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2020年2月

2020年2月 9日 (日)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (28) <最終回>

(28)友との別れ

やっちゃ場仕事が無くなった俺は、その日から平日は構内作業、週末は引っ越しと、以前と同じように東建とトーケンの両方をやっていた。

そして、平日でも仕事が終わればトーケンに行き、2コ上のOと1コ下のE一、そしてYちゃんやT田さん、Hさんなどと毎日のように寝床と樹々で飲んでいたのだった。

この頃から俺は、仕事は東建がメインでも、友人関係はトーケンの仲間と過ごすのがほとんどだった。


それに伴い、地元花小金井の族仲間との付き合いは、たまに集会に顔を出す程度で、徐々に薄れていった。


その年の3月末日、いつもと同じように、俺はトーケンの仲間たちと寝床で飲んでいたのだった。

そして、寝床での飲みが終わり、これからYちゃんの樹々へ行こうとなった時、いつもは一緒に行くはずのOが、突然帰ると言い出したのだ。


Oの様子が何かいつもと違っていた。

俺は、Oに聞いた。


「どうした?」

「何かあったのか?」


Oはおもむろに言ったのだった。


「実は、今日が最後なんだ・・・」

「明日、水戸に帰る」


「なに?!」

「なんで?!」


Oは、実家の親父が倒れたことを告げたのだった。

Oの実家はクリーニング屋だった。


その親父は、Oの実の親ではなかった。

育ての親だった。

Oは親父と反りが合わずに水戸を出て来ていたのだ。


そのOが、帰ってクリーニング屋を手伝うと言った。

Oは、Oなりに悩み考え、出した結論だと直ぐに分かった。


俺は、叫んでOの胸倉を掴んで言った。


「てめぇ、ふざけんじゃねーぞ、この野郎!!」

「なんで今まで黙ってた!?」


「俺たちはマブダチだろーが!!」

「なんで言わなかった!?」


Oは何も言わず涙を流していた。


俺も同じだった。


俺は、Oのボディにパンチを一発入れた。

Oも俺のボディにパンチを入れ返して来た。


俺たちは笑い合った。

そして、俺は言った。


「何かあったらいつでも連絡して来いよ!」

「絶対に助けに行くからな!」


俺とOは抱き合った。

そして、俺は言った。


「明日は見送らねーからな」


「おう」


俺たちとOは、寝床の前で別れたのだった。


翌朝、Oはみんなが出社する前、一人水戸に帰って行ったのだった。


『俺の道』 ~自立編Ⅰ~ (完)


(『俺の道』 ~自立編Ⅱ~ につづく)

2020年2月 8日 (土)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (27)

