは2サイクルでバリバリとカミナリの様な音だったのだ。

俺のサンパチは花小金井では一番音がでかくてうるさかった。

半径1km以上には轟いていた。

花小金井一というのは、三多摩一と言っても過言ではなかったのではないかと思う。


面白いのは、サンパチは音だけが速く、実際には遅い単車だったことだ。

遥彼方から音だけは聞こえて来るのだが、本体はなかなか現れないという感じだ。

俺のサンパチは、最高速度で160kmが限界だった。

同じ2サイクルのKAWASAKIのKHやYAMAHAのRDは180Km以上出たのだった。


2サイクルは、出足の加速は良いのだが伸びが無いのだ。

4サイクルは逆で、出足はイマイチでも伸びが良いのだった。


あまりに毎晩、同じ時間に同じコースを走るからなのか、ある夜、道路で住民にロープを張られて待ち伏せされたことがあった。

片側一車線の道路にロープが横たえられ、道路の両側にロープを握った二人の男が立っていたのだ。

俺は空吹かしをしながらゆっくり走っていたことでロープに気づいたのだ。

スピードを出していたら気づかずに相当やばいことになっていたと思う。


俺は、わざと近くまで近づき、二人を交互に睨みつけ、思いっきり空吹かしをして、相手をおちょくってからUターンしたのだった。


また、近所に住んでいた族の先輩から俺はいきなり呼び出されたこともあった。

その時、言われたのだ。


「お前、うるさ過ぎる!」

「走るのは良いけど、うちの前だけは音消せ!」


その先輩は当時、『BODY SHOP 003』という、改造車の板金工場をやっている人だった。

俺はその先輩との特別な交流はなかったが、当時の『ヤングオート』というカー雑誌の改造車コーナーで、『BODY SHOP 003』で綺麗に仕上げられた車が何台も掲載されていて、憧れのような先輩だった。


その先輩は、パールピンクのフェアレディ240ZGに乗っていた。


オーバーフェンダーと三分割のリアフェンダーは綺麗にパテ埋めされ、極太のCR88を履いたシャコタンで、派手ではない淡いピンクで、夜になると真っ白に見えるZだった。

めちゃくちゃマブかったのだ。


そして、淡い藤色のパールバイオレットのローレル。

このローレルも、240Zのオーバーフェンダーを綺麗にパテ埋めし、極太のCR88を履いたシャコタンの後ろ姿はセクシーで絶品だった。

後ろ姿だけで言ったら、俺はローレルの方が好きだった。


この2台は、別格だった。

最上級の女みたいなものだった。

派手ではなく、エレガントでありながらセクシーだった。

俺の憧れだった。


後日、この2台がヤングオートの特集の見開きで掲載された時は、あまりの美しさに度肝を抜かれた。


当時、チバラギの竹ヤリマフラーで、ただの派手なデコトラ風の改造車が持て囃されていたが、俺からすると単なる場末のキャバスケみたいなものだった。

そんなエレガントさもセクシーさも無い、唯の下品なだけの改造車とは違ったものを、その先輩は自らの手で創り出していたのだ。

そのセンスの良さには、頭が下がる思いだった。


その先輩から俺は注意されたのだ。

そして、この時、俺の車の目標は、『フェアレディ240ZG』になったのだった。


それからの俺は、先輩の家の前だけはエンジンを切って惰性で通過するようにしたのだ。

俺のサンパチはそれほどうるさい単車だったのだ。


今でも俺の手元には、サンパチの音を録音したカセットテープと、先輩の代の時に録音&編集された集会テープがある。

集会テープの方は、集会時のバイクの音のバックに永ちゃんの『黒く塗りつぶせ』が流れ、時々警察無線も流れるという編集されたテープだった。

誰が持ち込んだのかは分らないが、誰かが持って来て忘れて行ったものだ。

そして、俺のサンパチの音を録音したカセットテープのタイトルには、こう書かれている。


『俺の愛するサンパチ』


当時の俺が一番愛したものなのだった。


(つづく)

2019年12月 4日 (水)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (1)

(1)俺の城

俺が自らの力で初めて借りたアパートは、道幅3m位の舗装されていない砂利道から奥に向って建てられた木造二階建てのアパートだった。

俺が借りた部屋は、1階の一番手前、道路側の角部屋だ。

間取は玄関ドアを開けると左手に半畳位の小さなキッチン、右手に半畳の和式トイレが付いて、奥に和室の6畳一間の部屋だった。


角部屋だから道路側に腰高窓が付いていた。

南側には一間幅の窓と、奥行きが1mちょっとの庭とは言えないスペースがあった。

そして、2m位の高さのブロック塀が隣地との境界に建てられていた。


隣地は畑だったから1階でも日当たりは悪くなかった。

道路を挟んだ斜向かいは、原っぱの空き地の様な駐車場だった。


俺の荷物は、小学生の時から使っていた二段ベッドの片割れにマットレスと布団を敷いたベッドと14型位の小さなテレビとTV台としてのカラーBOX1個、あとは衣類だけだった。


