親父

2019年7月27日 (土)

蘇る記憶 (3)

(3)蘇る記憶

帰りの車中、今度は今まで思い出しもしなかった昔のことがやたらと蘇ってきたのです。


自分の記憶には無いのですが、私は3歳の時にバイクに撥ねられ、左右どちらだったか忘れましたが、太ももを複雑骨折し、3ヶ月入院したことがあったのだそうです。

その時親父は、勤めていたタクシー会社を辞めて付きっきりだったという話しを思い出したのです。


若い頃その話を聞いた私は、「そんなんで会社を辞めて、どうすんだよ?!バカじゃねーの?!」と思っていたのでした。

ですが、今の自分が同じ状況になったとしたら、きっと俺も親父と同じようなことをするだろうなと思っている自分がいるのです。


高校へ入学して一ヶ月もしない内に、高校を辞めたいと言った時も、「お前が行きたいと言って行った高校なんだろ。最低一年間は行け。一年間行って気持ちが変わらなかったら好きにしろ」と言われて、一年修了して勝手に退学届を出して辞めて来た時も何も言わなかった親父。


俺が無免許で初めてパクられた時も、警察からの帰り道、怒られるのかと思っていたら、「お前くらいの年頃は、一番警察に目を付けられるんだから気をつけろよ」と、それしか言わなかった親父。


17の時に20歳の女連れて、「これからこいつと一緒に暮らすから」と言いに行った時も、何も言わなかった親父。


2回目の傷害事件で鑑別所に入った時は少年院行きを覚悟していたのに、家庭裁判所の判決直前に裁判官を立たせ、社会の窓が空いていることを指摘して、「人間、誰にでも間違いはあるものです。今回、息子の相手はヤクザ者だった訳ですし、本人も反省していますので、寛大な処分をお願いします。」と言って、少年院行きを保護観察処分に変えさせてしまった親父。


鑑別所を出てから仕事の無い俺を、許認可の世界に引き込んだ親父。

許認可の世界で、出会う親分連中に見込まれてしまい、俺を海外に逃がそうとした親父。


許認可の世界を抜け出し、一人プラプラしていた俺を深大寺公園に呼び出し、警視庁の元警視って人を連れて来て、その人から、「君は右に行きたいのか、左に行きたいのか?」と問われ、その内容を聞くと、ヤクザになるのか警察官になるのかの二択で、どちらでも世話してやると言われ、「俺は右でもなく、左でもなく、真ん中行くよ!」と言って、二人を置き去りにした時の親父。


車を運転しながら、色々なことが蘇ってきたのでした。


そして、良く考えてみると、親父は厳しくて一度も褒めて貰った記憶は無いけれど、一度も否定もされていなかったことにも気づいたのでした。


そして、小学6年生の時は、俺が100点取ってきても、「教えて貰ったことをやっているのだから、100点取るのが当たり前だろ」と言って、全く褒めて貰えなくて、でも俺は褒めて貰いたくて、100点を超える点数を取るにはどうしたら良いかを考えて、ペーパーテストではない、作文とか詩とか、理科の実験レポートとか、絵とかの創造的なもので120点とか、150点とか取れるようになったのに、それでも褒めてくれなかった親父。


でも、もしかしたらそのお陰で、形に囚われず、何か新しいものを見つけたり、始めたりするのが得意になった自分がいるのかも知れないと思うのでした。


いつ頃からなのか定かではないのですが、親父とのことを考えない様にしていた自分に気づいたのでした。

そして、その反動なのか、墓参りの帰路、車中で一人親父とのことを思い出し、親父に語りかけている自分がいたのでした。


そして、意味不明だった『人間界での修業が終わったから、次の世界へ行く』と書かれていた遺書。

「もしかして、『俺のために』とか、『俺の実地体験の運を無くすために』とか、俺のためと書かれていたら、俺はどうしただろうか?」


「俺は、『俺のせいで親父が死んだ』と考えていたかも知れない・・・」

「その場合、俺は耐えられただろうか?」

「耐えられなかったかも知れない・・・」

「そう考えると、もしかして、わざと分からなくする為にああいう内容の遺書だったのか?」

私は、そう考えたのです。


真実は、正直わかりません。

しかし、親父が死んでから27年間、一度もそんな発想はしたことが無く、突然生まれてきた考えなのです。

それは、既に私の心が、そう感じているということなのです。


そして、思ったのです。

「親父は、俺の中で生きている」

「それでいいや」


『蘇る記憶』 (了)

