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2020年1月

2020年1月31日 (金)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (24)

(24)やっちゃ場

みかんを積み終えた俺たちは、まず最初の金港市場に向って出発した。

潮留の貨物駅を出て直ぐに、首都高の潮留ICから高速に乗って横羽線を横浜に向って走ったのだ。

金港市場へ向う車中で、俺はY本さんから、『青果市場』のことを業界用語では、『やっちゃ場』と言うことを教えられたのだった。


金港市場は、東神奈川ICから下りて直ぐだった。

金港市場に着くと、市場の人が5~6人居た。


下ろし方は単純だった。

トラックの荷台に長い梯子のようなローラーの端をセットして、ローラーに乗せて軽く押せば、後は傾斜で流れて行く寸法だった。


金港市場のローラーは4~50m位はある長いものだった。

ローラーの先の受け手が多かったので、Y本さんは運転席でトラックの移動のみで、俺と弟さんの二人で交互にある程度の間隔を空けながら、ローラーにみかんの箱を乗せるだけだった。


金港市場での下ろしの作業は楽勝だった。

時間にしたら1時間掛からずに終わったのだ。

下ろし終わった俺たちは、また直ぐに潮留に向った。


金港市場での帰りの車中で、他の市場には下ろす時の受け手になる市場の作業員が普通は2~3人しかいないことを教えられたのだ。

少ない所だと1人しかいないところもあるとのことだった。

金港市場のように沢山いる所は他に無いと教えられたのだった。


潮留に戻った俺たちは、二回目の積み込み作業だった。

二回目は、正確には覚えて無いが、確か茨城か栃木だった。

二回目の時間になると、車の交通量も減って来るために遠場を選ぶことを俺は教えられた。


二回目は距離で稼ぐのだ。

片道2時間前後のところだった。

積み込みと下ろしの時間を合わせて約6時間。


三回目は再度近場の市場で、6時頃にその日の作業を終えて帰路についたのだった。

Y本さんちに帰ったのは、8時位になっていた。

そして、俺が帰宅したのは、9時近くになっていた。


帰宅した俺は、あることに気づいたのだった。

それは、風呂に入れないことだった。

この時間は銭湯がやっていないのだ。


俺はY本さんに電話し、風呂の相談をしたのだった。

そして、この日から俺は、作業を終えて戻ったら、Y本さんちでシャワーを借りることになったのであった。


初日の作業を終えて俺は、積み込みも荷下ろしもコツを覚えてしまえばなんとかなると思った。

しかし、この仕事のきつさはそれだけではなかった。

時間が長かったのだ。


15時に出発して翌朝の8時か9時までなのだ。

時間にしたら、17~18時間労働なのだった。


当時の俺は気づかなかったが、今こうして振り返ってみると、1日の労働時間が17~18時間で日給1万円では、時間給にしたら、めちゃくちゃ安くなっているのだった・・・。


構内作業だと行き帰りと休憩時間を入れて約10時間で8,000円。

それがやっちゃば仕事だと18時間で10,000円・・・。

しかし、当時は、そんなに稼がせて貰える機会自体が無かったのだから、やはり感謝なのだ。


初日の作業でクタクタになった俺は、酒だけ飲んで眠りについたのだった。


(つづく)

2020年1月30日 (木)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (23)

(23)潮留

その翌日の午前中、俺は原チャリのパッソルにノーマルマフラーを取り付けた。

俺のパッソルは、直管とはいえ、マフラーをカットしたものではなく、単にマフラーを外しただけだったのだ。

エキゾーストパイプさえも付いてなかったのだ。


だから、めちゃくちゃうるさく、オイルも飛び散りっぱなしだった。

それなのに何故かスピードは1割位アップしたのだった。

マフラーを付けること自体は直ぐに終わった。


その日の14時前、俺は早目にY本さんちに向った。

静かな普通のバイクに乗るのは久しぶりだった。

更には、昼間の白バイがいる時間帯に堂々と走るのも久し振りだった。


Y本さんちには、予定より早く14:30前に到着した。

Y本さんちは2階建てアパートの1階だった。

そして、弟さんとの二人暮らしだった。


俺は部屋の中に通され、簡単な飯をご馳走になった。

俺は昼飯は食っていたのだが、これから翌朝の6時頃まで長くなるからしっかり食っておくようにと言われたのだった。


飯を食い終えた俺を連れて、俺たちはトラックの駐車場に向った。

弟さんが先にセンター席に乗り、俺が助手席に乗せられた。

そして、予定より少し早い15時前に出発したのだった。


走りながら弟さんが、行き先は潮留だと教えられた。

俺は潮留が何処か知らなかった。


この頃の俺は、集会でたまに行ったり、アンパンを買いに行っていた新宿と、以前住んでいた保谷から行った池袋しか都会は知らなかったのだ。

それも数えるほどしか行ったことがなかった。

当時の俺にとっては、新宿と池袋が大都会で、都会は吉祥寺だったのだ。


俺たちを乗せたトラックは、甲州街道を新宿に向って走った。

そして、首都高速の高井戸ICに向った。


高井戸IC入口の渋滞表示は2Kmだった。

Y本さんは、迷い無く首都高速に乗ったのだった。

そして、教えられたのだ。


渋滞表示が3Km以内なら、首都高に乗った方が速いと。

5Km以上の時は、乗ったらダメだと。

5Km以上の時は、下道の方が速いと。


問題は4Kmの時だと。

4Kmの時は、それまで走って来た時の交通量を考えてのカンだと。


到着目標は16時だった。

その日は16時に余裕で間に合った。

潮留の貨物駅構内は、東小金井より遥に広かった。

到着すると、俺はY本さんに連れられ貨物駅の日通の事務所に連れて行かれた。


その日は俺たちが一番乗りだった。

Y本さんは、これから入って来る貨物の配送先の伝票に目を通していた。

そして、神奈川の金港市場をまずは選んだのだった。


少しすると続々と他の運転手たちが集まって来た。

配送先を選ぶのは早いもの順だった。


俺はY本さんに教えられた。

全て距離と運賃が違うから、最初に割の良いものを選ばないと、その後が苦しくなると。

だから、遅刻は厳禁だったのだ。


Y本さんの選んだ金港市場は、距離が近い割に運賃が高く、更には荷下ろしの手伝いが沢山いて仕事が早く済むと教えられたのだ。

そして、金港市場が取れる時は真っ先に取るようにと教えられたのだった。


貨物はまだ来ていなかった。

貨物が来るまでは休憩だった。


17時になると貨物が入って来た。

まずは、伝票番号の貨物を探すことだった。

俺と弟さんは、徐行で走っている貨物を二人で走りながら自分たちの貨物を探した。


貨物は、車両に書かれている貨物番号で探すのだった。

後ろから、Y本さんが運転するトラックがある程度の距離を空けて徐行で付いて来ていた。

そして、貨物を発見して伝票と貨物の扉に付いている積荷の内容書きを確認し、積み荷に間違いないかを確認した。


弟さんが停車した貨物の扉を開け、合図を送ると、Y本さんは直ぐにトラックを横着けにしたのだった。

横着けの仕方は、運転席側を貨物側に付け、トラックのケツが扉の端に合わせる形だった。


この時、貨物に付けるのは出来る限り運転席側にするように教えられたのだった。

運転席側だと積んだ後そのまま出口に向えるが、逆だと遠回りしないといけないことを教えられたのだった。


そして、このトラックの横付けも早い者勝ちだと教えられた。

貨物の長さよりトラックの方が約1.5倍長いのだ。

先に横付けされ、自分たちの荷が下ろせなくなった場合は、先に着けたトラックが終わるまで待たないといけないのだ。

その分時間ロスになることを教えられたのだった。


ここでのルールは常に早い者勝ちだった。


俺は横着けしたトラックの荷台に上がった。

これから始まる新しい仕事に俺はワクワクした。

積み荷の貨物からの下ろし方は、弟さんが丁寧に教えてくれた。


貨物の中には、15kg入りのみかん箱が7段積みで936個積まれていた。


その7段で積まれている936個のみかん箱を、トラックには6段で6列で36個。

これを最前列からケツまで26列に積み替えるのだった。


やり方は、トラックの方にまず2段積みの足場を作り、その上に4段乗せるのだった。

まず俺は、足場作りをやらされた。


まず、最初の1列の7個で3個半の足場を作った。

すると弟さんは、7段積みの上4個を腰の高さから持ち、走って最前列まで行き2段の足の上に乗せたのだった。


俺は、下3段の内、上の2段を持って足場を作った。

弟さんは次の列の上4段を持って、また走った。


俺が最下段の1個に手を伸ばすと、それは持たず、次の3段の上2段を持っていくように言われたのだった。


すると、今度はY本さんが残った最下段の2個を左右の手の中指に1個ずつぶら下げる形で持って走ったのだった。

俺は、驚いた。

そういう持ち方があるのかと。


その一連のやり方を見た後、俺は4段持ちにチャレンジした。

重さ的には、60kgなら全然問題ないと思った。

しかし、甘かった。


重さは問題ないのだが、4段目の一番上は自分の頭の上に出て、走ろうとすると頭の上から後ろに落としてしまったのだった。

Yさん兄弟は思った通りという顔だった。


そして、最下段の中指にぶら下げる持ち方にも挑戦した。

しかし、これは丸っきりダメだった。


人差し指と中指の2本なら持てるのだが、中指1本で15kgを持つことは出来なかったのだ。

俺はめちゃくちゃ悔しかった。


Y本さん兄弟からは、その内出来るようになると励まされた。

そして、この日の俺の役割は、弟さんが上の4段を取った後の下2段分となった。

そして、Y本さんが最下段分となった。


開始から1時間程度で全て積み終わった。

そして、トラックを移動して貨物から離し、ロープで固定してシートを掛けるのだった。


更にその時、俺は弟さんから、最上段の1箱から1個ずつみかんを抜き取ることを教えられたのだ。
1箱から1個でも、直ぐに3~40個になった。


そして、抜く時は、『秀』のLかLLが一番良いと教えられたのだった。

この日の金港市場のものは、『秀』のLLだった。


それが夜間の俺たちの水分補給になるのだった。

この当時は、まだペットボトルなどは無かったのだった。


(つづく)

2020年1月29日 (水)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (22)

(22)ピンチの後にチャンスあり?!