ただ、この時どうやって荷物を運んだのかは、俺の記憶に残ってないのだ。

借りた翌日に引っ越したのだから、引っ越し屋に頼んだ訳ではない。

とすると、親父に頼んで車で運んだとしか思えないのだ。


冷蔵庫は小さめの2ドアのものを後から中古で買った。

そして、これも記憶は定かではないのだが、もしかしたら親父が買ってくれた様な気がするのだった。


洗濯機はなかった。

近くの銭湯の横にあるコインランドリーを使った。

銭湯までは徒歩2~3分だった。

ここが最初の俺の城となった。


引っ越した初日から俺の部屋は溜まり場になった。

この時、何となくだが、集まって来た連中が、みんな親父に挨拶をしていたような気がするのだ・・・。


そして、引っ越して3日目の夜には警察が来た。

近所からの通報だった。


この時来た交番警官の30代のI藤とは、その後仲良くなり、持ちつ持たれつの関係になったのだった。

俺の部屋には、K三中の中卒組のN村、I森、Tを中心に少なくても常に4~5人はいた。

多い時は、6畳の部屋に10人以上がたむろしていた。


そして、この4月から三多摩連合『BLACK EMPEROR』は、俺たちの代になり、『花小金井』が三多摩地区での本部になったのであった。

『花小金井』の頭のI森が、総長になったのだ。


俺は月曜日~土曜日まで毎日働いていた。

しかし、俺が仕事に出ている間も部屋には鍵を掛けなかった。

誰でも出入り自由だったのだ。

盗まれる様な物も何も無かった。


俺の最初の城は、族の溜まり場と化したのであった。


(つづく)

2019年12月 3日 (火)

自己実現塾 1 ~11月期~

◆ アクティングアウト

自己実現塾1ヶ月目のテーマは、『心の安全基地を強化する』というものでした。

まず、自己実現のためには、『自我の確立』が必要。

そして、『自我の確立』とは、『自分づくり』であり、それは、自分という人間の基礎を固めること。


建物に例えると、『自我の確立』とは、建物の『基礎』であり、『自己実現』は、その上に建つ『建物』だそうです。


しかし、人の心は、建物のように基礎と建物がハッキリと区別出来るものとは違い、『自我の確立』は、ここまで行けば完了というラインは無く、一生掛けて取り組んで行くテーマだとのことです。

私の中のイメージとしては、『自我の確立』に取り組み続けることで、より大きくしっかりした基礎が出来れば、その上に建つ建物も、より大きく立派なものが建てられる、というものです。


その『自我の確立』の為のキーとなるものが、『自己受容』とのことです。

そして、『自己受容』の為に大切なのが、自分の心の中に安全な領域を確保すること。

安全領域を確保し、安心感を育むこと。


それは、『心の安全基地』を確立すること。

そして、心の安全基地を強化していくことが大切で、それは、『守り』を強化していくということ。


なぜ、守りを強化する必要があるのか?