2019年7月25日 (木)

蘇る記憶 (2)

(2)墓参り

「親父の自殺は、俺の為だった・・・」


そんな証拠はどこにもありません。

あるのは、『平成4年7月1日に親父は自殺して死んだ』という事実だけです。


しかし、既に私の心は、そう捉えていたのです。

私の潜在意識が、そう教えているのだと感じたのです。


24日は朝9時頃に出発し、11時頃にはお墓に到着して昼前には墓参りを終え、帰りは少し前に女の子を出産した若い仲間の所にでも寄ってから帰ろうかと考えていました。


途中渋滞したので、そこから帰りに寄れたら寄ろうと考えていた所に連絡をすると、このあと外出してしまい帰りは夕方になってしまうとのことで、夕方は私も買い物に行かなければならず、この日の帰りに寄るのは見送りにしたのでした。

そんなやり取りをずっとラインでしていたのに、渋滞は延々と続き、目的地の多磨霊園に着いたのは12時半近くになっていたのでした。


私は、近くのコンビニで親父が好きだった大福とUCCの甘い缶コーヒーとお茶をお供え物として買いました。

そして、近所の墓石屋で仏花を買い、墓前へと向ったのでした。


墓石を掃除し、花とお供え物を供え、そして線香に火を点けたのでした。

すると、大して風も無いのに線香の炎は大きく燃え上がり、何度吹き消しても燃え上がるのでした。

私は吹き消すのをやめ、しばらく燃え上がる炎を見つめていたのです。


すると、その炎がまるで、「家の中でずっとご主人様の帰りを待っていた犬が、やっとご主人様が帰って来て、喜んで飛びかかって来る姿」のように感じたのでした。


私は、「親父が喜んでくれているんだなぁ」と思ったのです。

そして、手にしていた線香を立て、墓前で手を合わせると、途端に線香の炎は消え、煙がスーッと真っすぐに上がっていくのでした。


「ごめんなぁ。親父の本当の気持ちに気づくまでに27年も掛かっちゃったよ」

「周りは、こんな俺をどう思うかは知らないけれど、これから俺は、親父の自殺の理由の真実は、『俺を守るため』であり、『俺を愛していたから』だって、『それが親父の愛し方』だったんだって、そう信じることにしたよ」


「これまで俺が死なずにやってこられたのは、息子のお陰でもあり、親父のお陰でもあったんだって、やっと気づいたよ」

「ありがとうな」


「それとな、明日、息子の最後の大学入試なんだよ。あいつが望むべき道に行けるように見守ってやってくれな」


私は、そう親父に語りかけ、墓前を後にしたのでした。


(つづく)

2019年7月23日 (火)

蘇る記憶 (1)

(1)親父の愛?!