2週間の留置場生活から釈放された俺に待っていたのは、更なるピンチだった。

24日のクリスマス・イブの翌25日は給料日だった。

給料は20日締めの25日払いで現金払いだった。


給料を受け取った俺は事務所を出て中を確認した。

そして、俺はあまりの少なさに驚いたのだった。

日給が上がっていたとはいえ、年末だと言うのに、給料はいつもの半分位しかなかったのだ。

パクられて休んでいた分、給料が少なかったのだ。


俺は、思った。


「これじゃあ、罰金払ったのと変わんねーじゃねーかよぉ・・・」


この頃の俺は、寝床と樹々は毎晩ツケで飲んでいたのだった。

そして、給料日はツケの支払日だった。

俺の給料は、家賃と公共料金と昼飯代以外は、ほとんど全て飲み代で消えていたのだった。


そんな状況の俺にとって、2週間の休みはでかかったのだ。

俺たちにボーナスなんて洒落たものは無かった。


ツケが払えないどころか、年を越す金も無かった。

俺には、貯金なんていうものは、1円も無かったのだ。


俺は事務所にUターンした。

そして、N谷社長に10万の前借をお願いしたのだった。

俺は、前借をお願いしたのは初めてだった。


N谷社長は、それを見越していたようだった。

あっさりと前借を了承してくれたのだ。


俺はその日、無事寝床と樹々のツケを全て払った。

そして、またツケで飲んだのだった。


俺の手元には、家賃と公共料金分を除くと5万も残っていなかった。


その翌日のことだった。

年末ということで、いつもは米やビールが沢山積まれていた場所は、全てが運び終わり外壁の無い屋根だけの倉庫には、普段は見掛けない11t車が何台も並んでいた。

中には、そのトラックのタイヤ交換をしている人も居た。


俺はN谷社長に呼ばれた。

そして、教えられたのだった。


東建とトーケンには、それぞれN谷社長とS社長がいるが、その上にオーナーで会長のM本さんと言う人がいることを。

そして、M本さんの元には、個人でトラックの持ち込みで直接仕事を受けてやっている人たちが何人も別に居ることを教えられたのだ。


そして、その人たちは、一人一人が社長だと教えられたのだ。

言うなれば、個人タクシーのトラック版みたいなものだった。


そして、この人たちは、12月~3月までの4ヶ月で一年分稼ぐと教えられたのだ。

俺は、たった4ヶ月で一年分を稼ぐと聞かされ、驚き、そして良いなぁと思った。

N谷社長は、俺に言ったのだった。


「この仕事をこれから1ヶ月でお前に覚えて貰いたい」

「その後は、Sと年明けにもう一人入って来る新しいドライバーの二人を使ってやって貰いたい」


俺は聞いた。


「どういう仕事なんですか?」


仕事内容は、潮留の貨物駅から関東各地の野菜市場へみかんを運ぶ仕事だと教えられた。

そして、運び先が市場だから、仕事時間は夕方から朝までになり、昼夜が逆転する仕事だと言った。

更には、めちゃくちゃきつい仕事だと言われた。

米よりも遥にきついと言われた。


俺は考えた。


そして、N谷社長は更に言ったのだった。

これまでうちでもやりたい仕事だったのだが、誰も出来る奴が居なかったと。


その言葉で、俺は燃えた。

俺は、誰もやったことが無いとか、誰にも出来ないとか言われると、無性に闘志を燃やすタイプなのだった。

そして、言った。


「やります!」


N谷社長は喜んでくれた。

そして、タイヤ交換をしていた人の所へ連れていかれ紹介されたのだった。


紹介された人は、N谷社長とあまり歳は変わらない様に見えた。

40代後半位に見えた。

その人はY本さんと言った。

そして、翌日から15時にY本さんの自宅に来るように言われたのだった。

住所と電話番号を書いた小さな紙を手渡された。

住所は、東小金井から10分位先の所だった。


俺は挨拶をし、N谷社長と共にその場を離れた。

そして、N谷社長に言われたのだ。


「明日から給料は、日給1万円にしてやる」


俺は言った。


「マジですかー!」


そして、喜んだ。

前借分もこれでなんとかなると思ったのだった。

そして、一つだけ注意されたのだった。


「Y本さんちは個人の家だから、うるさいバイクで行くな」

「バイクの音をなんとかしろ」


俺は了解した。

そして、その日は翌日に備え、俺は飲まずに真っ直ぐ帰ったのだった。


(つづく)

2020年1月28日 (火)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (21)

(21)出所祝い

釈放された俺の頭の中は、Y崎さんを半殺しにすることしか考えていなかった。

時間的には、まだ16時前でみんな仕事場にいると思った。


俺は、小金井署を出てから武蔵小金井の駅まで走った。

そして、武蔵小金井駅から東小金井駅まで電車で行った。


東小金井駅に着いて、俺はまず駅前の交番に行った。

すると、年配の警官が俺の顔を見て言ったのだ。


「おー、やっと出て来たか!良かったな!」

「しかし、派手にやってくれたもんだよ!」


俺は、ぺこりと頭を下げて聞いた。


「あの若い人は?」

「お前にやられた彼か?」


「はい」


「あいつは、お前に一方的にやられたから、自信失くしてさ、移動になったよ」


検事が言っていたことと同じだった。


「そうだったんですか・・・」

「もし、会うことがあったら、俺が謝ってたって伝えて下さい」


俺は、そう言って交番を後にしたのだった。


そして、貨物駅の構内に入って行った。


構内では、まだ米下ろしの作業を行っていた。

俺が歩いて近づいて行くと、後輩のM田とK村が俺を見つけ走り寄って来て言った。


「先輩、大丈夫だったですか?!」


「あぁ、なんとかな」


俺は大人たち一人一人に留守にしたことを詫びた。


パクられた時一緒だったSさんは、凄く心配してくれていた。

俺が居なくて大変だったと言ってくれた。


俺は、事務所にいるN谷社長の所に行った。

N谷社長に詫びると、N谷社長は笑いながら頭に軽い拳骨を一発くれた。


みんなに詫びている内に俺のY崎さんへの怒りは少し和らいでいた。

N谷社長への挨拶を終えた俺は、トーケンに向って歩き出した。

トーケンに向いながら、またY崎さんへの怒りがふつふつと湧き上がって来たのだった。


トーケンの控室の扉を俺が開けると、中はいつも通りで、既にみんなは飲んでいた。

そして、俺の顔を見るなり、みんなが歓声を上げたのだった。


みんな、良かった良かったと言い、俺はもみくちゃにされた。

そして、ビールを注がれて俺は飲んだ。


すると、ソファに腰かけていたY崎さんの顔が目に入った。

Y崎さんは、ニタニタ笑っていた。


その顔を見た俺は言った。


「Y崎さん!何であんたが先に出てんだよ!!」


Y崎さんは言った。


「しょうがないだろ、そうなっちゃったんだから」


俺は、続けて言った。


「あんたが石さえ投げなければこんなことにはならなかったんだよ!」


「しょうがないだろ、投げちゃったんだから」


「じゃあ、なんで先に出たこと教えに来てくれねーんだよ!」


「しょうがないだろ、警察に来るなって言われたんだから」


俺は、Y崎さんのしょうがないだろう攻撃に反論出来なかった。

歯がみするしかなかった。

そして俺は言ったのだ。


「俺はなぁ、あんたを守ろうと思って、自分のやったことしか言わなかったんだぞ!」

「あんたが石を投げたことは言わなかったんだぞ!!」

「それで俺は長引いたんだぞ!!」


Y崎さんは言った


「それは、悪かったって、謝るよ」


そして、続けて笑いながら言ったのだ。


「しかし、お前もバカだよなぁ・・・」

「お前は、正直過ぎるんだよ」

「俺のことを守ろうとすることなんかなかったんだよ」

「でも、お前が仲間思いな奴だってことは分かったんだからさ、それで良いじゃない」


俺はY崎さんにビールを注がれ、それを飲むしかなかった。

俺のY崎さんへの怒りはこうして収めるしかなかったのだった。

そして、この年のクリスマス・イブは、みんなで俺の出所祝いとなったのであった。


(つづく)

2020年1月27日 (月)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (7) <最終回>

(7)潜在意識と平常心

俺は、比較的感性が鋭いというか、敏感というか、何と言ったら良いのかは分からないが、直感だったり、閃きだったり、インスピレーションだったり、夢だったり・・・。

これまでに様々な形ではあったが、そういうもので数多くのピンチを乗り越えたり、あるいは危機から救われたり、チャンスを掴んだりして来ていた。


年末のホールインワンで絶頂感を感じ、そして年が明けての阪神・淡路大震災で、プラス2,400万円の予定が一転して、マイナスの2,850万になった。


そして、この年は、詳細は省くが、この後も色々とピンチが続いたのだった。

正に、年末のホールインワンが、翌年1年分の運を使い切ってしまったような感じだったのだ。


しかし、この出来事で、俺はY部長とのパイプが太くなり、その翌年から本格的に『不良債権物件』の世界に入って行くことになったのだ。


そして、俺の売上は徐々に拡大していき、取り扱う金額も更に大きな額になり、色々なピンチとチャンスを繰り返し、山あり谷ありの人生を送って来た。


『不良債権』の世界は、普通の人はあまり馴染みの無い世界だから、面白い話しは沢山あるのだが、それはまた別の機会にする。


ただ、俺はこれまでの自分の人生55年の中で、独立半年後に起きたホールインワン。

そして、阪神・淡路大震災による解約で発生したピンチ。

更には、それを乗り越えるために与えられた閃き。


これらは、決して忘れられない出来事なのであった。

そして、これらは全てが繋がっていたのだと、今では思っているのだ。


そして、それらを引き起こした運命みたいなものは、全て俺の潜在意識が引き起こしたものなのではないかと思っているのだ。


俺の場合、これまでの人生経験において、潜在意識の力でピンチを凌いだり、危機を回避したり、チャンスを掴んだりして、その都度、『絶頂感』を感じて来た。


この『絶頂感』というものは、単なる喜びでは無く、『何かに守られているような優越感』だったり、『自分が優れた人間であるような錯覚を生み出す傲慢』のようなものだったと、今では思える。


そして、『絶頂感』を感じてしまうと、必ずその直後に俺は大ピンチに襲われて来たのだ。


そう考えると、俺は『絶頂感』を感じてはいけないと思うのだ。

良い時も悪い時も、如何に平常心を保つのか。


この『平常心』という言葉。

俺が、剣道の稽古の時に頭に巻く手拭に書かれている言葉なのだ。


普段は何も考えずに、ただ見ているだけだったのだが、このブログを書いていて、改めてその重要性に気づかされたのであった。


俺の今年のテーマ。


『上善は水の如し』


『我以外皆我師也』


そう考えると、これらはきっと、どんなことがあっても『平常心』を保つために必要な心構えなのではないかと思えて来たのであった。


そういう思いが湧きあがって来たということは、きっと遠くない将来に、これまでの俺だったら絶頂感を感じてしまう様な出来事が待っているのかも知れないと、独り勝手に思う俺なのであった。


俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ 『完』

2020年1月26日 (日)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (6)

(6)閃き

2月に入り、俺の苦悩の日は続いていた。

何か手があるはずだ・・・。

俺は考え続けていた。


2月も半ばになり、考えられるあらゆる手を尽くしたのだが、何とかなる兆しは全く見えて来なかった。

俺は半ば諦めかけ、顧客30人以上に土下座してでも、何とかするしかないかと考え始めていた。


そんなある日、俺はある閃きを得たのだった。


TP社はC生命保険の孫会社なのだ。

TP社のY部長が一番喜ぶのは、生命保険に入ってあげることなんじゃないのか?


俺は考えた。


ダメ元で、まずは生命保険に入ってやれ。

それも大口で。


中途半端な金額では意味が無いと思った。


それから先は、その後考えよう。

俺はそう決めたのだった。


俺は早速TP社のY部長に連絡して、生命保険に入りたいのだがどうしたら良いかと相談した。

金額を聞かれ、俺は3億と答えたのだった。

内訳は、俺が2億で社員分が1億と。


電話口のY部長は、金額を聞いて驚いた様子だった。

そして、どうするか決めて返答するとのことになったのだった。


翌日Y部長から連絡が来て、C生命保険のナンバー1セールスが担当になると言って来た。

そして、俺の元へ送りこまれて来たのは、東海本部の名古屋から来た40代の女性だった。


C生命保険は、中部地方が本拠地だったのだ。

トヨタ、東海銀行に並ぶ中部地方の企業だった。


俺は会社を受取人として、俺の分で個人としては上限の2億、そして社員分として1億の計3億の契約を即日で結んだのだった。


後は、運を天に任せるだけだった。

俺は待った。


そして、2月28日、Y部長からお礼の連絡が来たのだった。


俺は知らなかったのだが、生命保険会社の2月は、年度末の営業強化月間だったらしい。

その為、俺の話しはY部長からTP社のO社長、O社長からC生命保険の重役、そして営業本部長と、トップダウンで伝わったのだった。


そして、俺を担当した女性セールスは、全国一位になったとのことだった。

更には、営業本部長が東京に来た時に挨拶をしたいから来社して欲しいとのことだったのだ。


そして、それらの保険加入に対する一通りの謝辞が終わった後、Y部長はおもむろに言ったのだった。


「ところで、この前言ってた代官山の物件、あれどうなった?」


遂に来たのだった。

俺はこの言葉を待っていたのだ。


「実は・・・」


俺は、正直に状況を説明した。

そして、Y部長は言ったのだった。


「融資してあげようか?」


俺は、即座に答えた。


「ありがとうございます!」


この後直ぐ、俺はY部長の元へと馳せ参じたのであった。

そして、代官山の購入代金、3,000万円の融資を取り付け、無事難局を逃れたのであった。


後日談になるが、俺の加入した保険額は、C生命保険の社内では、かなりの大口だったらしく、三人分の沖縄旅行のプレゼントがあったのだ。


そして俺は、この旅行券をY部長にプレゼントし、Y部長、O社長、東海本部長の三人が沖縄旅行を楽しんで来たのであった。


(つづく)