人間には、『防衛機制』という、生まれながらにしての守りの機能が備わっていて、人は無意識に自分の心を守っているのだそうです。


そして、その『無意識の守り』が、『自分を傷つける守り方』だったり、『相手を傷つける守り方』の健康的ではない守り方と、建設的で健康的な守り方があるとのことです。

そして、健康的ではない守り方の場合は、他の健康的な守り方を身につけていくことが必要だとのことなのです。


その健康的ではない、本能的な守り方のことを、『アクティングアウト』と言うのだそうです。


私は、この言葉を知りませんでした。

そして、野口先生の話を聞けば聞くほど、納得させられたのです。


アクティングアウトとは、『自分では抱えきれない感情や葛藤を行動や態度にして表すこと』。

それは、行動や態度で表すことで、自分の気持ちをまぎらわしているのだそうです。


その最もたるものが、『怒り』の感情。

『怒り』とは、『第二感情』といい、怒りの前に本来の『第一感情』があるのだそうです。


その第一感情は、惨めさ、悲しさ、虚しさ、寂しさ、劣等感、不安感、無力感などだそうです。

それらの感情を真正面から受け容れることは、よほど心が強くないと出来ないとのこと。


自分の心を守るために『仮想敵』をつくり、本来の第一感情を、『怒り』という第二感情にすり替えているのだそうです。

『怒り』を相手にぶつけることで、本来の自分の感情に直面せずに済んでいるのだそうです。


『怒り』の感情自体が『守り』であり、本来直面しなければならない耐えられない気持ちから、気持ちを逸らしてくれる守りの機能なのだそうです。


『怒り』を相手に向けて何らかの行動や態度で出すとしたら、それはアクティングアウトであり、自分の心を守っているのだそうです。


相手に向けたアクティングアウトとは、相手に向けて怒りの言葉をぶつけたり、批判したり、責めたり、無視したり(態度)など。更には、人ではなく物に当たるのも同じです。


自分に向けたアクティングアウトとは、ヤケ食い、過食、飲み過ぎ、浪費、買物依存、ギャンブル依存、リストカット、自傷行為など。


これらは、全てアクティングアウトなのだそうです。


そして、アクティングアウトの中でも、特に不健康な守り方が、『躁的防衛』といわれるものです。

躁的防衛とは、高揚感によって、本来自分が持っている感情を紛らわす心の守り方で、依存傾向が強くなる守り方だそうです。

アルコール過多、買物依存、ギャンブル依存などが該当し、躁状態を無理して保とうとすると、極度の落ち込み、行きすぎた自己嫌悪、依存症など、その反動があるとのことです。

それと、11月下旬に見た別の動画では、ワーカーホリック、不倫なども躁的防衛だと話されていました。


野口先生は、それらの内容をいくつもの例え話で分かり易く教えてくれました。

そして、『自分に当てはまる』と思っても、それが良くないという話ではなく、『今の自分には守りが必要なんだ』、『自分はそうやって守っているんだ』ということを、しっかり受容することが大切だと話されたのです。


人間は、誰もが皆不完全な人間であり、直面出来ない感情が色々ある。

直面出来ない感情から、自分はちゃんと自分を守るために、何らかの方法を取ってきたんだなと、自分が自分の心を守っていると言うことを受け容れること。


そして、アクティングアウト、躁的防衛をしている人を見掛けたら、この人はこうして自分の心を守っているんだな、必死で自分の心を守っている姿なんだなと、そうゆう目で理解してあげると良いと話されました。


その上で、今の自分の守り方があまり健康的ではないのであれば、いきなりそれを全部止めようとしてもなかなか難しい場合が多い。

他の健康的な守り方をドンドン取り入れることによって、今までの不健康な守り方に依存しなくてもいい状況を作れば良いと教えられたのです。


そして、守り方のバリエーションとして、人と心理的な距離を取ることの大切さとその方法。

また、『オープンマインド』が良いものと思われているが、そうとばかりは言えないことも話されたのです。


いきなりのオープンマインドは、自分の守りを取っ払うことにもなりかねなく、次第に気心が知れて来て信頼感を得て自然に心を開いて行くことや、長い付き合いの中で自然に互いにオープンマインドになることの大切さを教えてくれました。


そして、健康的な『守り』の方法を多数教えてくれました。


例えば、対人恐怖症の人にとっては、伊達眼鏡やマスクとか、女性にとっては化粧自体が安心感を生む守りの一つだと。

その他、健康的な守りとして、ブランド品、資格や肩書、実績や業績、スキルや知識、歌や音楽、心の支えになる言葉や考え方、本など。

信仰心では、土光敏夫氏や稲盛和夫氏が有名であること。

スピリチュアルなものを信じる気持ち、お守りやパワーストーン、縁起をかつぐことなど。

尊敬する人の存在やロールモデル(理想な人、こういう人になりたい)を持つこと。

貯金、プライベートな空間、一人になれる空間を持つこと。

生活の中での変わらないリズム、秩序、ルーチン(決まった手順)など。

これらの全てが、心の『守り』であると教えられたのです。


そして、何かを持つ行為も、その方法が最初は何かに頼る外側の守りだったものが、次第に内在化(内面化)され、内面化されるとその物自体が無くても大丈夫になる。

そして、内面化される事でかさぶたのように自然にはがれていく。

だから、どんどん守りを取り入れていって良いと話されたのです。


更には、『守り』は、弱さに見えるが、強くしていくために必要なことで、段階を追って次第に強い心が出来あがって行く。


『守り』を知ることで、それをしている人を否定する必要がなくなる。

なぜそんなことをするのか?そんなことに頼るのか?の疑問が解ける。

みんな心を守っているんだなと、許す気持ちが生まれてくると、話されたのです。


私は、『アクティングアウト』、『躁的防衛』という言葉を知りませんでした。

動画を見た直後、私は特に10代から20代の頃、最終的にはつい1~2年前まで、『怒り』によるアクティングアウトと『飲酒』による躁的防衛をかなりしていたと思ったのです。

そして、守りのバリエーションを知ることによって、これまで自分が他者に対し、「なぜ、そんなことをするのだろう?」、「なぜ、そんなことに拘るのだろう?」と理解できなかったことに対しての意味を知ることが出来たのです。