これまでの人生で最大の気づきを得てからしばらくした2月23日の夜、私は突然あることに気づき、「明日、墓参りに行こう!」と思い立ったのでした。


偶然にもその翌日25日は、息子の本命である最後の大学入試日なのでした。

それまで、4校の合格発表があり、合格していたのは滑り止めの1校のみ。

残すところ、既に試験を終えた1校の発表と25日試験の本命の2校なのでした。


親父の墓参りへは、離婚後は一度も行っていませんでした。

元々、私はその墓に入る気は全く無く、以前から自分が死んだら海に散骨してくれと頼んでいました。

そして、お袋が亡くなったらお墓を手放し、うちの家は無縁仏にしようと思っていました。

息子には一切手が掛からない様にしようと考えていたのです。


そんな状況の中、23日の夜、何故か自分が密教をやらされていた頃(小3~小6)のことを思い出したのです。


親父がいつも私に言っていたのは、「お前には『実地体験の運』がある」と。

そして、その運は、「あらゆることを経験体験していく運で、それを払わないといけない」と言われていたことを。

その為に千座行をやらされていたのを思い出したのです。


そして、気づいたのです。


人間として、絶対にしてはいけない体験とは、もしかして『自分自身の死』、いわゆる『自殺』(人殺し)なのではないかと。


今の私にとっては、『自殺』も『自分』という人間を殺す『人殺し』なのです。

他人を殺すのか、自分を殺すのかの違いはあれど、『人殺し』であることに違いはないと思っています。

自殺者は、「自分殺し」という『殺人者』でもあると思っているのです。


「もしかしたら親父は、それを俺に教える為に自殺したんじゃないのか?」

「もし親父が自殺せず生きていたらどうなっていた?」

「俺はきっと、自殺で残された家族の悲しみとか、苦しみとか、やり切れなさとか、そういう気持ちが分からずに、自殺という道を選択していたかも知れない」

「親父より俺の方が先に死んでいたかも知れない」

そう思ったのです。


私は、若い頃から何故か、命知らずというか、死にたがりというか、『死』というものを美化して捉えていたところがあったのです。


16~18の頃は、本気で、『バイクで死ねたら本望』と考えていました。

中央分離帯のある道路を平気で逆走していました。

集会では、特攻一番機と信号止めを好み、常に突っ込んで行きました。

ですから、当時の仲間内では、多分パクられた数は一番多かったと思います。


ある時親父に言われたのです。

「お前、警視庁では有名らしいな?!」

「なんで?」

「お前が車の免許を取ったから、自動車保険に入ってた方が良いと思って○○さんに頼んだら、どこの保険会社も入れないって断られたんだよ」

「なんで?」

「お前は警視庁管内の全ての警察のブラックリストに載ってるって」

「だからどこの保険会社も受けてくれないって言われたんだよ」

「あっそ」


私が車に乗るようなった時代は、ゼロヨン全盛期の時代でした。

当時、富士スピードウェイで12.01秒の公式記録を持っていた『3.0LフルチューンターボのフェアレディZ』に乗り、まだ首都高と接続されず、柏から水戸までしか開通していなかった常磐自動車道で、230~250Kmで走っていました。


いつからなのかは覚えていませんが、10代終り頃には、『人間は死ぬために生きているのだ』と考えていました。

人間は「オギャー!」と生まれた瞬間から、いつくるか分からない『死』に向かって生きていく。

生まれたとき、『寿命』という時間を与えられ、その時間を使い切ったとき死んでいく。

そして、その『寿命』という時間の残高がどれだけあるのかは、誰も知らない。

だから、全力で生きるしかない。

そして、『俺はどんなに長くても50まで生きられれば十分だ』。

若い頃は、そう考えていたのです。


ですから、ヤクザが相手でも、気にくわなければ平気で喧嘩をしていました。

当時の私は、『死』に対する恐怖は全くありませんでした。

それよりも、如何に『太く短く生きるか』を考えていました。


極道は嫌いでしたが、任侠道は大好きでした。

三島由紀夫のような死に方に憧れのようなものを持っていました。


私の中での理想の死に方は、絶望の中で死んでいく『自殺』ではなく、誰かの為、あるいは何かの為に死んでいく『自決』だったのです。


「親父が病死とか事故死じゃなく、『自殺』っていうことに何か意味があるんじゃないのか?」

「ずっと『自殺』だと思って来たけど、大した借金があった訳じゃないし、遺書の内容からすると、もしかして『自決』なんじゃないのか?!」


「俺はこれまで、息子に自分と同じ思いをさせたくないという気持ちだけで、『自殺』という選択をしないでこれた」

「でもそれは、俺が残された者の悲しみや苦しみ、やり切れなさを知っていたからだ」


「俺はずっと、親父は何かから逃げたんじゃないのかと思っていた」

「でも、もしかしたらそれは間違いで、本当は、俺に残された者の悲しみや苦しみ、やり切れなさとかを教え、『俺に自決の選択をさせないため』、『俺を実地体験の運から守るため』に自殺したんじゃないのか?!」


「それってもしかして、俺を心底愛してたってことなんじゃないのか?!」


23日の夜、私は突然それに気づいてしまったのでした。

そしてその夜、私は「明日、墓参りに行こう」と思ったのです。


(つづく)