2020年1月25日 (土)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (5)

(5)天国から地獄

年が明けて俺がまずしたことは、ゴルファー保険の請求手続きだった。

そして、年末に持ち込んだ住宅ローンの審査を待って、審査が通り次第決済の段取りの予定だった。

住宅ローンの審査は、持ち込む前に事前審査で内定は取っていたので、心配はしていなかった。


1月末までには粗利で2,400万円、純利で約2,000万円が入る予定だった。

そして、住宅ローンの審査が下り、決済日の設定をしようとしていた時だった。

1月17日、阪神・淡路大震災が起きたのだった。


テレビで見た映像は衝撃的なものだった。

俺は、まずいと思った。


それまでにもマンションに対する地震のリスクには、それなりの営業トークで対応して来てはいた。

しかし、阪神・淡路大震災は、これまでにない規模の地震だったのだ。

業者間でも地震保険がどのような対応になるのか、正直なところ誰もわからない状況だった。


俺は、決済日を設定する為に顧客の二人とアポイントを取って面談したのだった。

案の定、契約していた二人の顧客からは、地震保険の行方がハッキリするまで、見合わせて欲しいと決済延期の申し入れをされたのだった。


キャンセルではなかったが、決済の延期は期日を特定出来なければ解約と同じだった。

本来は、住宅ローンの審査も終了し、物件引き渡し日も1月末日までとしていたので、買主理由の解約の場合は手付金放棄での解約となるのだ。


しかし、それをやってしまっては、その後が続かなくなることから、俺は手付金を全額返金し、解約の申し入れを受け入れたのだった。


当時の俺は、顧客を『エンドユーザー』ではなく、『エンドレスユーザー』という考え方をしていたのだ。

顧客になった人からは、必ず最低一人の紹介を貰っていたのだ。

それも、ワンルームマンションに興味がある人ではなく、一番の親友を紹介して貰うやり方だった。


当時の俺は、『買って頂いてありがとう』は当たり前だが、『買わせて頂いてありがとう』と言って貰える営業を心掛けていたのだ。

その為には、まず俺が顧客を大好きになることが重要だった。

そして、その為のポイントが、親友を紹介して貰うというやり方であったのだ。


更には、そういう人に紹介する物件は、相場より安い価格で提供しようと考えていたのだ。

この代官山のマンションも当時の相場としては、一戸3,000万円は下らない物件だったのだ。

それを俺は、一割以上安い2,700万円に設定したのだ。


この代官山のワンルームマンションは、最初は一戸2,200万円で売りに出て来た物件だった。

それを2戸同時購入を条件に、一戸当たり1,500万円まで叩いて購入したのだ。

それが出来たのは、この物件が『不良債権物件』だったからだ。


顧客に手付金を全額返金し、一旦解約することを決断した時の俺の心境は、『客を殺すか、俺が死ぬか二つに一つ』というものだった。

そして、俺が下した決断は、『客を殺すくらいなら、俺が死んでやる』というものだったのだ。


解約を受け入れたことで、俺の立場は、粗利2,400万円の入金予定から、一転して2,850万円の支払いをどうするかになった。

最終決済日は、3月15日だった。


俺は、それまでに他の見込み客に転売するか、さもなくば、2,850万円を用意しなければならなくなったのだった。


俺は、まず次に控えていた見込み客の全てに当たった。

しかし、阪神・淡路大震災の影響はあまりにも大きく、全ての見込み客は状況を見極めたいという現状だった。


この時点で、俺は覚悟を決めたのだった。

最悪は、俺の顧客30人から、一人100万円ずつでも、全員に土下座をしてでも融資を依頼して、三千万をかき集めるしかないと決めたのだった。


そして、それを行う為の時間は、一日三人として10日間必要だと考えた。

3月3日までに目途が立たなければ、そうするしかないと決めたのだった。


この時、最悪は150万円の手付金を放棄しての解約も可能だったのだが、俺の頭にはその選択肢は無かった。


俺が1,000万円以上も叩いて買った物件を、手付金を放棄しての解約というみっともない真似は、命に代えても出来ないことだったのだ。


当時はバブルが崩壊し、世間は住専問題で揺れていて、勢いのある不動産業者はほとんどいなかったのだ。

俺の代わりに、一時的に抱いて貰えるような業者も俺の周りにはいなかった。


そんな状況の中、独り即断即決で俺は対応し、取引業者から信用を得て来ていたのだ。

手付金放棄での解約などということは、俺のプライドが絶対に許さないことだった。


ましてや、これから食い込んで行こうと考えていた、宝の山の『整理回収機構』の物件だったのだ。

一度でもそんなことをしたら、二度と入って行くチャンスは無いと思ったのだった。


現状の見込み客への売却が困難なことを確認した上で、俺がまず最初に当たったのは、年末に大森の物件で融資を受けたTP社のY部長だった。


しかし、Y部長からは大森の物件で融資を受ける時に、次はこの大森の売却が終わってからだと言われていたので、可能性はかなり低いと思っていた。


ダメで元々だった。

俺は、TP社へ訪問しY部長に相談したのだが、あっさりと断られたのだった。


次に打った手は、俺の会社へ出入りし、フルコミッションの様な形で動いていた仲間への売却依頼だった。

当時俺の会社では、正社員は雇っていなかったが、複数の大手マンション販売会社の社員で成績優秀な奴等を何人か囲っていたのだ。


大手販売会社の社員は、数字を上げてもボーナス査定に多少の影響をするだけで、基本が固定給のため、ノルマを達成している時は、手持ちの客に裏のバイトで販売したがるのだ。

昨年話題になった闇営業みたいなものだ。


不動産業界というものは、そもそもがアウトソーシングの世界で、全て手数料で動く一匹狼的人材が多いのだ。

俺の事務所には、そういう輩が数人いつも集まって来ていたのだ。


俺は、その仲間たちにも報酬を上乗せして売却依頼をしたのだが、マンション販売最大手のD京のトップセールスでさえも、阪神・淡路大震災の影響にはお手上げ状態だったのだ。


2月に入り、俺に残された時間は1ヶ月を切ったのだった。

俺はあらゆる手を考えて行動したのだが、正攻法ではどうにもならなかったのだ。

俺の苦悩の日は続いたのだった。


(つづく)

2020年1月24日 (金)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (4)

(4)絶好調!?

話しは少し横道に逸れるが、俺がゴルフを始めたのは、当時丸ビルに入っていたゴルフショップの社長にマンションを買って貰ったのがきっかけだった。


俺はまだ雇われだった頃、ゴルフをしたことも無いのに、当時の上司であった専務の命令で、200万円の会員権を買わされたのだった。


当時は、今では考えられない様なパワハラが当たり前の世界だったのだ。

買わされた会員権は、当時詐欺事件となった茨城カントリークラブの会員権だった。


そして、当時はまだゴルフをやったこともないのに、今度は会社の住宅ローンの提携先との付き合いで、ゴルファー保険に入らされたのだった。


当時は、まだゴルフは金持ちのやることで、将来自分も出来るようになったら良いなと軽く考えていた程度で、俺はまだやったことはなかったのだった。

そんなゴルフをやったことのない俺が、ゴルフ会員権を買わされ、更にはゴルファー保険にまで入らされたのであった。


俺は、その話しをゴルフショップの社長に多少愚痴っぽく話したのだった。

するとその社長は言ったのだった。


「それじゃあ、あとはクラブを買ってやるしかないだろ」

「俺が教えてやるから」


俺はそう言われ、当時流行っていたプロギアの一番高いフルセットを買わされてしまったのだった。

そして俺は、やむなくゴルフを始めることとなったのだった。


クラブを買わされた俺は、その後その社長が教えてくれるといい、連れて行かれたのは、今はもう無い芝公園の練習場だった。

そして、最初に教えてくれたのは、打ち方ではなく、カッコ良いバッグの担ぎ方だったのだ。


当時、芝公園の練習場は、日中キャバ嬢で一杯だったのだ。

その社長曰く、芝公園の練習場は、キャバ嬢をナンパするのに持って来いの場所だというのだった。

俺はそれ以来、その社長にゴルフを教わることは止めたのだった。


なにはともあれ、俺がゴルフを始めるまでの流れは、普通の人とは全く逆の流れだったのだ。

しかし、思いがけずに無理矢理入らされたゴルファー保険が、この時のホールインワンで活きたのだ。

なんと、ホールインワンで50万の保険金が入って来るのだった。


俺が独立した平成6年の12月は、代官山のマンションの販売契約も2戸とも終え、更にはホールインワンと良いことづくめで幕を閉じたのであった。


しかし、あまりにも年末に迫ってのホールインワンは、何か翌年の運気を使ってしまったような気がして、嫌な予感もしていたのであった。


(つづく)

2020年1月23日 (木)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (3)

(3)まさかの?!

この当時の俺は、月に2~3回のペースでゴルフをしていた。

ゴルフは、顧客に新規顧客を紹介して貰うのが目的だった。


当時の俺は、二子玉川にあった日本で最初の会員制スポーツクラブの『スポーツコネクション』と、成城にあった、『成城グリーンプラザ』のゴルフ練習場へ一日おきに通っていた。

そして、その合間に月2~3回のゴルフという生活だった。


平成6年12月29日、この年最後のゴルフだったのだ。

場所は、千葉県成田市の『ザ・プリビレッジG.C』というコースだった。


現在は、『グリッサンドG.C』と名称が変わっているようだ。


『ザ・プリビレッジG.C』は、平成3年に新設された新しいゴルフ場で、会員権の販売価格が約8千万という超高級ゴルフクラブだったのだ。


当時は有名な一部上場の食品会社の社長が理事長を務め、通常は会員の同伴のみで、キャディはほとんどが20代前半の女性という、千葉ではかなりの超高級なコースだった。

実際、俺が周ったことのあるゴルフクラブの中では、クラブハウスは郡を抜いて断トツで高級感のある造りだった。


クラブハウス内にあるBARが、当時のオーナーの肝煎りで、クラッシックに統一された調度品は、全てが一流品だった。

特に、BARカウンターの天板は、特殊な樹の一枚板で海外から空輸されたもので、1億円以上だと聞かされていた。


このゴルフクラブは会員の同伴のみだったのだが、ゴルフクラブのオーナーが、俺が借りた代官山のマンションのオーナーでもあり、俺は会員権を持ってはいなかったのだが、平日は会員の同伴が無くても利用させて貰えていたのだった。


