俺の道 10代編

2020年2月 9日 (日)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (28) <最終回>

(28)友との別れ

やっちゃ場仕事が無くなった俺は、その日から平日は構内作業、週末は引っ越しと、以前と同じように東建とトーケンの両方をやっていた。

そして、平日でも仕事が終わればトーケンに行き、2コ上のOと1コ下のE一、そしてYちゃんやT田さん、Hさんなどと毎日のように寝床と樹々で飲んでいたのだった。

この頃から俺は、仕事は東建がメインでも、友人関係はトーケンの仲間と過ごすのがほとんどだった。


それに伴い、地元花小金井の族仲間との付き合いは、たまに集会に顔を出す程度で、徐々に薄れていった。


その年の3月末日、いつもと同じように、俺はトーケンの仲間たちと寝床で飲んでいたのだった。

そして、寝床での飲みが終わり、これからYちゃんの樹々へ行こうとなった時、いつもは一緒に行くはずのOが、突然帰ると言い出したのだ。


Oの様子が何かいつもと違っていた。

俺は、Oに聞いた。


「どうした?」

「何かあったのか?」


Oはおもむろに言ったのだった。


「実は、今日が最後なんだ・・・」

「明日、水戸に帰る」


「なに?!」

「なんで?!」


Oは、実家の親父が倒れたことを告げたのだった。

Oの実家はクリーニング屋だった。


その親父は、Oの実の親ではなかった。

育ての親だった。

Oは親父と反りが合わずに水戸を出て来ていたのだ。


そのOが、帰ってクリーニング屋を手伝うと言った。

Oは、Oなりに悩み考え、出した結論だと直ぐに分かった。


俺は、叫んでOの胸倉を掴んで言った。


「てめぇ、ふざけんじゃねーぞ、この野郎!!」

「なんで今まで黙ってた!?」


「俺たちはマブダチだろーが!!」

「なんで言わなかった!?」


Oは何も言わず涙を流していた。


俺も同じだった。


俺は、Oのボディにパンチを一発入れた。

Oも俺のボディにパンチを入れ返して来た。


俺たちは笑い合った。

そして、俺は言った。


「何かあったらいつでも連絡して来いよ!」

「絶対に助けに行くからな!」


俺とOは抱き合った。

そして、俺は言った。


「明日は見送らねーからな」


「おう」


俺たちとOは、寝床の前で別れたのだった。


翌朝、Oはみんなが出社する前、一人水戸に帰って行ったのだった。


『俺の道』 ~自立編Ⅰ~ (完)


(『俺の道』 ~自立編Ⅱ~ につづく)

2020年2月 8日 (土)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (27)