(27)夢幻の如くなり

二日間の休みを終え、向えた2月1日、この日から俺は、Sさんとやっちゃ場仕事の開始なのであった。

俺はY本さんの元で一ヶ月間学んだことを実践する喜びに溢れていた。


潮留には一番乗りだった。

俺は教えられていた通り、金港市場の伝票をゲットしたのだった。


17時過ぎ、貨物が入って来て、俺は伝票を持って走り、金港市場の積荷の貨物を見つけ、Sさんに運転席側を貨物に付けるように指示したのだった。

貨物の扉を開け、Sさんはトラックを横付けした。


Sさんがトラックを下りて荷台に来ると、いきなり悲鳴を上げたのだった。


「これを二人でやるの?!」


「そうだよ」


俺は、普通に答え、俺がY本さんに教えて貰った通り、Sさんには下から2段目と3段目の2個で足場を作ってくれるようにお願いしたのだった。


俺が上の4段と一番下をやるからと。

しかし、Sさんは積荷の量の多さに驚いたまま、既に戦意喪失状態だった。


とにかく俺は、やるしかないとSさんにはっぱを掛けながらやったのだが、半分も終わらない内にSさんはギブアップなのだった。


俺は仕方なくSさんを休ませ、一人で積み込み作業をやったのだった。

流石に俺も、一人でほとんど全ての積み込みをやったのは初めてでかなりきつかった。

時間もいつもの倍以上掛かった。

弟さんは、いつもこれを一人でやっていたのかと、俺は驚きと尊敬の気持ちになった。


積荷をロープで縛り、最上段から3~40個のみかんを抜いて、シートを掛けて、俺とSさんは、いざ金港市場へと向ったのだった。


予定の時間より、既に1時間以上遅れていた。


金港市場へ向う車中、Sさんはおもむろに俺に言い出したのだった。


「ごめん・・・」

「俺、辞めるよ・・・」

「俺には無理だわ・・・」

「今日はこれが終わったら帰ろう・・・」


俺は、何とかSさんを励まそうと色々なことを言ったのだが、無駄だった。

Sさんの心は完全に折れてしまったのだった。


金港市場に着くと、俺はSさんをトラックで休ませ、下ろしの作業は俺一人でやったのだった。


俺は、この後どうするかを考えた。

積み込みも下ろしも俺一人でやり、Sさんには運転だけやって貰うことも考えた。


しかし、Y本さん兄弟でさえ運転と下ろしがY本さん、積み込みは弟さんと役割分担でやっているのだ。

更には、他社ではほとんどがトラック一台に対して、3人のチームなのだった。


俺は、俺一人が頑張っても限界があると思った。

仕方なく、この日は金港市場の1回で帰ることにしたのだった。

そして、俺はSさんと一緒に翌朝8時に、N谷社長に相談することにしたのだった。


翌朝、俺はSさんと共にN谷社長に相談したのだ。

そして、N谷社長の下した決断は、撤退だった。


なんと、俺の日給15,000円は、一夜にして幕を閉じたのであった。


俺がY本さんに教えて貰った一ヶ月間は、水泡に帰したのだ。

そして、この日から俺とSさんは、元の東小金井貨物駅構内の作業へと戻ったのであった。


しかし、今振り返っても、このやっちゃ場仕事は、当時俺がやった仕事の中では、一番きつい仕事だった。

また、きつい分充実感もあり、楽しくもあった。

そして、その仕事をY本さんの下でやり切ったことは、当時の俺にとっては物凄い自信になったのであった。


しかし同時に、当時は気づかなかったが、多分当時の俺は、きっと物凄く残念な気持ちだったのではないかと思ったのだ。

17歳になったばかりの俺が、あれだけ一生懸命にやって覚えた仕事を、運転手の力量不足があったとは言え、たった一日で諦めなければならず、最後までやり切ることが出来なかったのだ。


自分の残念な気持ちやがっかりな気持ち、悔しさとか悲しさとか、自分一人の力だけではどうにもならない現実、そして、それに対する無力感とか、当時の俺は全く気づくことは出来なかったのだ。

それだけ一生懸命に、無我夢中にやっていたのだ。


今、『自己受容』ということを学んでいる中で、当時の俺のそういう気持ちを改めて受け止めてあげたいと思う、今の俺なのであった。


(つづく)

2020年2月 7日 (金)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (26)