この日は、日立製作所の管理職のM氏と紹介客の三人でのプレーだった。

当時のプレーフィーは、平日でも一人5万円を超えていた。

今では考えられないような値段だが、当時はそれでも安いと思っていたのだ。


この日のキャディは、23歳と若くて明るい、化粧っ気のない可愛い子だった。

聞くと、冬の間だけ北海道から出稼ぎに来ているとのことだった。

夏場は北海道でキャディをやり、冬場はこっちでキャディをしているとのことだったのだ。


俺たちはINスタートだった。

そして、前半のラスト3ホールとなる16番ホールで事件は起きてしまったのだった。


その日のティは、バックティだった。

174ydのPar3だった。

俺はM氏の後の二番目だった。


グリーンは逆光で光っていて、旗の先端が僅かに見えるだけで、グリーン面は全く見えなかった。

俺は4番アイアンで軽く打ったのだが、球はピンに向って真っ直ぐの良い感じだった。


すると、グリーン奥で俺たちが打ち終わるのを待っていた前の組の人たちが大騒ぎで拍手してくれたのだった。

俺は、かなり近くに寄ったのではないかと思い、次の人に打席を譲った。

そして、俺の後の紹介客が打ち終わり、俺たち三人は話しながら歩いてグリーンに向ったのだった。


すると、グリーン上に集まった前の組の人たちがプレーを開始しないで、俺たちが来るのを待っている感じだったのだ。

俺たち三人は顔を見合わせ、グリーンに向って小走りで走った。


そして、グリーンまで行くと、前の組の人たちが俺を拍手で迎えてくれ、俺はホールインワンだったことを、その時初めて知ったのだった。

グリーン上が逆光だった為に全く見えず、音も聞こえなかった為にまさか入っているとは思いもよらなかったのだ。


前の組の人に聞くと、転がって入ったのでは無く、『ポン、ポン、ポン』で入ったとのことだった。

そして、前半を終えレストランに行くと、前の組の人たちが再び拍手で迎えてくれ、俺は前の組の4人にビールを振る舞ったのだった。


昼食時に散々飲んだ俺たちの後半のプレーは酷いものだった。

この当時の俺は、ゴルフは好きだったが、あくまで趣味兼仕事だった為、飲みがメインになり、スコアの方は90台が良いとこだったのだ。


この日のプレーを終えた俺は、精算時にフロントで、キャディーにホールインワンのチップとして5万円の現金と名刺を置いて帰路についたのだった。


そして、このホールインワンで気を良くした俺は、二人を連れて六本木へと向ったのであった。


(つづく)

2020年1月20日 (月)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (2)

(2)株式会社ジェイ・ディー

6月に個人で事務所を構え創業した俺は、8月下旬に株式会社としての登記をしたのであった。

会社名を『株式会社ジェイ・ディー』とした。

ジェイ・ディーは、『Japanese Dream』の頭文字から取ったものだった。


当時の株式会社の最低資本金額は、今とは違い1千万円だった。

当時の俺は、1千万円を寝かせる金銭的余裕は全く無かった。


俺は、当初俺のスポンサーになってくれると言っていたO社長に、登記の間だけ一時的に一千万円を借り、登記完了後に直ぐに返済したのだった。

いわゆる、登記の為の見せ金だ。

そのため、会社の決算的には、実質マイナス1千万からのスタートだった。


この株式会社ジェイ・ディーは、俺自身の独立としては、初めての会社だった。

しかし、俺はその前に、企業内起業みたいな形で、『有限会社ヒューマンクラブ』という会社を作っていた。

その為、俺が設立した会社としては二社目だったのだ。


独立前の俺は、不動産業界の中では営業力主体の『投資売り』という、ワンルームマンションの販売をしていた。


このワンルームマンション販売の『投資売り』という世界も一種独特な世界で、当時はかなりグレーな部分が多い世界だった。


俺は、本音では、ワンルームマンションの世界から普通の住宅の販売に脱却したいと考えていたのだ。

しかし、独立直後は、仕入れ資金が無かったことから、当面はそれまでのワンルームマンションの販売を行って行くことにしていたのだった。


そして、その年の11月、俺はひょんなことからC生命保険の孫会社に当たるTP社(金融会社)の部長を紹介されたのだった。


このTP社は、後に多重債務問題で大問題になった大手消費者金融に一千億円単位で融資している会社だった。

社員数は10人にも満たなかったが、社長はC生命保険の元重役で、融資総額は数千億円という規模だった。

○富士、○ロミス、○イチなどオーナー企業系の消費者金融を育てたのは、C生命保険と言っても過言では無かった。


TP社は、当時準大手だったC生命保険の影みたいな会社だったのだ。


俺は、紹介されたTP社の部長に気に入られ、独立後間もない俺に、仕入物件を担保に融資をしてくれることになったのだった。

融資は、設立したばかりの会社に対しては行えず、当初は俺個人に対する融資だった。


最初は、実績作りということで、12月上旬に俺は1,200万で仕入れた大田区大森の物件に対して1,700万の融資を依頼した。

物件の販売価格は2,000万の予定だった。

諸経費を差し引いて約400万のオーバーローンだった。


オーバーローンは、利益の先食いだ。

この物件は、年明けに販売する予定だった。

そして、俺はその400万を元手に代官山のワンルームマンション2戸を3,000万で仕入れたのだった。


この代官山のマンションは、仕入前に既に販売の申し込みを取り、仕入契約と同時に販売契約を結ぶことになっていたのだ。


その為、仕入時の契約は、契約価格の5%の手付金で、残金支払いを3ヶ月後に設定した、『中間省略』という販売方法を取ったのだった。


中間省略とは、まず手付金のみで契約し、残金決済を2~3ヶ月後に設定し、残金決済日までに転売し、仕入決済と転売決済を同時に行うやり方だった。


この代官山のマンションは、一戸当たりの仕入金額が1,500万に対し、一戸当たりの販売価格は2,700万に設定したのだった。


そして、この物件の債権者が住専問題で一躍脚光を浴びた、弁護士の『鬼の中坊公平』率いる、『整理回収機構』の物件だったのだ。


俺としては、単なる転売益だけでは無く、『整理回収機構』に食い込む大チャンスと捉えていたのだった。


平成6年12月16日、俺は代官山のワンルームマンションの売買契約を手付金150万、残金2,850万、残金決済3ヶ月以内で締結したのだった。

そして、俺は2戸とも直ぐに転売のための売買契約を締結し、住宅ローンの持ち込みを25日には終えていたのだった。


年明け後、ローンの審査が下り次第、1月中には決済の予定にしていたのだった。


その年の12月29日、俺はこの年最後の接待ゴルフだったのだが、ここで思わぬ事件が起きたのであった。


(つづく)

2020年1月18日 (土)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (1)

(1)不良債権の世界へ

2020年1月17日、AM4:56。

俺は突然目を覚ました。

予定より約1時間早い目覚めだった。


俺はそのまま起きることにした。

軽く洗面し、NIKKEI NETを開いて見た。


目に飛び込んで来たのは、『阪神大震災から25年』の文字だった。


阪神・淡路大震災が起きる約半年前の平成6年6月9日。

俺は代官山(渋谷区鉢山町)の3LDKのマンションを借りて創業したのだった。

当時の俺は29歳だった。


阪神・淡路大震災は、俺の人生の中で、大きな影響を与えた出来事の一つだった。


『阪神大震災から25年』の文字を見て、『俺の道 ~自立編Ⅰ~』は、まだ17歳までのことしか書いていないが、先に阪神・淡路大震災前後のことを書いてみたくなったのだ。


俺が借りた代官山のマンションは、代官山駅から徒歩4~5分、渋谷駅から徒歩10分程度の高級住宅地の中の三階建ての低層マンションだった。

築年数は20年以上経っていて古かったが、敷地内には全て平置きの駐車場もあり、立地や地型はとても良い物件だった。


また、一戸当たり72㎡ほどで、普通の分譲タイプのマンションより多少広めの3LDKだった。

洋室5畳、6畳、和室6畳、LD12畳、K3畳、バス、トイレ、洗面というものだった。

しかし、このマンションは普通のマンションとは少し違っていたのだ。


当時、世間で大問題になっていた『住専』、いわゆる『住宅金融専門会社』の大口融資先企業が一棟物として所有している物件だった。


全て同じ3LDKの間取の部屋が、一階6戸の三階建て、全18戸のマンションだった。

俺が入居する前は、ある大手銀行の社宅として一棟丸ごと賃貸されていたものだったのだ。


しかし、俺が入居する時は、賃借人は全て退去した後だった。

なぜなら、住専問題により、この物件は不良債権化していたのだ。

銀行は、この物件を競売に掛けるために退去していたのだった。


当時俺が懇意にしていたO社長が、物件を所有している不動産会社の社長と昵懇だったために、競売になったら退室することを条件に、好きな部屋を格安で使わせてくれたのだった。


競売までには、まだ約2年の猶予があったのだった。


俺が入居する時は、O社長の社員が一室を使っているだけで、俺は残りの17部屋を全て見せて貰い、その中で比較的綺麗だった1階の一室を借りたのだった。


借りる時は、リフォームはせずにそのままだった。

その代わり、退室の際も現状回復の必要は無く、敷金礼金も無く、ただ毎月の家賃だけで良かったのだ。


そして、このことをきっかけに、俺は不動産業界の中でも特殊な、『不良債権物件』の世界に興味を持ち始め、数年後には不良債権物件のスペシャリストとなって行くのであった。


(つづく)

2020年1月17日 (金)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (20)

(20)怒りの矛先

釈放が決まったことで、俺は取りあえず、留置場での年越しを逃れたことに安堵したのだった。

しかし、帰りの護送車の中で冷静に考えていると、そもそもの原因を作ったのはY崎さんであることに俺は気づいたのだった。


そして、その当の本人は、留置場はたった一泊しかせずに出ているのだ。

Y崎さんにパクられてから一度も会わなかった理由がやっと分かったのだった。


そのY崎さんを、俺は必死に守ろうとしていたのだ。


俺は、自分のバカさ加減に呆れるしかなかった。

しかし、そのバカさが無くなったら、俺は俺でなくなるとも思ったのだった。


次第に俺の腸は煮えくりかえって来たのだった。


「Y崎さんが石さえ投げなければこんなことにはならなかったのに・・・」

「なんであいつだけ先に出てんだよ?!」

「先に出ているなら出ているで、言いに来てくれたって良いじゃねーか!」

「なんであいつは、それを教えに来なかったんだ?!」

「差し入れの一つくらい持って来てくれたって良いーじゃねぇかよ!」


俺の怒りの矛先は、完全にY崎さんに向いたのだった。


「あいつ、ぜってーぶっ殺してやる!!」


俺がこれまで寒さをひたすら耐えながら守ろうとして来たY崎さんは、今度は俺の標的になったのだった。

そして、小金井署に戻った俺は、その日の夕方釈放されたのだった。


(つづく)

2020年1月16日 (木)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (19)

(19)まさかのまさか

24日の朝、俺は何とか地検送致者に入った。

そして、以前と同じように護送車で地検に運ばれた。


俺は、何としても検事に俺の主張を認めさせるしか出る方法が無いと思っていたのだった。


俺の順番が来た。

検事は、以前と同じ奴だった。

そして、俺はいきなり言われたのだった。


「認める気になったか?」


俺は言った。


「やってもいねーこと、認める訳ねーだろ!」

「顔面にチョーパンを入れたことと、腹に蹴りを5~6発入れたことは認めるけど、それ以外は認めない!」


そして、俺は気になっていたことを聞いた。


「ところで、Y崎さんは、どうなりました?」


そして、検事は驚くべきことを言ったのだった。


「あぁ、あいつは罰金を払って、とっくに出てるよ」


「えーーーーーーーーーーーーーーーー!?」


俺は更に聞いた。


「いつですか?」


検事は、確認して俺に言った。


「12月12日だな」


俺たちがパクられた、翌々日だった。

俺が最初に地検に送致された前日だった。

俺は更に驚いた。


「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」


「なんで?????」

「なんで、Y崎さんだけ先に出てるんですか?!」


検事は言ったのだった。


「あれ?言ってなかったっけ?」


「聞いてないですよー!」


「彼は、最初から全部認めたから、罰金払って出たんだよ」


俺は意味が分からなかった。


「罰金ってなんですか?」

「罰金払えば出られるんですか?」


検事は言った。


「そうだよ」

「彼は初犯で成人だから、罪を認めたら、後は罰金でいいんだよ」


「罰金ていくらですか?」


検事は確認して言ったのだった。


「彼は、20万だ」


「20万?」


「そうだよ」


「俺は?」


「君は未成年だから、罰金はない?」


「へ?」

「どういうことですか?」


「だから、認めれば罰金なしで出られるんだよ」


「えっ?!どういうことですか??」


俺は検事が言っている意味がさっぱり理解できなかったのだ。

検事は俺に説明したのだった。


まず、俺たちの罪は、『公務執行妨害』だった。

俺は、てっきり暴行傷害だと思っていたのだ。


そして、『公務執行妨害』については、誰が石を投げたとか、何発殴って何発蹴ったのかとかは関係ないことを説明されたのだった。

要は、警官に逆らって暴力行為を行ったこと自体が犯罪だったのだ。


俺は聞いたのだった。


「じゃあ、なんで俺は2週間も入れられてたんですか?」


検事は言った。


「認めないからだよ」


「認めたじゃないですか!」

「チョーパンを入れたことと、5~6発の蹴りを入れたことは!」


「そうだな」

「でも、警官側の調書を認めなかっただろ?」

「だから、私は言ったんだよ」

「素面の警官と、酒に酔っていた君のどちらの言い分を周りは信じるのかと」


「そんなんじゃ、わかんねーよ!」

「俺はてっきり、俺が下手なこと言ったら、Y崎さんが不利になるんじゃないかと思って・・・」


俺は、内心歯がみした。

そして、思った。


「俺は何のために頑張っていたんだ?」

「俺のこの2週間は、一体何だったんだ??」


検事は言ったのだった。


「もう少し大人になれ」

「わかったか?」


俺は、めちゃくちゃ悔しかった。

大人になるってどういうことなんだ?