そして、自分から見て好ましくないことでも、不思議と許せる気持ちが生まれて来て、何か人に対して少し優しくなれそうな気持ちになったのです。


更に、動画を見た受講生からの様々なコメントを読み、多くの方々が其々の悩みを抱えながら生きていることを痛感したのです。

そして、多くの受講生の方がアクティングアウトしてしまっていることを知りました。

特に多いと思ったのは子どもに対するアクティングアウトでした。


分かっていながら、怒鳴ってしまう、怒ってしまう、イライラして当たってしまうなど。

それに悩むおとうさんやお母さんが多いのには驚きでした。

みんな同じだと思いました。


私も別れる前の息子には、正に巨人の星の『星一徹』みたいな親父だったのです。

暴力こそ振るいませんでしたが、超スパルタで多くのことを強要して来たのです。

その時の私の気持ちは、『いつ俺が死んでも、一人でも生きていけるような人間に育てなければ』との傲慢な思いだったのです。


私は離婚したことで息子と別れ、その後自分の過ちに気づき修正することが出来ました。

しかし、本来であれば、別れてから、失ってから気づいても遅いのかも知れません。

受講生の中で同じような悩みを持っている方には、そうなる前に気づいてくれることを願わずにはいられませんでした。


また、『オープンマインド』に関しては、特に私が若い頃は、凄く人見知りで自分からは絶対に声を掛けないのに、何かの拍子で知り合った人には直ぐにオープンマインドになるという両極端だったことを思い出したのです。


そして、私がオープンなのに相手がオープンになってくれないと、信じて貰えていないと感じて、一気に切り捨てて来ていたのです。


更には、好きでも嫌いでもないどっちでも良い人との付き合いは面倒臭く、嫌いな人の部類に入れてしまい、好きな人としか付き合って来なかったのです。


人の好き嫌いがハッキリしていて、分からない人には分からなくて良い、分かる人だけが分かってくれれば良いという考え方で生きて来たのです。


その辺の所をよくよく考えてみると、「信じて貰えていない」と感じた時の、悲しさや寂しさや虚しさに自ら目を向けていなかったことに気づいたのです。


だから私は、息子と別れるまで、寂しさという感情を知らなかったのかと思ったのです。


私は考えました。


人間関係を切り捨てることで、そういう感情から逃げていたのか。

自分が傷つくことから逃げていたのか。

そうして自分を守っていたのかとの思いに至ったのです。


そして、「逃げる」という表現だと、何か悪いことをしているように感じるのですが、「守る」という表現にすると良いことのようにも感じることにも気づいたのです。


更には、若い頃の私は、『人間関係を断ち切ること』が、一番のアクティングアウトだったのかも知れないと思ったのです


きっと自分の弱さを隠す為に強がっていたんだろうなと思ったのです。

以前の私は、単に自分が優しくない人間、愛の無い人間と考えていた時期がありました。

しかし、その原因が、オープンマインド過ぎたのかも知れないとの思いに至ったのです。


オープンマインドが悪いことだとは思わないのですが、それも『中庸』があってのことなんだろうなと気づいたのです。


この時私は、『オープンマインド』と言葉にすると、何かカッコ良く聞こえますが、日本語にすると『心を開くこと』だと思ったのです。

そして、『いきなりのオープンマインド』は『いきなり心を開くこと』。

『いきなり心を開くこと』と言うことは、『いきなり心を裸にすること』と同じだと思ったのです。

そして、これが『心』を表現する『言葉』だから良い様なものの、もしこれが肉体だとしたらと考えたのです。


会って間もないのにいきなり素っ裸になったとしたら・・・。

私は、『単なる変態』じゃないかと思ったのです。

『オープンマインド』とは、悪く言うと、『心の裸族』なんじゃないかと思ったのです。


そして、想像したのです。

会っていきなり素っ裸になって、相手も裸になってくれないから怒るという姿を。

そう考えると、普通は絶対に裸にはならないと思ったのです。

逆に普通だったら悲鳴を上げて逃げる、あるいは殴られると思ったのです。


そして、もし素っ裸になるとしたら、それは同じ裸族じゃないとありえないと。

それこそ、ヌーディスト村に一緒に暮らす様な人じゃないとありえないことだと。


その時の私は、自分はそういうことをしていたのかと、そういうことを求めていたのかと、自分で自分が可笑しくなったのでした。

そして、『オープンマインド』も、段階を追って徐々に行わないと、変な誤解を与えてしまうことになることを知ったのでした。


その後、アクティングアウトについて、私は色々考えました。

そして、最初に気づいた、『人間関係を断ち切る』以上の最大のアクティングアウトに私は気づいたのです。

『人間関係を断ち切る』アクティングアウトは、私の気づきの入口にしか過ぎなかったのです。


私にとっての最大のアクティングアウト。


それは、『死を恐れない行為』だと思ったのです。


それに気づいたのは、野口先生が動画の中で話していた、自らを傷つけるアクティングアウトの代表的なものが、自傷行為であり、少女に多いリストカットだとの話しを思い出してのことでした。