(26)日給15,000円への道

1982年1月30日朝、無事Y本さんの元を卒業した俺は、Y本さんちからの帰り道に東建に寄ってN谷社長の元に行ったのだった。

N谷社長は顔をほころばせ、「良く頑張った」と俺を迎えてくれた。


そして、2月から運転手のSさんと、新たに入った運転手のN村さんの二人が交代で運転手になり、俺が助手として通しでやっちゃ場仕事をすることになったのであった。


期間はみかんの季節が終わる3月末までの二ヶ月間だけだった。


そして、この時俺は、N谷社長に耳打ちされたのだった。


やっちゃ場仕事の間は、日給を15,000円にしてやると。

そして、運転手は12,000円だから、絶対に誰にも言うなと釘を刺されたのだった。


こうして俺の給料は、入って1年経たずに、当初5,500円からスタートしたものが15,000円と約3倍近くになったのであった。


そして、この日と翌日は休みを貰い、2月1日からSさんとN村さんの運転手二人とやっちゃ場仕事をやることになったのであった。

俺はSさんに声を掛け、2月1日は15時に出発出来るように待ち合わせをしたのだった。


そして、俺はその足でトーケンに向った。

目的は、樹々のマスターでもあるYちゃんにあるお願いをするためであった。


トーケンに顔を出すと、約一ヶ月振りだったことで、まだ出発せずに残っていたみんなから声が掛かった。

しかし、俺の目的のYちゃんは既に出ていていなかった。

俺は一度帰宅し、夕方から樹々に飲みに行くことにしたのだった。


俺は帰宅し、いつも通りビールとウィスキーをストレートで飲んで、15時に目覚ましをセットして眠りに就いたのだった。


この頃は、俺が寝る10時前後は、外が煩くて酒を飲まずには眠れなかったのだ。

当時飲んでいたのは、ビールはキリンの一番搾りの大瓶と、ウィスキーはサントリーレッドのジャンボボトルだった。


15時に起きた俺は、直ぐに銭湯に行ったのだ。

一ヶ月振りの銭湯だった。

これまでの一ヶ月は、Y本さんちでのシャワーだけだったから、銭湯の湯船はことさら身に沁みたのだった。


銭湯を終えた俺は、直ぐに樹々に向った。

俺がYちゃんにお願いしようと考えていたことは、シャワーだった。

やっちゃ場仕事の間、仕事が終わった後、Yちゃん家に寄らせて貰ってシャワーを借りようと思っていたのだ。


俺は、トーケンに寄らずに真っ直ぐに樹々に行った。

17時過ぎ、俺はその日樹々の一番客で飲み始めたのだった。

そして、Yちゃんが戻る前、先にママにシャワーの相談をしたのだった。


ママは、Yちゃんが良ければ、私は良いわよと言ってくれたのだった。

18時過ぎ、Yちゃんはトーケンの仲間数人と帰って来た。


Yちゃんは、俺が先に来ていたのを見て喜んでくれた。

俺は、Yちゃんには直ぐに相談しなかった。

帰ってばかりで疲れている所で、直ぐは悪いと思ったのだ。


すると、そこへママが助け船を出してくれたのだった。

ママはYちゃんに、俺がやっちゃ場仕事の間、朝シャワーを借りたがっていることを話してくれたのだ。

Yちゃんは、快くO.Kしてくれたのだった。


俺は、これでやっちゃ場仕事に集中するための環境を整えられたのだった。

そして、この日は久し振りにみんなとしこたま飲み、久し振りの休日を堪能したのであった。


(つづく)

2020年2月 6日 (木)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (25)

(25)男の勲章

やっちゃ場の仕事に就いて一週間もすると、俺は積み込み作業にも大分慣れて来ていた。


上の段の四個持ちも出来るようになっていたし、足場作りの中指一本持ちも出来るようになっていた。

Y本さんに代わって伝票選びも任されていた。


そして、2週目に入ったある日、それまではY本さん一人が運転し、俺と弟さんの二人が助手だったのが、弟さんも自分のトラックを出して来て、二台になったのだった。


それまでの俺は、てっきり弟さんは助手専門で、兄弟でやっているものだとばかり思っていたのだが、Y本さんも弟さんもそれぞれが自分のトラックを持っていて、いつもは二人で二台のトラックを使い、役割分担をしてやっていることを知ったのだった。

俺を仕込む為にやり方を変えてくれていたのだ。


二台になってからは、始めの1回目は三人で積み込み、Y本さんと俺の二人で下ろしに行き、その間弟さんは一人で二台目の積み込みをする形になった。


その為、遠場はやらずに近場と中間距離の市場の選択に集中したのだった。


俺はY本さんと二人で下ろしに向い、帰ってくると積み込みが終わったもう一台に乗り換えて再度下ろしに向かった。

戻って来て、まだ積み込みが終わっていない時はそれを手伝い、そしてまた下ろしに向った。

それまでは一日3回だった市場への往復が、一日4~5回に増えたのだ。


普段は、このやり方で、Y本さんと弟さんの二人で役割分担してやっているとのことだった。


ある日、その日のラストが神田市場で、下ろしの作業が6時までに終わらなかった。

その時は、下ろしが終わっても、市場に入って来る人の数が多く、トラックを動かす事が出来なくなったのだ。


俺とY本さんは市場から出られない状況になった。

俺たちは諦め、トラックの中で人が引くまで仮眠するしかなかったのだった。

市場を出られたのは9時過ぎになった。


この時初めて、6時までに下ろしの作業を終わらせ、直ぐに市場を出ないと、市場は入って来る人で一杯になり、出られなくなってしまうことを思い知らされたのであった。


一ヶ月近くもすると、俺は潮留の貨物駅構内では顔になっていた。

伝票の取り合い、トラックの貨物への横付け競争など、先を争うことには負けなかった。


この仕事を始めての一番の驚きは、身体が真っ黄色になっていることだった。

毎日昼夜逆転の生活で太陽に当たらず、みかんばかり食べていたら、地黒の俺の身体が黄色になっていたのだ。


俺はこの時、みかんを食べ過ぎると黄色くなると言うのが本当だったのだと思ったのだった。


更には、この当時、俺の右腿は痣で真っ青になり、寝ている時は両手の中指がピクピクと痙攣していたのだった。


右腿が痣になるのは、みかん箱を四個持ちして走ると、右腿に箱の角が当たって、知らない内に痣になっているのだった。


俺は職業病だと思った。

そしてそれは、嫌な気分では無く、何か誇らしくもあったのだ。


身体が黄色いのも、右腿の痣も、中指の痙攣も、俺にとっては勲章みたいなものだったのだ。


俺は、Y本さんのお世話になった一ヶ月間を正月の三が日以外は無休で無事にやり抜いたのだった。

そして、Y本さんから無事卒業することとなったのであった。


(つづく)

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