俺には解らなかった。

しかし、頷くしかなかった。


俺は、警官側の調書に署名し拇印を押したのだった。

そして、この日の釈放が決まったのだった。

そして、俺は最後に検事に言われたのだ。


「お前の相手だった警官を恨むなよ」

「彼は、お前にやられて自信を失くして移動になったから、交番に行ってもいないからな」


俺は聞いた。


「俺がやった警官は、駅前の交番の人だったんですか?」


「そうだよ」


俺は、自分がやった警官の顔なんか憶えていなかったのだ。

駅前の交番の警官は、特に仲が良かった訳ではないが、毎日のように顔を合わせていたから良く知っていたのだ。

俺は、それなら逆に悪かったなと思ったのだった。


(つづく)

2020年1月15日 (水)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (18)

(18)人生3つ目の坂、まさか?!

12月20日を過ぎて、看守が言ったのだった。


「今年は、地検の最終日が24日だから、それまでに出られなかった奴は年越しだからな!」


それを聞いた俺は焦った。


「マジかよぉ~・・・」

「まさかの年越しかぁ?!」

「ここで年越し蕎麦を食うのかぁ?!」

「ここで紅白を見るのかなぁ?」


そう思った。


しかし、そうなったらそうなったでしょうがないと思った。

俺はパクられてから三日目に地検に行った後は、一度も行っていなかった。

その後、少年係の取り調べも無かった。

今思うと、独房に入れられた放置プレーみたいなものだった。


次にいつ地検に行くのかは分からなかった。

俺は、一緒にパクられたY崎さんのことが心配だった。

21日も、22日も俺は朝の地検送致者には入らなかった。


そして、23日も俺は呼ばれなかった。

残すは、明日のみだった。


俺がパクられてから丸2週間だった。

そして、24日になった。

世の中はクリスマス・イブだ。


そんなことは、俺には関係がなかった。

今日呼ばれなかったら年越しが確定だった。


俺はドキドキしながら待った。

そして、俺の名は呼ばれた。

しかし、Y崎さんの名前はなかった。


それまで俺は、一度もY崎さんに会っていなかった。

俺は、Y崎さんのことが心配だった。


当時の俺はまだ知らない言葉だったが、良く結婚式とかのスピーチで聞かされる、『人生にある3つの坂』。

上り坂、下り坂、そして3つ目の『まさか』。

俺は、その『まさか』を味わうことになったのであった。


(つづく)

2020年1月14日 (火)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (17)

(17)修行僧

地検から戻り、拘留延長となった俺は、それから新たな闘いが始まった。

それは、寒さとの闘いだった。


パクられた時の俺は、引っ越しセンターのグリーンの作業服の上に丈の短いジャンパー1枚だった。

その時は12月でも、まだそれほど寒くはなっていなかったのだ。


しかし、12月も中旬になり、日に日に寒さが増して来たのだった。

寝具は敷布団に毛布一枚と枕一個だけだった。


夜中に寒くて目が覚めると眠れなくなった。

そして目覚めると、誰かが谷村新司の『昴』を歌っていた。

俺は思った。


「こんなところで、昴なんか歌ってんじゃねーよ!」


でも、歌は下手では無かった。

『昴』の歌は、毎晩続いた。


俺は、今でも『昴』を聞くと、この留置場生活を思い出してしまうのだ。

しかし、歌としては嫌いな訳では無かった。


俺には夜の寒さの他に、もう一つ辛いことがあった。

毎日風呂に入れないことだった。


俺は大の風呂好きなのだ。


留置場では、正確には憶えてないが、風呂は3~4日に一度だった。

それも、決められた時間の短時間で、身体を洗うだけで湯船に浸かっている時間はなかったのだ。

記憶は定かではないが、10分も無かったように思う。


そして、差し入れを拒否した俺に着替えは無かった。

冬場だったから良かったが、夏場だったら耐え難かったかも知れない。


留置場内では、本当に何もやることがなかった。

大人たちの出入りは多かったが、少年で入って来る奴は一人もいなかった。


俺は日中、誰とも話さず、敷布団を座布団代わりに床に敷き、その上に毛布を被って壁にもたれかかり、看守の目を盗んでは、夜眠れない分の睡眠を取った。

日中は横になったり眠ったり、動きまわったりすると注意されたのだ。

ただ、じっと座っているだけだった。


腕立て伏せと腹筋だけは、これも看守の目を盗んではやっていた。

腕立て伏せと腹筋は毎日数え切れないほどやっていた。

大して旨くも無いはずの丸警弁当がめちゃくちゃ旨く、唯一の楽しみだった。


食うこと、寝ること、腕立て伏せと腹筋。

それだけだった。

まるで修行僧のようだった。


(つづく)

2020年1月13日 (月)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (16)

(16)地検

留置場のトイレは壁が無い和式だった。

大便は、入口に向ってする形で、看守に見られたままで、落着いてすることは出来なかった。


昼過ぎに休憩時間が少しだけあった。

狭いスペースだったが、そこは天井が無く外気が吸えた。


大人たちはタバコを吸っているようだったが、俺には与えられなかった。

俺は大人たちとは分けられたから話し相手もいなかった。


俺だけ独房状態だった。

俺の楽しみは、三食の丸警弁当だけだった。


そして、後から知ったのだが、金を差し入れて貰っていれば、弁当の追加や別のおかずの購入が出来たのだった。

しかし、差し入れを拒否した俺には、追加で買う金はなかったのだ。

これには俺も流石に失敗したと思った。


正確には憶えていないが、確かパクられてから3日目だったと思う。

人数的には5~6人だったと思うが、俺たちは留置場を出され、手錠を嵌められ、腰縄を巻かれ、一列で等間隔に並び、手錠にロープを通されたのだ。


Y崎さんはいなかった。

俺は、パクられてから一度もY崎さんと会っていなかった。


警察署の入口を出ると、表にはグレーに塗られた護送車が待っていた。

乗り込むと先に何人かが乗っていた。

これも正確には憶えていないが、何箇所か別の警察署も周り、その都度数人が乗って来た。


護送車に乗せられた俺は何処に連れて行かれるのかと思った。

しかし、そんなことを考えてもしょうがなかった。

俺は聞く気もしないし、教えてくれる人もいなかった。


脱走とかは丸っきり考えていなかった。

成るようになるだろうと思っていた。


連れて行かれたのは地検だった。

場所が何処だったのかは憶えていないが、そんなに遠くはなかった。


俺の担当検事がどんな人だったかは覚えていないが、スーツを来た男だった。


俺は検事のデスクの向いに座らされた。

そして、調書を読み上げられた。

読み上げられた調書は、俺が署名した調書ではなく、俺が署名を拒否した調書だった。


俺は冷静に対応し、否定した。


検事は俺に言った。


「100歩譲って、君の言っていることが真実だとしても、君は酒に酔っていたんだ」

「相手は酒を飲んでいない警官だ」

「どちらの言い分を信じると思う?」


俺は言った。


「警官なんでしょうね」

「でも、あいつは嘘をついている」

「俺は、嘘をついていない」


俺は理不尽さを感じた。


俺は、警察側が勝手に作った調書を全く認める気はなかった。

Y崎さんも、そんな理不尽なことを認める訳がないと思っていた。


俺は、拘留延長となった。


小金井警察署に戻った俺は、また同じ留置場に戻された。

留置場に戻された俺の所へ少年係の担当官が来て言った。


「なんで認めなかったんだ?」

「認めてれば、今日出られたんだぞ」


俺の気持ちはそんな言葉では揺らがなかった。

俺は思っていた。

絶対、俺の主張を認めさせてやると。


(つづく)

2020年1月12日 (日)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (15)

(15)初めての留置場

俺は前夜のことを思い出していた。

しかし、直ぐには思い出せなかった。


俺が考えていると、担当官は既に出来ている調書を読み始めたのだった。

そして、読み上げられる内容を聞きながら、次第に俺は前夜のことを思い出し始めたのだった。

読み上げられた内容は、俺の記憶とは全然違っていた。


担当官は、最後まで読み上げた後、俺に聞いた。

これに間違いがないかと。

そして、間違いが無ければ、署名と拇印を押すように言われた。


俺は言った。


「ふざけんじゃねーぞ、この野郎!」


内容は酷いものだった。


その調書は、俺にチョーパンを入れられた警官の供述を基に作られたものだった。


石は俺が投げたことになっていた。

更には、その石がチャリンコに当たったことになっていた。

一方的に俺から手を出したことになっていた。

パンチを顔面に10数発、腹にキックを20数発入れたことになっていた。


俺からすれば、丸っきり出鱈目な調書だった。


俺は、石を投げてないこと、石のことなんか知らないことをまず主張した。

Y崎さんが不利になることを言うつもりはなかった。


そして、Y崎さんの相手だった警官が先に手を出したこと、俺が警官の顔面にチョーパンを1発入れて、倒れた警官の腹に5~6発のケリを入れたことは認めた。

しかし、パンチは一発もなぐっていないこと、20数発もケリを入れていないことを主張した。


俺が袋叩きになったことは書かれていなかった。


担当官は、相手の警官の調書を素直に認める様に何度も俺に言った。

認めれば直ぐに出してやるとも言って来た。


しかし、俺は頑として相手の調書を認めなかった。


俺はY崎さんのことを考えた。

Y崎さんも同じ主張をしているはずだと思っていた。

Y崎さんは、ズル賢くはあったが、根性はある人だと思っていたのだ。


担当官は、何度も同じ調書を読んでは、俺に認めるように迫った。

しかし、俺は一切聞き入れなかった。


担当官は、面倒臭そうに渋々新たな調書を作成し始めた。

そして担当官は、書きながら何度も元の調書の内容に近づけようとしたが、俺は否定した。

担当官は、何度も書き直した。


最終的に俺は、俺が主張して書き直された調書に記名し、拇印を押した。

少年係の取調室を出された俺は、留置場へと連れて行かれた。


留置場に入る前、横の部屋に連れて行かれ、俺は全裸になるよう言われた。

俺は、ここまで来てジタバタしてもしょうがないと開き直った。

俺は全裸になって胸を張った。

すると、前屈みになるよう言われた。


俺は前屈みになって股の間から後ろを見た。

後ろにいた検査官と目が合った。

すると、検査官が俺のケツの穴を見てO.Kを出した。

終わってから俺は、急に恥ずかしくなって来たのだった。


留置場に入ると、中央に半円形の一人用の看守の席があった。

そして、それを囲む形で扇型でいくつにも区切られた牢屋になっていた。


留置場の部屋は何も無い、壁も床もコンクリートで、肌色のような明るいベージュに塗られていた。

毛布が一枚あるだけだった。


俺は、中央の看守席から見て、一番左側の部屋に一人で入れられた。

他の部屋にはそれぞれ2~3人が入れられていた。

俺は少年だったことから、他の成人とは分けられていたのだ。


Y崎さんがどこにいるのかは分からなかった。

留置場に入ると、お金と衣類の差し入れが可能だと言われた。


俺は、親に差し入れを頼むように看守から言われたが拒否した。

親には、何もいらない、面会にも来るなと言った。


俺は少年係の担当から、初犯だから多分2~3日で直ぐに出られるだろうと言われていたのだった。

それくらいなら我慢出来ると思った。

情けを掛けられたくなかったのだ。


しかし、結果的にはそれが裏目に出たのだった。


(つづく)