私自身は、リストカットのような自傷行為を行ったことはありません。

ですが、若い頃は常に、『いつでも死んでやる!』という気持ちで暴れていたのです。


特攻隊に憧れました。

三島由紀夫の様な死に方に憧れていました。

『死』に対する美学みたいなものを持っていたのです。


16~18の頃は、単車で死ねたら本望、車で死ねたら本望と思っていました。


10代の頃はヤンキーの暴走族で、バイクでは中央分離帯があり、横には逃げられない道路を全開で逆走したり、フルチューンした車で高速道路を200km以上で暴走したり、ヤクザ相手に平気で喧嘩を売ったり、スピード狂で、全て暴力で解決しようとしていました。


成人してからは、暴力こそ振るいませんでしたが、時々言葉による暴力、恫喝をしていました。

そして、23で不動産業界に入ってからは、ワーカーホリックになりました。


29で独立し、31で二社目を立ち上げ、1000億円企業を目指して上場を夢見始めてからは、完全なワーカーホリックでした。

休み方を全く知りませんでした。

ある意味、休むことが怖かったのです。

そして、仕事が上手く行き始めると、誰もがやらない危険な仕事に手を出したり、高利の金に手を出したり、自らの生命保険を担保に大金を調達したり、自分の仕事は上手く行っているのに敢えて全財産を別なものに投入したり・・・。


白黒がハッキリしていなければイヤで、常にゼロか100かの考え方をしていたのです。

そして、沢山失敗して来ました。

何度も死を考えました。

しかし、その度に手を差し延べてくれる人が現れ、今の私があるのです。


既に亡くなった大好きで大切だった人に言われ、これまで答えの無いまま、ずっと深く心に残っている言葉があるのです。


「何で貴方は、自ら好き好んで火中の栗を拾いに行くの?!」


当時、山手線の大久保だったか新大久保だったかで、線路に落ちた人を助けに自ら線路に降りて、電車に轢かれて亡くなった韓国人大学生の事故があったのです。

その人は、私にそれと同じようなことばかりしていると言ったのです。

その時の私は、それが何故なのかは、自分でも分かりませんでした。


唯一つ言えたことは、『そうしなかったら、俺は俺でなくなる』というものだったのです。


私の捨て身の行動の裏には、常に、『俺が俺であるために』というものがあったのです。


私は、40代の中頃、『このまま歳を取って行き、自分が自分の意思で死ねなくなったら』と考えた時、とてつもない恐怖に襲われたのです。

普通だったら、『死を怖れる恐怖』なはずなのに、私は『死ねない恐怖』、『生きてしまう恐怖』に怯えたのです。

その頃までの私は、『いつでも死んでやる』、『いつでも自決出来る』という自分が、自分を支えていたのかも知れないと思ったのです。

それこそが、当時の私のアイデンティティだったのかも知れないと思ったのです。


私は、過去の自分を振り返り、『死を恐れない行為』、所謂、周りから見たら自殺行為としか思えない行為こそが、少女のリストカットと同じだったのだ、それは自傷行為によるアクティングアウトと同じだったのだと気づいたのです。