(27)夢幻の如くなり

二日間の休みを終え、向えた2月1日、この日から俺は、Sさんとやっちゃ場仕事の開始なのであった。

俺はY本さんの元で一ヶ月間学んだことを実践する喜びに溢れていた。


潮留には一番乗りだった。

俺は教えられていた通り、金港市場の伝票をゲットしたのだった。


17時過ぎ、貨物が入って来て、俺は伝票を持って走り、金港市場の積荷の貨物を見つけ、Sさんに運転席側を貨物に付けるように指示したのだった。

貨物の扉を開け、Sさんはトラックを横付けした。


Sさんがトラックを下りて荷台に来ると、いきなり悲鳴を上げたのだった。


「これを二人でやるの?!」


「そうだよ」


俺は、普通に答え、俺がY本さんに教えて貰った通り、Sさんには下から2段目と3段目の2個で足場を作ってくれるようにお願いしたのだった。


俺が上の4段と一番下をやるからと。

しかし、Sさんは積荷の量の多さに驚いたまま、既に戦意喪失状態だった。


とにかく俺は、やるしかないとSさんにはっぱを掛けながらやったのだが、半分も終わらない内にSさんはギブアップなのだった。


俺は仕方なくSさんを休ませ、一人で積み込み作業をやったのだった。

流石に俺も、一人でほとんど全ての積み込みをやったのは初めてでかなりきつかった。

時間もいつもの倍以上掛かった。

弟さんは、いつもこれを一人でやっていたのかと、俺は驚きと尊敬の気持ちになった。


積荷をロープで縛り、最上段から3~40個のみかんを抜いて、シートを掛けて、俺とSさんは、いざ金港市場へと向ったのだった。


予定の時間より、既に1時間以上遅れていた。


金港市場へ向う車中、Sさんはおもむろに俺に言い出したのだった。


「ごめん・・・」

「俺、辞めるよ・・・」

「俺には無理だわ・・・」

「今日はこれが終わったら帰ろう・・・」


俺は、何とかSさんを励まそうと色々なことを言ったのだが、無駄だった。

Sさんの心は完全に折れてしまったのだった。


金港市場に着くと、俺はSさんをトラックで休ませ、下ろしの作業は俺一人でやったのだった。


俺は、この後どうするかを考えた。

積み込みも下ろしも俺一人でやり、Sさんには運転だけやって貰うことも考えた。


しかし、Y本さん兄弟でさえ運転と下ろしがY本さん、積み込みは弟さんと役割分担でやっているのだ。

更には、他社ではほとんどがトラック一台に対して、3人のチームなのだった。


俺は、俺一人が頑張っても限界があると思った。

仕方なく、この日は金港市場の1回で帰ることにしたのだった。

そして、俺はSさんと一緒に翌朝8時に、N谷社長に相談することにしたのだった。


翌朝、俺はSさんと共にN谷社長に相談したのだ。

そして、N谷社長の下した決断は、撤退だった。


なんと、俺の日給15,000円は、一夜にして幕を閉じたのであった。


俺がY本さんに教えて貰った一ヶ月間は、水泡に帰したのだ。

そして、この日から俺とSさんは、元の東小金井貨物駅構内の作業へと戻ったのであった。


しかし、今振り返っても、このやっちゃ場仕事は、当時俺がやった仕事の中では、一番きつい仕事だった。

また、きつい分充実感もあり、楽しくもあった。

そして、その仕事をY本さんの下でやり切ったことは、当時の俺にとっては物凄い自信になったのであった。


しかし同時に、当時は気づかなかったが、多分当時の俺は、きっと物凄く残念な気持ちだったのではないかと思ったのだ。

17歳になったばかりの俺が、あれだけ一生懸命にやって覚えた仕事を、運転手の力量不足があったとは言え、たった一日で諦めなければならず、最後までやり切ることが出来なかったのだ。


自分の残念な気持ちやがっかりな気持ち、悔しさとか悲しさとか、自分一人の力だけではどうにもならない現実、そして、それに対する無力感とか、当時の俺は全く気づくことは出来なかったのだ。

それだけ一生懸命に、無我夢中にやっていたのだ。


今、『自己受容』ということを学んでいる中で、当時の俺のそういう気持ちを改めて受け止めてあげたいと思う、今の俺なのであった。


(つづく)

2020年2月 7日 (金)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (26)