2020年1月11日 (土)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (14)

(14)初めてのブタ箱

1981年12月10日。

俺は1ヶ月前に17になったところだった。

その日は、Sさんも入社から2ヶ月近く経ち、大分仕事も慣れて来た状況になっていた。


俺はSさんと東小金井駅北口の寝床で飲んでいた。

そこへ、トーケンのY﨑さんが一人で飲みに来て、俺たちと合流したのだった。


Y崎さんは、30ちょいのトーケンの引っ越しチームだったから、俺は良く知っていたのだ。

Y崎さんは、見た目は普通の人だったが、仕事を一緒にすると、何気に一人で休んでいたりして、ズル賢い感じがある人で、特に好きにはなれない人だった。

ただ、Y崎さんは群れるタイプでは無く、酒は時々一緒に飲んでいて、嫌いではなかった。


寝床で散々飲んだ後、俺たち三人は、Yちゃんの『樹々』に飲みに行くことにしたのだった。

いつもだったら、東小金井駅を渡って反対の南口に出て『樹々』へ向うのだが、何故かその日は違った。


俺たちが日中に作業している貨物駅構内を抜け、構内の少し先にある踏切を渡って行く、少し遠回りなルートを選択したのだった。


師走になり、俺たちの気持ちも高揚していたのだと思う。

俺たち三人は、歌を歌いながら歩いていたのだった。


俺たちが踏切の手前30m位に差し掛かった頃だった。

向い側から踏切を渡って二台のチャリンコが走って来たのだ。


その二台は、巡回中の警官だった。


後から知ったのだが、その日から警察は年末警戒態勢に入っていたのだ。

二台のチャリンコ警官は、歌を歌いながら歩いていた俺たちとのすれ違い様に言ったのだった。


「うるさいぞ!静かにしろー!」


俺は言った。


「バーカ!」


そして、Y崎さんが突然10cm程の大きめの石を拾って、走り去っていく警官に向って投げたのだった。

石は、警官までは全然届かなかった。


しかし、一人の警官が当たらずに転がった石に気づき、ダッシュでUターンして来たのだった。

そしていきなり俺に向って言ったのだ。


「今、石を投げただろー!!」


俺は言った。


「投げてねーよ!」


「じゃあ、誰が投げたんだ!」


そして、ニタニタ笑っていたY崎さんの襟首を掴んで言ったのだった。


「お前だな!」


Y崎さんはシカトしたのだった。

すると、もう一人の警官も来て、そいつは俺の襟首をとったのだった。


俺は怒鳴った。


「ふざけんじゃねーぞ!この野郎!!」


俺と警官の間にSさんが入り、Sさんは俺を一生懸命に止めたのだった。

Y崎さんの方を見ると、Y崎さんは警官に殴られた瞬間だった。

そして、Y崎さんも殴り返していた。

その瞬間、俺はブチ切れた。


「てめぇー、やりやがったな、この野郎!!」


俺は、俺の襟首を掴んでいた警官の腕を払い、警官の頭を掴んで顔面にチョーパンを入れた。


警官はもんどりうって後ろに倒れた。

俺は倒れた警官の腹に数発の蹴りを入れた。

そして、やられていたY崎さんに加勢したのだった。


Sさんは、間で止めに入りオロオロするばかりだった。

Y崎さんに加勢した俺は乱闘状態になった。


すると、俺たちは一気に数台のパトカーに囲まれた。

あっという間だった。


そして俺は、警棒で殴られ5~6人の警官に袋叩きになったのだった。

俺の意識はそこで無くなった。


翌朝、俺が目を覚ますと、一瞬自分が何処にいるのか分からなかった。

頭がガンガンした。

良く見ると、鉄格子の中だった。


俗に言われるブタ箱だった。

中に居るのは、俺一人だけだった。

俺は毛布一枚も無く、ただコンクリートの地べたに転がされていたのだった。


俺は思った。


「これが、ブタ箱ってやつかぁ・・・」

「痛ってぇ・・・」

「あいつら散々やりやがって・・・」

「くっそぉ・・・」


相当殴られたらしく、体中がバキバキで痛かった。


少しすると鉄格子の外に一人のスーツ姿の男が現れた。

男は、小金井警察署の少年係だった。


俺は、鉄格子の中から出され個室に連れて行かれた。

個室は少年係の取調室だった。


Y崎さんとSさんのことが心配になり、俺は二人のことを聞いた。

Y崎さんは一緒にパクられ、Sさんは事情聴取を受けてから帰らされたとのことだった。

そして、俺への尋問が始まったのだった。


(つづく)

2020年1月10日 (金)

自己実現塾 2 ~12月期~ (4)

(4)自己受容の真の意味

私がこの『自己実現塾』を受講した動機は、『私とご縁があってこれまでに付き合って来てくれている方々や、これから出会って行く方々に、「共感や受容」という形で、何かを与えられる自分になって行きたい』という想いが原点です。


そして、その目的は、私がこれまでの経験や体験の中で気づいて来たことを、自分の感覚として捉えているだけではなく、もっと論理的に自分自身が理解し、きちんと自分の言葉で伝えられるようになることなのです。


その為には、言葉を知り、表現方法の幅を広げることだと思ったのです。


私は、自己実現塾コミュニティフォーラム内の『晴太老の部屋』へ、12月27日に年末最後の投稿をしました。

そして、その中で、『自己受容の真の意味、みたいなものに気づき始めたこと』を書きました。


私は、ブログを始め、そして自分の過去を小説風に書くことで、子どもの頃の自分の感情というものに初めて気づきました。


しかし、大人になってからの自分をよくよく振り返って考えてみると、その場その場における『自分の感情』というものは、発散はしてきていても、日常の忙しさや慌ただしさに流され、きちんと感じたり、向き合ったりはして来なかったように思うのです。


ある意味、感じるべき感情をきちんと感じないまま過ぎ去って来たように思うのです。

単純に嬉しがったり、楽しがったり、悔しがったり、怒ったりなどはして、表層的には感じてはいても、本質的な感情に関しては、ほとんどが我慢したり、耐えたりして来ていたのではないかと思ったのです。


そう考えた時、人は、そもそも自分の感情を理解しているのだろうか?という疑問が湧きあがって来たのです。


そして、人は、なぜ他者に解って貰いたいと思うのだろうか?

自分の気持ち、感情とは、一体何なのだろうか?

人は、なぜ気持ちを解って貰いたいのに、出来事ばかり話すのだろうか?


私は、ずっとそんなことを考え続けて来ていたところがあったのです。

そして、ふと、思ったのです。


もしかして、一番解っていなければいけない自分自身が、実は一番解っていないのではないか?

それは、自分の感覚では捉えていても、言葉にして理解していないということなのではないだろうか?

言葉で理解出来ていないから、言葉で伝えられないのではないか?


他者に解って欲しい気持ちとか感情は、どちらかというとネガティブな感情なのではないか?

辛い、悔しい、悲しい、寂しい、侘しい、虚しい、残念、がっかり、惨め、恥ずかしさ、照れくささ、情けなさ、無力感、孤独感、罪悪感、嫌悪感、挫折感、劣等感、不満、屈辱、後悔、恨み、憎しみ、嫉妬、軽蔑、恐怖、不安、苛立ち、憂鬱などなど。


そして、ある出来事で自分が傷ついたことは解っていても、どのように傷ついているのか、どのくらい傷ついているのかは、感覚的には解っていても、実際の所は解っていないのではないだろうか?

だから、他者に解って欲しいと思うのではないだろうか?

解って欲しいという思いは、教えて欲しいという想いでもあるのではないだろうか?


特に、その傷の大きさや深さなどのサイズ感が自分では解らずに、解って欲しいと思うのではないだろうか?

自分では感覚的には解っていても、言葉で解っていないから、それを知りたくて、教えて欲しくて、だから解って欲しいと思うのではないだろうか?


もし、自分の感情をきちんと自分の言葉で理解し、言葉で表現出来たとしたら、逆に他者に解って貰う必要は少なくなるのではないだろうか?


自分にとって一番身近な存在である自分自身が、自分の味方として理解してあげることなのではないだろうか?


要は、自分の感情を感覚だけでは無く、自分自身が言葉で理解し、言葉で表現出来るようになることが自己受容の本質なのではないだろうか?


自分自身の感情をきちんと言葉で理解し、言葉で表現出来れば、他者の気持ちも言葉で理解し受け止められ、それを言葉で教え、気づかせてあげることも出来るのではないだろうか?


それが、『自己受容出来るようになれば、他者受容も出来るようになる』ということなのではないだろうか?


自己受容とは、自分の感情を一旦抑圧し、自分の中でしっかりとその感情を自分の言葉で理解すること。

自分の言葉で理解するということは、自分自身を抱きしめるような感じなのではないだろうか?

そして、自分の感情を理性的に自分の言葉できちんと伝えられるようになること。


それが、精神的に『大人になる』ということなのではないだろうか?

それこそが、『自我の確立』ということなのではないだろうか?


不思議な感覚の母の夢を見て、私は年末の最後にそんなことを考えていたのでした。


自己実現塾 2 ~12月期~  (了)

2020年1月 9日 (木)

自己実現塾 2 ~12月期~ (3)

(3)不思議な夢

12月28日の朝、私は目覚める前に不思議な夢を見ました。

それは、『意識と無意識の境界』を感じる様な夢でした。


私は、4~5年前から持っていて、読みたいと思っていながら読めていない本が二冊ありました。

一冊は、『母という病』。

もう一冊は、『三島由紀夫 作品に隠された自決への道』というものでした。


私は、11月の下旬頃から、『母という病』を読みました。

そこには、グレートマザーに憑依された症例が沢山記載されていました。


私は、読みながら、自己実現塾で学ばれているお母さん方で、子どもの不登校や子どもとの関係で悩まれている方は、読んだ方が良いと感じました。

しかし同時に、読むタイミングを誤るといけない本だとも思ったのです。


私は、そういう意味では、以前から所持していながら、これまで読んで来なかった理由が解ったように思ったのです。

捉え方を間違えると、間違った方向へ行ってしまう可能性が高い本だとも思ったのです。


やっと私の心が、素直に受け止められる状況になったことで、読むタイミングが巡って来たのだと感じた本でした。

その本を読み、私は子どもという立場では、間違い無く母の被害者だったのだと思ったのです。

しかし、同時に私に対しては加害者であった母も、子の立場になった時には被害者だったのだとも思ったのです。


母は、六人兄弟の長女ですが、戦争中に実母が家を追い出され、無理矢理実母と別れさせられ、戦後継母が現れ、10歳位年が離れた妹が生まれてからは、ずっと妹や弟の育児をやらされて来ていたようです。


私が小さかった頃、何度となく継母に対する恨み辛みを聞かされたことか分かりません。

それは丸で呪文のようでした。

祖母に対する恨み辛みを言う母のことが、嫌で嫌で堪らなかったのを覚えています。


私が小学生になった頃、母の実家である青森の北津軽に返ると、私と妹は実家に預けられ、母は一人隠れて実母に会いに行っていました。

私が一緒に行きたがっても、母は私に自分が実母に会いに行くことは内緒にするように言い聞かせ、一人で実母に会いに行きました。


私は、母が散々恨み辛みを言っていた継母に私たちを預け、自分一人が大好きな実母に会いに行く母の姿は、子ども心にも嫌でしょうがなかったのです。


私は、『母という病』という本を読んで、そんなことを思い出しながら、被害者としての自分のことよりも、母も被害者だったのだと、憐れに感じたのです。


『母という病』は、母性の負の側面が強く出た状況で育てられ、最初は被害者だった子どもたちが、次第に大人になり、子を持つことで今度は加害者になって行くという、連綿と続いて来ていて、誰かがその過ちに気づいて止めない限り、ずっと続いて行ってしまうものだと感じました。