私は、高校を中退し、16で家を出て、両親の束縛から逃れ、一生懸命生きて来たつもりでした。

しかし、自分では無意識に35年もの間、自傷行為を繰り返していたのかと気づいたのです。


私がそれに気づいたのは11月11日でした。


そのことに気づいたことで、私はこれまでの自分が歩んで来た道に対し、合点がいったのです。

腑に落ちたのです。

なるほど・・・と。

そういうことだったのか・・・と。


私はこれまでの経験体験からの気づきで、少しずつそういうものを乗り越えては来ました。

しかし、それが何故なのか、理由がずっと分からないままだったのです。


単に自分はそういう人間なんだと、特殊な人間なんだと思っていたのです。

生まれ持ったものだからしょうがないと思っていたのです。


しかし、アクティングアウトを知ったことで、過去の自分の行動が論理的に理解出来たのです。

全ては『自分の心を守るため』だったのかと。


そして、更にその先にあるものも、朧気ながら見えて来た感じなのです。


『なぜ俺は、健康的ではない、アクティングアウトという方法しか取れない人間だったのか?』

『なぜ俺は、健康的な心の守り方が出来ない人間だったのか?』


アクティングアウトを知った私は、この『なぜ?』こそが、人間としての根源的なものなのではないかと感じ始めているのです。

なぜならそれは、自分で考えてやっていた訳ではなく、『無意識』にやっていたということに気づいたからです。


そして、それは、きっと親子関係にあるのだろう・・・。

それも、特に母親との関係に・・・。


そんな風に感じ始めているのです。


しかし、慌てる必要はないと思っています。

時期が来れば、必ずその答えも見つかるだろうと思っているからです。

そして、この自己実現塾を学んでいく中で、きっとその答えが見つかるのではないかと感じ始めているのです。


私のアクティングアウトが徐々に減って行ったのは、二度目の離婚が機だったと、今では思います。

考えてみると、離婚前の私には、『守り』というものが全く無かったのです。

しかし、離婚を機に、その後の私の『守り』は、自分では気づかない内に増えていたのです。


最初は、生き方や考え方、心理や哲学に関する読書。

そして、剣道。

離婚前は全く見なかったTVドラマの視聴。

研修に参加してからは、『善い言葉集め』。

毎月研修に参加し、インストラクターとしての研修生との対話。

自分の心に響いて来る歌詞の曲を繰り返し聞くこと。

朝晩の歯磨きの時にやっている、『笑顔はみがき』。

買物をした時に必ずレジの人に『ありがとう』と笑顔で言うこと。

息子が戻って来てからは、息子の為に毎晩作る料理。

そして、息子と一緒に過ごす晩酌の時間。

今年から始めた、自分の人生の目的や生き方についてのアファーメーション。

今年の2月頃から始めた、『幸福日記』。

自分が目指す、『大きな樹のような人間になる』を意識し続ける為に、スマホやPCの待ち受け画面などを全て『日立の樹』にしていること。

7月から始めた気づきのブログ。

そして、自分の過去を小説風に書いてブログにアップすること。

8月頃から毎日行っている池江選手への応援クリック。

年に一度の三峯神社への参拝や小学生時代の恩師に会うこと。

1~2ヶ月に一度、友に会って飲むこと。


これらは全て、私にとっての『守り』になっていたんだなと思ったのです。


そして、新たに始めた、『自己実現塾』での学び。

この学び自体も『守り』であると思ったのです。


そして、これらの守りが徐々に増えて来たことで、私は知らない内にアクティングアウトをしなくて済むようになって来たのだと思ったのです。


今の私は、気持ちの中でたまにムッとすることはあっても、それを怒りとして表に出す事はほとんどなくなってきています。(まだ、年に何度かやってしまう時はありますが・・・)

それよりも、些細なことで喜びや幸せを感じられる自分に変わって来ているのです。

そして、『死ぬこと』よりも、どう生きるのか、どう人や社会に貢献して行くのかという、『生き方』こそが、私にとって最も大切なことになっているのです。


私は、色々な気づきを得て、変わって行く自分を実感してはいても、それが何故なのか論理的に知ることが出来なかったのです。


しかし、今、こうして自己実現塾で学ばせて頂き、『なぜ?』を知ることで、更に自分自身の気づきが深まって行くのを感じるのです。


私は、これからの自分がどう変わって行けるのか、それが今一番の楽しみなのです。


そして、自己実現塾の今後の受講予定項目の『シャドー』。


ユング博士が言った言葉。


「シャドーの中に黄金がある」


野口先生がメールの中で紹介された、シャドーについて語っている言葉の中の一つ。


「完全なる私になるための、もう一つのピース。それがシャドー」


『シャドー』について学べる日を心待ちにしている私なのでした。


受講開始1ヶ月目から、大きな気づきを得させて頂いた自己実現塾でした。


自己実現塾 1 (11月期) ◆ アクティングアウト (了)

2019年12月 2日 (月)

