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2020年1月20日 (月)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (2)

(2)株式会社ジェイ・ディー

6月に個人で事務所を構え創業した俺は、8月下旬に株式会社としての登記をしたのであった。

会社名を『株式会社ジェイ・ディー』とした。

ジェイ・ディーは、『Japanese Dream』の頭文字から取ったものだった。


当時の株式会社の最低資本金額は、今とは違い1千万円だった。

当時の俺は、1千万円を寝かせる金銭的余裕は全く無かった。


俺は、当初俺のスポンサーになってくれると言っていたO社長に、登記の間だけ一時的に一千万円を借り、登記完了後に直ぐに返済したのだった。

いわゆる、登記の為の見せ金だ。

そのため、会社の決算的には、実質マイナス1千万からのスタートだった。


この株式会社ジェイ・ディーは、俺自身の独立としては、初めての会社だった。

しかし、俺はその前に、企業内起業みたいな形で、『有限会社ヒューマンクラブ』という会社を作っていた。

その為、俺が設立した会社としては二社目だったのだ。


独立前の俺は、不動産業界の中では営業力主体の『投資売り』という、ワンルームマンションの販売をしていた。


このワンルームマンション販売の『投資売り』という世界も一種独特な世界で、当時はかなりグレーな部分が多い世界だった。


俺は、本音では、ワンルームマンションの世界から普通の住宅の販売に脱却したいと考えていたのだ。

しかし、独立直後は、仕入れ資金が無かったことから、当面はそれまでのワンルームマンションの販売を行って行くことにしていたのだった。


そして、その年の11月、俺はひょんなことからC生命保険の孫会社に当たるTP社(金融会社)の部長を紹介されたのだった。


このTP社は、後に多重債務問題で大問題になった大手消費者金融に一千億円単位で融資している会社だった。

社員数は10人にも満たなかったが、社長はC生命保険の元重役で、融資総額は数千億円という規模だった。

○富士、○ロミス、○イチなどオーナー企業系の消費者金融を育てたのは、C生命保険と言っても過言では無かった。


TP社は、当時準大手だったC生命保険の影みたいな会社だったのだ。


俺は、紹介されたTP社の部長に気に入られ、独立後間もない俺に、仕入物件を担保に融資をしてくれることになったのだった。

融資は、設立したばかりの会社に対しては行えず、当初は俺個人に対する融資だった。


最初は、実績作りということで、12月上旬に俺は1,200万で仕入れた大田区大森の物件に対して1,700万の融資を依頼した。

物件の販売価格は2,000万の予定だった。

諸経費を差し引いて約400万のオーバーローンだった。


オーバーローンは、利益の先食いだ。

この物件は、年明けに販売する予定だった。

そして、俺はその400万を元手に代官山のワンルームマンション2戸を3,000万で仕入れたのだった。


この代官山のマンションは、仕入前に既に販売の申し込みを取り、仕入契約と同時に販売契約を結ぶことになっていたのだ。


その為、仕入時の契約は、契約価格の5%の手付金で、残金支払いを3ヶ月後に設定した、『中間省略』という販売方法を取ったのだった。


中間省略とは、まず手付金のみで契約し、残金決済を2~3ヶ月後に設定し、残金決済日までに転売し、仕入決済と転売決済を同時に行うやり方だった。


この代官山のマンションは、一戸当たりの仕入金額が1,500万に対し、一戸当たりの販売価格は2,700万に設定したのだった。


そして、この物件の債権者が住専問題で一躍脚光を浴びた、弁護士の『鬼の中坊公平』率いる、『整理回収機構』の物件だったのだ。


俺としては、単なる転売益だけでは無く、『整理回収機構』に食い込む大チャンスと捉えていたのだった。


平成6年12月16日、俺は代官山のワンルームマンションの売買契約を手付金150万、残金2,850万、残金決済3ヶ月以内で締結したのだった。

そして、俺は2戸とも直ぐに転売のための売買契約を締結し、住宅ローンの持ち込みを25日には終えていたのだった。


年明け後、ローンの審査が下り次第、1月中には決済の予定にしていたのだった。


その年の12月29日、俺はこの年最後の接待ゴルフだったのだが、ここで思わぬ事件が起きたのであった。


(つづく)

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