私は、『母という病』を読了後、12月の課題図書を読み、そして、『三島由紀夫 作品に隠された自決への道』を読み始めました。

読んで直ぐに、野口先生が動画で話された、『意識と無意識の境界』の話しを思い起こし、「三島由紀夫は、正に無意識に凌駕されて自決したのだろう」と思ったのです。


そんな時、偶然、河合隼雄先生の『魂にメスはいらない』、『無意識の構造』、『影の現象学』という三冊の本に出会いました。


そして、三島由紀夫の本は途中にして、まずは『無意識の構造』を読んだのです。

そこには、数々の無意識の『元型』と夢の関係が書かれていました。


28日は、丁度その『無意識の構造』を読み終えた後でした。


私が目覚める直前に見た不思議な夢は、母との夢でした。

考えてみると、母が夢に出て来たのは、もしかしたら始めてかも知れません。


私は、夢の中で、ある30歳位の女性の『心構え』の試験受けをしていました。

私とその女性がテーブルを挟んで向き合って座っています。

試験を受けているのは、現在の私です。


30歳位の女性は、俯き加減で顔は見えません。

そして、女性は何も話しません。


しかし、試験を受けている私は、その女性は若かった頃の母だと感じ、母の懺悔の心の声が聞こえて来るのです。

そして、向き合っている私は、『貴女は何も悪くない。貴女は貴女なりに一生懸命やって来たんだよ』と言い、互いに涙しているのです。


すると、30歳位の母は、いつしか35歳位の母になり、やはり同様に俯き懺悔しているのです。


そして、向き合っている55歳の私は、同じように、『貴女は何も悪くない。貴女は貴女なりに一生懸命やって来たんだよ』と、再び言い、認めて受け入れているのです。


その言葉を聞き、母は涙を流し、その姿を見て私も涙しているのです。


そして本当の私は、試験受けをしている私の右斜め上方から、二人の姿を見つめて、『それでいい』と思っているのです。


右上方からそれを見つめている私は、冷静に若かりし頃の二人の母を見て、既に私自身が当時の母の年齢を上回り、今では娘のように思える様な年齢になっていることに気づいたのです。


必死に子育てをしていたであろう30歳と35歳の母を見つめている私は、母を親目線で見つめている自分に気づいたのです。


その時、目覚ましの音楽が鳴り、私は目を開けずに目覚ましを止め、瞼を閉じたまま、向き合った二人をしばらく俯瞰し続けました。

そして、目覚めていながらも、仰向けで瞼を閉じ、俯瞰し続けていた私は、突如涙が止めども無く溢れて来たのです。


その時、私はこれまでずっと、母に対してだけは、子の立場で居続けていたことに気づいたのです。


しかし、今の私から見れば、私の様な、きかん坊の5歳の男の子と2歳の女の子を抱えた30歳の一人の女性と考えた時、正しいとか間違っているとかではなく、ただその時出来ることを一生懸命にやって来たことには間違いはないのだと思ったのです。


そして、誰も悪くは無いと思ったのです。


私は、ずっと子の立場で甘え続けていたのは、自分だったのかも知れないと思ったのです。


この時の私は、一人の55歳の男として、30歳や35歳の一人の年下の女性としての母と向き合っていたのです。

まさか、夢の中とは言え、年下の母と会うことになるとは思ってもみませんでした。


もしかしたら、母とのことが一歩前進出来たのかも知れないと思いました。


また、無意識の中から浮かび上げって来ていた夢を、意識を持った状態のまま見続けた私は、こういうところが、野口先生が指摘する、『意識と無意識の境界線の弱さ』なのかも知れないとも思ったのでした。


(つづく)

2020年1月 8日 (水)

自己実現塾 2 ~12月期~ (2)

(2)習慣力を付ければ心の器は育まれるのか

今回の課題図書だった『プロフェッショナルの習慣力』を読んでの私の感想は、特に目新しい内容は感じられず、単にこれまでの自分の行動に対する考え方の確認という感じで、正直物足りなさを感じていました。

ただ、今月の課題は、全体の流れの中の一部だと思い、『心が行動を変え、行動が心を変える』という言葉がある通り、先月は心から入り、今月は行動から入ることを教えて頂いているのだと思っていました。


しかし、正直なところ、私の中では、何か腑に落ちないものがずっと付いてきていました。

そして、それが何なのか、私の中ではそれがある程度分かっていながらも、ハッキリさせることをどこかで避けているようにも感じていました。


12月も下旬になってから、私は何故か野口先生の動画から録音した音声を、風呂に入りながら何度となく聞いていました。

そして、野口先生が動画の最後にまとめで話した言葉。


「心の容器をしっかり作ることが先決ですよ」

「心の容器を作ることが自己受容力を高めることにもなるし、自分づくりにもなりますよ」

「そして、心の容器を作る為には、外的な容器としての生活の中の枠組み、そういったものが大切なんです」


私は、野口先生の言うことが間違いだとは思いませんでした。

しかし、逆説的に、『では、生活の中の枠組みをしっかりさえすれば、必ず外的な容器が作られ、心の容器はしっかりしたものになるのか?』という疑問がハッキリと見えてしまったのです。


そして、その答えは、『ノー』だと思ったのです。

それは、私がこれまでにやって来たことや、両親の行動からも分かることなのでした。


私は独立して直ぐ、事務所に神棚を作り、毎朝手を合わせていました。

そして心の中では、こう願っていたのです。

「私は、私が正しいと思ったことを行っていきます」

「私の行動に間違いが無い時は力を貸して下さい」

「しかし、どんなに私が正しいと思っていても、大きな目から見たら間違っていることもあると思います」

「その時は、事を上手く運ばせないようにして下さい」


また、私の母は、毎日朝昼晩の三回、仏壇に向って『般若心経』を唱えています。

父が亡くなってからは、宗教活動は止めたようでしたが、お祈りだけはずっと続けて来ているのです。

朝起きる時間、起きてからやること、そして食事時間や寝る時間など、全て決まり切った行動をしていて、丸でロボットのようなのです。

人に合わせるということを全くしないのです。


私が離婚後に後悔と自責の念に苛まされていた時、 『般若心経』を唱える声や鐘の音が耳触りで、止めて欲しいと言っても、『貴方のため』という偽善の言葉で止めなかったのです。


私は小学生の中頃位までは、母の事は好きだったのです。

友だちの母親と比べて、私の母親は綺麗だとも思っていました。

しかし、小学生の高学年位から徐々に好きではなくなって行き、気がついた時には大嫌いになっていたのです。

そして、母の干渉から逃れるために、16で高校を中退し家を出たのです。


しかし、27で父が亡くなってから、その後私が経済的に面倒を見るようになりました。

6年前に同居を開始し、母との同居がきっかけで離婚したのです。


私は、心の中では何度も早く死んで欲しい、早く私の目の前からいなくなって欲しいと思って来ているのです。

母は、私自身の嫌なところや大嫌いな自分の象徴のような存在なのです。


一昨年の気づきで、全ての人を許せる気持ちが持て、自殺した父のことも許す事が出来、父の愛を感じることも出来たのに、唯一母だけは、頭では許せても、感情的には許せていない自分がいるのです。


理性的には、感謝もし、許せてもいるはずなのに何故なのか・・・。

私の中での最大の壁であり、闇みたいなものなのです。

私は、この問題を解決する為に、なぜ私がそこまで母の事を嫌悪するのかが自分でも解らず、『退行催眠』みたいなものを受けてみることを考えたこともありました。


そういう母を常に見ているせいなのか、野口先生が教える『習慣』を作れば、『心の器が強くなる』という考え方に疑問が生じていたのです。


しかし反面、私も研修の中では、『考え方ややり方』を変えるためには、それが無意識で出来るようになるまでやり続けなければいけない、習慣化するまでやり続けることが大切なのだと話し、その覚悟を『心構え』として確認しているのです。


そう考えた時、大切なのは、『習慣を作れば、心の器が強くなる』ということではなく、『習慣を作る』、あるいは、『生活の中の枠組みをしっかり作る』のは、何故なのか?という、明確な目的意識が無いといけないのではないかと思ったのです。

そして、『心の器を育む』こと、『心の器を強くする』ことは、目標ではあっても、目的ではないと思ったのです。


あくまでも目的は、『自我の確立』であり、『自己実現』なのです。


他の受講生のみなさんが、そこのところをどの様に捉えられているのかは、私にはわかりません。

しかし、私の中で腑に落ちなかった部分は、目標が目的化しているように感じていたところだったと気づいたことでした。


そして、この『目標の目的化』こそが、人を『幸せ』から遠ざけてしまう原因なのではないのか?

私自身の過去を振り返った時、そう感じずにはいられないのでした。


(つづく)

2020年1月 7日 (火)

自己実現塾 2 ~12月期~ (1)

(1)外的な器を構築する理由

自己実現塾2ヶ月目のテーマは、『心の器を育む』というものでした。

前月の『心の安全基地を強化する』ということについては、まず、人間には、『防衛機制』という、生まれながらにしての守りの機能が備わっていて、人は無意識に自分の心を守っていることを教わりました。

そして、その守り方が健康的なら良いのですが、健康的ではない守り方の場合は、自分を傷つけたり他者を傷つけたりしていることになっていることを教えられたのです。


その健康的ではない、本能的な守り方のことを、『アクティングアウト』と言い、その中でも特に健康的ではないのが、『躁的防衛』というものでした。


これらのことを知ることにより、まず自分がどうなのかを知ることから始まりました。

私は、アクティングアウトを知ったことで、多くの気づきを得ることが出来ました。

自分自身の過去の行動や考え方の理由が解ったのです。


自分の中での『なぜ?』に対する理由が解ったことは、私にとってはとても意味のあるものでした。


そして、アクティングアウトをしている場合、その理由は、『心の守り』が弱く、それを強化する必要があるとのこと。

その為には、『健康的な守り方』を知り、健康的な守り方を身に付けて行くことで、徐々に健康的ではない守りを手放して行く方法を教えられました。


私自身は、既にこの数年間の中で、『アクティングアウト』や『躁的防衛』という言葉を知りませんでしたが、善い言葉を身に付けて行く事や、日常の中で身に付けて来た習慣で、知らない内に自然と『心の安全基地』を少しずつ強化して来たのだと思いました。


ただ、私の『心』の問題は、多分相当根が深く、まだたまに強烈なアクティングアウトをしてしまう時があるのが現実です。


9月の酒席の場でそれが出てしまい、翌日は自己嫌悪に陥ったりしていました。

当時はまだ、『アクティングアウト』を知らなかったので、それまでは単なる自分の酒癖の悪さだと思っていたのです。

しかし、『アクティングアウト』を知り、この2ヶ月間の学びの中で気づいて来たことも合わせての対処法もいくつか見つかったので、今後は更に減らして行けるのではないかと思っています。


また、自分自身の『なぜ?』が解ったことで、他者に対する『なぜ?』も理解出来るようになり、これまで受け入れられなかった他者の言動も受け入れられ、他者に対して寛容になれそうな気持ちにもなりました。


以上のように、11月は、『心の守り方』という内側からの観点で学びました。

それに対して2ヶ月目の12月は、『心の器を育む』ということをテーマに、その育み方を学びました。

そして、育み方の前に、まずは、『心の器』とは何なのかということから始まりました。


『心の器』は、『心的容器』とも言われ、ユング博士は、『心の子宮』と言ったそうです。

『心の器(心的容器)』とは、『自分の感情を一旦抱えて、自分で何とかする為の器』だそうです。

ただ、感情と言うものをずっと自分で抱え続けなければいけないと言う意味ではないとのことです。


例えば、悲しみの感情を一旦抱えて、自分で何とか出来そうだと思えば日記に書いたり、一人で抱えるにはきついから友だちに聞いて貰うとか、特にきつい感情は、お金を払ってプロの心理カウンセラーに聞いて貰うとかの選択があるとのことです。