俺の道 ~アラカン編~ 三峯神社の巻 (13) <最終回>

(13)天啓

俺たち3人は店を出た。

俺は、F先生とK池に変な店を選んでしまって悪かったと謝った。

そして、次の店を探した。


少し先に黄色い『ビヤホールライオン』の文字が目に入った。

3人とも今の店に懲りて、大手のライオンなら問題ないだろうと意見が一致した。

俺たちは『ライオン』で21:30過ぎまで過ごした。

21:45頃、俺たちは再会を約束して池袋駅で別れた。


その後俺は、JRの湘南新宿ラインで帰路についた。

自宅には23:30頃に帰宅した。

朝が早かった俺は、帰宅してから風呂にも入らず、そのまま直ぐ床に就いた。


一度途中でトイレに起きたが、実際に起きたのは11時頃だった。

トイレに入り、歯磨きと洗顔を終えた俺が、この日最初にしたのは前日に引いた『おみくじ』の内容確認だった。

三峯神社では、『道』の文字と、『運勢大吉』の文字しか目にしていなかったからだ。


書かれている内容を読んで、俺の心は更に震えた。


◆◆◆◆◆
第四十七番
◆◆◆◆◆



我が道を進みなさい

理想を忘れず必死に夢を追い求めなさい


道とは

思いたったその日から

目の前に広がるありとあらゆる可能性のことである


運勢大吉

○願望  必ず叶うでしょう  信じて真面目に過ごしなさい

○仕事  大きな仕事が舞い込む  準備を怠るな

○恋愛  気持ちの切り替えが大事  ここで離れるも良い決断でしょう

○健康  油断すると長引く  医者としっかり相談せよ

○学業  直ちに結果は出ないが  努力を続けよ

○金運  商売うまくいく  仲間に相談してさらに飛躍

○旅行  北方向への旅立ち見合わせよ

○出産  良い出産です  母子ともに順調です


俺は、このおみくじの最初の一行、それだけで十分だった。

この言葉は、俺にとっては正に『天啓』だった。


俺にとって『道』とは、どの道を選ぶのかではなく、自分が選んだ道をどう生きるのかが重要なことだと思って生きて来た。

それは、自分の選択が間違っていなかった、これでよかったのだと思える生き方を如何にしていくかということだと考えて来たのだ。


俺は何度も失敗し、何度も挫折を味わって来た。

途中で自暴自棄になった時期も多くあった。


しかし、今となっては、それらは全て今の自分の為に必要な経験だったのだと思えている。

そして、自分の生きて来た道を小説風に書くことをして来て、書けば書くほど、『これで良かったのだ』という気持ちが溢れて来るのだった。

出来事の事実は変えられないが、俺の出来事に対する捉え方は自由に変えられることを、身を持って日々感じているのだ。


俺は、きっと、この過去の自分を小説風に書くということは、俺の過去の全てに対し、『これで良かったのだ』と感じ直す為だと思い始めているのだ。

一切の後悔を雲散霧消させる為に必要なことなのだと。

なぜなら、それこそが俺の人生の目的だからだ。


俺が死の時を迎えた時、人生に一切の後悔も無く、満足感を持って、笑って死んでいけるように、生きること。


この目的を完遂する為には、ただ単に、『終わり良ければ全て良し』ではないのではないかと思い始めているのだ。

仮に終りが最悪の状況でも、『これで良かったのだ』と笑って死んで逝きたい。


その為には、単に総括しての『良かった』ではなく、過去の苦しみや悲しみなど、全てにおいて『これで良かったのだ』と、自分自身が納得する必要があるのではないかと思い始めているのだ。


これまでの俺は、過去を語ってはいても、真の意味で過去を振り返ることをして来なかったように思う。

ただ、前だけを見て、我武者羅に突っ走って来ただけだったように思うのだ。


今の積み重ねで生まれて来るものが、『未来』。

そして、その積み重ねて来たものが、『過去』。

どちらにとっても大切なのが、『今』。


最近の俺は、そんな風に考えるようになって来たのだ。


そんな俺にとっては、三峯神社で引いたおみくじの言葉は、『天啓』以外の何物でもないのであった。

そして、これからの自分の未来に対し、ドキドキワクワクで、何が起きるのか楽しみで仕方のない俺なのであった。


俺の道 ~アラカン編~ 三峯神社の巻  (完)

2019年12月 1日 (日)

俺の道 ~アラカン編~ 三峯神社の巻 (12)