いずれにせよ、抱え続ける必要はないのですが、一旦自分で抱えてその感情をどう扱うかを決めることが出来るとしたら、心の器がかなりしっかりしていると言うことでした。


心の器が弱いうちは、適切な選択をする間もなくアクティングアウトに漏れ出てしまうのだそうです。


また、心的容器は、自分の体験や気づきを納める容器でもあり、心の葛藤を納める容器でもあるとのことです。

自分の体験や気づき、葛藤、相矛盾する気持ち、それらを一旦納めて熟成させ、自分の宝に変えて行く、自分の血肉に変えて行く、そういう器でもあるとのことです。


心の器が脆弱ということは、自我の確立が出来ていない状況とのことです。

そして、心の器が脆弱な時の特徴として3つ教えられました。


1.アクティングアウトしやすくなる


アクティングアウトしやすくなるのは、健康的な守り方である『抑圧』が出来ないからだそうです。

私自身は、『抑圧』というと、逆に自分を抑えつける様なイメージで、あまり『良いもの』と捉えていなかったのですが、抑圧も防衛機制の一つだそうです。

心理学では『抑圧』という言葉の意味を、『湧き上がってくる感情にフタをして、それを無意識下に押しとどめ、意識の邪魔をしないようにすること』だそうです。

抑圧がきちんとできないと、湧き上がってくる感情に翻弄されまくることになり、頻繁にアクティングアウトすることになるのだそうです。


ただ、抑圧ばかりしていたら、無意識下に抑圧された感情は、どんどん蓄積していき、それを抱えること自体がストレスになり、アクティングアウトや病気とかの身体症状として表面化することもあるので、大切なのは、抑圧と解放のバランスとのことでした。

そして、抑圧する力をつけるための方法として、外的な器(枠組み)を整えることが大切とのことなのです。


2.境界線が弱い(あいまい)


境界線の弱さは、『他者と自分の境界』、『意識と無意識の境界』の二種類があるとのことです。

『他者と自分の境界』の弱さは、他者から侵入されるし、自分が侵入してしまうのだそうです。

そして、自分が侵入してしまうケースで多いのが、過保護や過干渉とのことです。


これには、私も思い当たる部分は多分にありました。

過保護ではないと思うのですが、過干渉ではあると思うのです。


最近は、息子に対しては大分境界線が引ける様になって来たとは思いますが、他者に対してはまだまだだと思います。

特に、男女を問わず好きになった人に対しては、より過干渉になってしまう傾向があると思います。


好きではない人、どうでも良い人に対しては、逆に鉄壁のような態勢になるのに、好きな人には良かれと思って過干渉になってしまうのです。

それが、境界線の弱さということだと思ったのです。


意外だったのは、『意識と無意識の境界』でした。

これまで、そんなことは考えたことが無かったからです。


『意識と無意識の境界』が弱いというのは、『夢』や『妄想』に振り回されることだそうです。


『夢』に関しては、振り回されるとまでは考えていませんが、潜在意識からの何らかのメッセージの可能性はあるという捉え方をして来ていました。

また、『妄想』に関しては、『関係妄想』、『被害妄想』、『注察妄想』、『恋愛妄想』などがあるのだそうですが、私の場合は、『関係妄想』の傾向が強いように思いました。


『妄想』は、過去経験していることをベースに考えてしまうことで、無意識の中に自分が過去繰り返して来た考え方のパターンや思考のパターン、自分が馴染んで来たイメージのパターンがあり、それらが意識の中に浮上して来ているのだそうです。


境界線がしっかりしていれば、無意識のパターンに凌駕されるのではなく、目の前の現実を冷静に認識し、現実を吟味して、思い込み、妄想だったと抑圧することが出来るとのことです。

逆に境界線が弱いと、妄想に乗っ取られて、妄想を現実のように思ってしまうのだそうです。


私の場合は、妄想に乗っ取られるまではいきませんが、やはり思い込みや決めつけの強い所はかなりあるので、境界線が弱いのだと思いました。

ただ、この『妄想』に関しては、『洞察力』や『想像力』との関係が私としては少し気になる所でした。


そして、『他者と自分の境界』と、『意識と無意識の境界』は連動していて、どちらかが弱いと両方弱くなり、どちらかが強くなれば、両方強くなるのだそうです。


他者との接点が比較的少ない私としては、今後、『意識と無意識の境界』を意識して、『妄想』や『思い込み』を抑圧するようにして行こうと思いました。


3.秘密を持てない


この『秘密を持てない』というのは、『誰にでも自己開示してしまう』ことだそうです。

これに関しても、私は結構該当すると思ったのですが、反面、もの凄く秘密主義な部分もある為、はっきりと分からない部分ではありました。


私の自己開示の傾向は、子どもの頃に親から、『嘘や誤魔化しがいけないこと』として、叩きこまれたせいもあるかも知れず、ある意味『バカ正直』なのです。

『嘘をつくこと』と、『聞かれてもいないことを自ら言うこと』の違いをきちんと把握出来ていないのだと思いました。


離婚前の私は、隠し事はせずに何でも相手に伝えていました。

きっと言わなくても良いこと、相手としては聞きたくないことまで聞かされていたのかも知れないと思いました。


ただそれは、今思えば、私の中で抑えておくことが出来ずに、自分の気持ちを楽にしたかっただけなのかも知れないとも思います。

そう考えると、『心の器』の小ささと弱さを感じました。


『秘密を持つこと』と、『嘘をつくこと』の違いをしっかり認識しておかないと、混同してしまうのだなと思ったのです。


そして、大切なのは、まずはしっかりした器を作り、蓋を閉められるようにすることで、これが『自我の確立』であり、それがある程度進んだら、自分の感情を解放するのだそうです。


要は、感情は抑圧と解放のバランスでコントロールするものだということだと思いました。

そして、その順番が大切で、抑圧せずに解放ばかりしているのはアクティングアウトになってしまい不健康である為、しっかり抑圧出来るようにしてから、安全に解放するようにすることが大切だとのことでした。


その為にまず必要なのが、心の器を育み、しっかりと蓋を出来るようにすることなのだそうです。


そして、心の器(内的な器)をしっかりとしたものにする為には、外的な器を構築することが大切で、それは生活環境の中にしっかりした枠組みやルールなどをきちんと作り、生活にリズムや秩序を取り入れることと教えられたのです。


そして、12月の課題図書は、森本貴義著書の『プロフェッショナルの習慣力』というものでした。


(つづく)

2020年1月 1日 (水)

俺の道 ~アラカン編~ 令和二年元旦の巻

◆ 一年の計は元旦にあり ◆

新年あけましておめでとうございます。


俺の昨年の目標は、『慈愛に満ちた、強くて優しい大きな心を持った人間になる』というものだった。

その為の表現が、『大きな樹のような心の持ち主になる』というものだったのだ。


そして、俺にとっての『大きな樹』のシンボルは、『日立の樹』で有名な、ハワイのモアナルア・ガーデンにあるモンキーポッド(MONKEY POD)なのだ。


この目標は、まだまだ達成までには遠く及ばないと思っている。

それどころか、一生掛けて追い求め続けるものだと思っているのだ。


そして、その為の昨年のテーマは、『優しい人間になること』、『優しさを表現出来る人間になること』としてきた。


俺は、昨年の7月からブログを始め、8月に自分の過去を小説風に書くことに気づいたことで、自分の当時の感情に気づくことができ、自己受容が徐々に進んで来たのだと思うのだ。


それにより、物事の捉え方が変わり、自分自身の変化を感じられているのだ。


しかし、その変化の中、自分自身で注意をしていながらも、先月の研修で気づいたように、自分自身の成長が過信になってしまったり、過信による傲慢さが現れたりと、反省点がまだまだ多いことも改めて気づかされたのだった。


そして、今年の目標とテーマは、昨年の目標とテーマを継続しながら、それに新たなテーマを追加していくことにしたのだ。


その新たなテーマは、先月の研修に行く前から内心で決めていたのだが、その研修での反省から、それが最も適しているとの確認が出来たと思っているのだ。


そのテーマは二つだ。


『上善は水の如し』


『我以外皆我師也』


2020年の俺の新たなテーマだ。


『上善は水の如し』とは。

人間は、自分を上に見て貰いたいと焦ったり、人と接する時も自分の方を上の優位なポジションに持って行こうとしたりすることがあるが、水は、自ら低い方へと流れていくので、他と競争することが無い。

自ら低い所へ身を置こうとする謙虚さと、どんな形にも変化する柔軟さが水の特長であり、人間にとっての最上の生き方だと、老子が教えている言葉。


『我以外皆我師也』とは。

「自分以外のものはすべて私の師である」という意味。

この言葉は、吉川英治著書、小説『宮本武蔵』の中での造語とのこと。

『秀吉は、卑賤に生れ、逆境に育ち、特に学問する時とか教養に暮らす年時(ねんじ)などは持たなかったために、常に、接する者から必ず何か一事を学び取るということを忘れない習性を備えていた。』

『だから、彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりでない。どんな凡下(ぼんげ)な者でも、つまらなそうな人間からでも、彼は、その者から、自分より勝る何事かを見出して、そしてそれをわがものとして来た。』


俺にとって、『上善は水の如し』は、生き方の姿勢であり、『我以外皆我師也』は、学ぶ姿勢という捉え方でのテーマと決めたのだった。


この二つのテーマの共通なところは、『謙虚』だと思う。


俺は、俺の中の最強の敵は、『傲慢』だと思っているのだ。

息子が大好きなマンガとして読ませて貰い、それをきっかけに俺も好きになった『鋼の錬金術師』。

昨年ある研修生から、『鋼の錬金術師』に出て来る、『ヴァン・ホーエンハイム』に似ていると言われ、読んでみたくなったのがきっかけだったのだ。


そこで登場するラスボス的存在が、『プライド』という名の『傲慢』だった。


『鋼の錬金術師』は、『七つの大罪』を敵にみなして描かれているのだが、七つの内六つは死んで消滅するのだが、最後のプライドだけは、消滅せずに幼子として生き残るのだ。


そういう意味では、『傲慢』(プライド)というものは、消滅はしないのだろうと思うのだ。

なぜなら、『傲慢』(プライド)の裏側には、『自信と誇り』があり、それが『奢り』になった時、『傲慢』という現象になって現れるのではないかと思うからだ。


『傲慢』として考えるより、『プライド』として考えた方が、多分分かり易いと思う。

プライドには、善い面と悪い面があり、表裏一体となっているから、消滅させることは出来ない。

どちらを表にして生きるのかは自分次第なのだ。


俺は、『自信と誇り』を表にし続ける為に、『謙虚』という勇者を、より強く育てなければならないと思ったのだ。

その為の今年のテーマなのであった。


そして、一つ一つのテーマを身に付けて行くことで、俺の目指す、『慈愛に満ちた、強くて優しい大きな心を持った人間』に、一歩ずつ近づいて行きたいと願う俺なのであった。


更には、その過程の中で、俺の残りの人生を共に歩んでくれるパートナーと巡り会えることを願うのであった。


そして、そのような人と巡り会えた暁には、ハワイのモンキーポッドの前で・・・。


そう願う、俺なのであった。


    【なりたいな、そんな人に】


     その人といると 明るくなる

     その人といると 心が軽くなる

     その人といると 勇気が湧いてくる

     その人といると 元気になる

     その人といると 笑顔になる

     その人といると 楽しくなる

     その人といると 優しくなる

     その人といると 穏かになる

     その人といると 美しくなる

     その人といると 清くなれる

     そんな人になれたら


      (大久保寛司 著書 「考えてみる」より)


俺の道 ~アラカン編~ 令和二年元旦の巻 『完』

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