(12)成長の証し

俺とF先生がK池と合流し、俺たちは交番の直ぐ近くで呼び込みをしていた青年に声を掛けられ、炭火焼だと言う居酒屋に行った。

最初は飲み放題を勧められたが、F先生が飲めないことから飲み放題にはせず、飲み物20%引きにしたのだった。

エレベーターで俺たちは7Fに上がった。

しばらく待たされ、俺たちは3組で1室になっている4人掛けのテーブル席に案内された。


案内された部屋には先に7~8人の先客がいて、その向いの席だった。

奥側がソファになっていて、その造りから以前はキャバクラだったんじゃないかと俺は思った。

俺は、F先生とK池を奥のソファに座らせ、その向いに俺が座った。


俺たちは席に着くと、直ぐに会話を始めた。

F先生はK池の身体を心配していた。

K池はK池なりにF先生と連絡を取っていた様だった。


俺とK池が繋がったのは、3年前だった。

6年前、俺がF先生と再会し、その翌年、俺と偶然繋がった同級生で女性ののK甲と男性のY本に声を掛け、2年目は4人で会った。


その翌年、俺は36年振りに中学の同窓会に出てK池と再会した。

そして、K池がずっと付き合って来ているO森が地元の柳沢で親父の中華料理屋を継いで頑張っていると俺に言って来たのだった。

それを聞いた俺は、じゃあそこにF先生を呼んでプチ同窓会をやるかと提案し、6年5組の同級生は6人に増えて開催したのだった。

更には、小学時代は別でも中学時代の地元の同級生に声を掛け、小中合同のプチ同窓会として14~5人が集まったのだった。


そして、その翌年4月には、F先生の自宅に行ったのだ。

その時も、俺がみんなに声を掛け、集まったのは新たな女性の同級生のM倉が加わり、6人でF先生宅を訪問したのだった。


その翌年の昨年は、同窓会の幹事はY本とK池に託したのだが、同窓会は行われず、俺は今年同様、三峯神社の帰路にSちゃんを連れてF先生と会ったのであった。

そして、そのことを同級生のグループLINEで告げると、何で教えてくれなかったとの声があり、今年は声を掛けてK池が来たのだった。


俺たち3人が席に着いて20分程しても店の人は誰も注文も取りに来なかった。

俺は、呼び鈴を何度も押した。

現れたのは、若い男の店員だった。


お絞りも何も来てないよとK池が注意した。

俺とK池は生で、F先生はノンアルコールビール、そしてつまみを何品かを頼んだのだった。


その後、飲み物とお通しは来たが、つまみが全然来なかった。

そして、空いていた俺たちの隣の席にも若い男性客3人が入って来た。

俺とK池は追加の飲み物を頼んだが、まだつまみは来なかった。


俺たちは話しで盛り上がっていた。

K池の病気は心臓弁膜症だと言った。

カテーテル手術で20kg体重が落ちて戻らないと言っていた。

1ヶ月ほど前に中学の同級生の女性が癌で亡くなった話しが出た。


俺は、K池に、ブログにも書いたK一のことを聞いた。

あいつは生きているのかと。

風の噂では、シャブ中で死んだような噂を聞いていたのだが、小学時代の同級生で俺が会いたいと思っている奴の一人だった。


K池は、生きているらしいと言った。

連絡先は知らないらしいが、生きているらしいと聞いたらしい。

俺は嬉しくなった。

生きていれば、またいつか会えるかも知れないと思ったのだ。


更に俺はF先生から意外なことを聞いたのだった。

それは、俺が石垣島から先生にハガキを送ったとのことだった。

そして、それが俺の知らない所で、めちゃくちゃ面白いことになっていたのだった。

なんと、俺が石垣島に行った理由が、俺が犯罪者になり、警察とヤクザから追われる身となり、逃亡して石垣島に行ったことになっていたのだった。


俺は笑った。

話しを聞くと、どうやら俺が19の時にヤクザを血祭りに上げ、ヤクザに訴えられてパクられた件と、21~2の頃の放浪の旅で、コックとして住込みで石垣島に行ったことがミックスされていたのだった。

人の噂とは面白いものだと俺は思った。


しかし、俺が石垣島からF先生にハガキを送っていたとは、俺自身全く記憶が無く意外だったのだ。

俺は内心で、当時の自分に、『やるじゃん!』と褒めてやった。


そんな話しで盛り上がっていたのだが、俺たちの頼んだつまみは全く来ていなかった。

既に店に入ってから1時間近く経っていた。

後から来た隣の席を見ると、そっちは既に料理も来ていたのだった。


俺はF先生とK池に店を替えようと言った。

俺があと20年若かったら、こんな店潰してやってるところだと笑った。

昔の俺だったら、店の責任者を正論で徹底的に扱き下ろし、翌日には社長にまで会いに行く所だと思った。


若い頃の俺は、末端の社員がなって無ければ、それは上の責任だと、トップに責任を取らせて来たのだ。

俺は常に頭を潰すことしか考えて来なかったし、して来なかったのだ。

俺は、弱い者いじめはしなかったが、強い者いじめは大好きだった。

俺のケンカの仕方は、常に頭を潰す事が目的だった。

雑魚は相手にして来なかった。


30代の頃の俺は、相手が大企業でも単身で戦った。

不動産業界の在り方に不満を抱き、業界を潰して俺が創りかえることを考え、業界団体と戦った。

まるで、ドン・キホーテみたいなものだったのだ。


そんな俺が怒りの感情が全く湧かずに、大した文句も言わずに店を替えようと言い出すとは、自分でも少し驚きだった。

俺は注文していたものを全て取り消し、伝票を持ってレジに行って会計をした。


会計は、4千円弱で、レシートを見ると、お通しが500円だった。

お通しは、小皿に一口程度の豆腐にきのこのあんかけを少し掛けたものだった。


俺はレジの店の責任者らしき若い男性に一言だけ言った。


「ずいぶん高いお通しだな」


レジの男性はムッとしながらも、すみませんと言った。

俺はその態度を見て内心で思った。


「接客業でこんな対応しか出来ないとは、可愛そうになぁ・・・」


店の従業員は、20代の若い男、それも結構なイケメンばかりの店だった。

そして、着ている制服も居酒屋風ではなく、黒服風だったのだ。

多分、元はキャバクラの黒服あたりで、キャバクラが上手くいかずに居酒屋に替えたのではないかと思ったのだった。


俺は、怒りの感情が全く湧かずに冷静に分析し、店員を憐れに思っている自分が可笑しくなって来た。

俺は、最後に店員に言って店を出た。


「良い勉強になったよ、ありがとな」


(つづく)

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