(26)日給15,000円への道

1982年1月30日朝、無事Y本さんの元を卒業した俺は、Y本さんちからの帰り道に東建に寄ってN谷社長の元に行ったのだった。

N谷社長は顔をほころばせ、「良く頑張った」と俺を迎えてくれた。


そして、2月から運転手のSさんと、新たに入った運転手のN村さんの二人が交代で運転手になり、俺が助手として通しでやっちゃ場仕事をすることになったのであった。


期間はみかんの季節が終わる3月末までの二ヶ月間だけだった。


そして、この時俺は、N谷社長に耳打ちされたのだった。


やっちゃ場仕事の間は、日給を15,000円にしてやると。

そして、運転手は12,000円だから、絶対に誰にも言うなと釘を刺されたのだった。


こうして俺の給料は、入って1年経たずに、当初5,500円からスタートしたものが15,000円と約3倍近くになったのであった。


そして、この日と翌日は休みを貰い、2月1日からSさんとN村さんの運転手二人とやっちゃ場仕事をやることになったのであった。

俺はSさんに声を掛け、2月1日は15時に出発出来るように待ち合わせをしたのだった。


そして、俺はその足でトーケンに向った。

目的は、樹々のマスターでもあるYちゃんにあるお願いをするためであった。


トーケンに顔を出すと、約一ヶ月振りだったことで、まだ出発せずに残っていたみんなから声が掛かった。

しかし、俺の目的のYちゃんは既に出ていていなかった。

俺は一度帰宅し、夕方から樹々に飲みに行くことにしたのだった。


俺は帰宅し、いつも通りビールとウィスキーをストレートで飲んで、15時に目覚ましをセットして眠りに就いたのだった。


この頃は、俺が寝る10時前後は、外が煩くて酒を飲まずには眠れなかったのだ。

当時飲んでいたのは、ビールはキリンの一番搾りの大瓶と、ウィスキーはサントリーレッドのジャンボボトルだった。


15時に起きた俺は、直ぐに銭湯に行ったのだ。

一ヶ月振りの銭湯だった。

これまでの一ヶ月は、Y本さんちでのシャワーだけだったから、銭湯の湯船はことさら身に沁みたのだった。


銭湯を終えた俺は、直ぐに樹々に向った。

俺がYちゃんにお願いしようと考えていたことは、シャワーだった。

やっちゃ場仕事の間、仕事が終わった後、Yちゃん家に寄らせて貰ってシャワーを借りようと思っていたのだ。


俺は、トーケンに寄らずに真っ直ぐに樹々に行った。

17時過ぎ、俺はその日樹々の一番客で飲み始めたのだった。

そして、Yちゃんが戻る前、先にママにシャワーの相談をしたのだった。


ママは、Yちゃんが良ければ、私は良いわよと言ってくれたのだった。

18時過ぎ、Yちゃんはトーケンの仲間数人と帰って来た。


Yちゃんは、俺が先に来ていたのを見て喜んでくれた。

俺は、Yちゃんには直ぐに相談しなかった。

帰ってばかりで疲れている所で、直ぐは悪いと思ったのだ。


すると、そこへママが助け船を出してくれたのだった。

ママはYちゃんに、俺がやっちゃ場仕事の間、朝シャワーを借りたがっていることを話してくれたのだ。

Yちゃんは、快くO.Kしてくれたのだった。


俺は、これでやっちゃ場仕事に集中するための環境を整えられたのだった。

そして、この日は久し振りにみんなとしこたま飲み、久し振りの休日を堪能したのであった。


(つづく)

2020年2月 6日 (木)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (25)

(25)男の勲章

やっちゃ場の仕事に就いて一週間もすると、俺は積み込み作業にも大分慣れて来ていた。


上の段の四個持ちも出来るようになっていたし、足場作りの中指一本持ちも出来るようになっていた。

Y本さんに代わって伝票選びも任されていた。


そして、2週目に入ったある日、それまではY本さん一人が運転し、俺と弟さんの二人が助手だったのが、弟さんも自分のトラックを出して来て、二台になったのだった。


それまでの俺は、てっきり弟さんは助手専門で、兄弟でやっているものだとばかり思っていたのだが、Y本さんも弟さんもそれぞれが自分のトラックを持っていて、いつもは二人で二台のトラックを使い、役割分担をしてやっていることを知ったのだった。

俺を仕込む為にやり方を変えてくれていたのだ。


二台になってからは、始めの1回目は三人で積み込み、Y本さんと俺の二人で下ろしに行き、その間弟さんは一人で二台目の積み込みをする形になった。


その為、遠場はやらずに近場と中間距離の市場の選択に集中したのだった。


俺はY本さんと二人で下ろしに向い、帰ってくると積み込みが終わったもう一台に乗り換えて再度下ろしに向かった。

戻って来て、まだ積み込みが終わっていない時はそれを手伝い、そしてまた下ろしに向った。

それまでは一日3回だった市場への往復が、一日4~5回に増えたのだ。


普段は、このやり方で、Y本さんと弟さんの二人で役割分担してやっているとのことだった。


ある日、その日のラストが神田市場で、下ろしの作業が6時までに終わらなかった。

その時は、下ろしが終わっても、市場に入って来る人の数が多く、トラックを動かす事が出来なくなったのだ。


俺とY本さんは市場から出られない状況になった。

俺たちは諦め、トラックの中で人が引くまで仮眠するしかなかったのだった。

市場を出られたのは9時過ぎになった。


この時初めて、6時までに下ろしの作業を終わらせ、直ぐに市場を出ないと、市場は入って来る人で一杯になり、出られなくなってしまうことを思い知らされたのであった。


一ヶ月近くもすると、俺は潮留の貨物駅構内では顔になっていた。

伝票の取り合い、トラックの貨物への横付け競争など、先を争うことには負けなかった。


この仕事を始めての一番の驚きは、身体が真っ黄色になっていることだった。

毎日昼夜逆転の生活で太陽に当たらず、みかんばかり食べていたら、地黒の俺の身体が黄色になっていたのだ。


俺はこの時、みかんを食べ過ぎると黄色くなると言うのが本当だったのだと思ったのだった。


更には、この当時、俺の右腿は痣で真っ青になり、寝ている時は両手の中指がピクピクと痙攣していたのだった。


右腿が痣になるのは、みかん箱を四個持ちして走ると、右腿に箱の角が当たって、知らない内に痣になっているのだった。


俺は職業病だと思った。

そしてそれは、嫌な気分では無く、何か誇らしくもあったのだ。


身体が黄色いのも、右腿の痣も、中指の痙攣も、俺にとっては勲章みたいなものだったのだ。


俺は、Y本さんのお世話になった一ヶ月間を正月の三が日以外は無休で無事にやり抜いたのだった。

そして、Y本さんから無事卒業することとなったのであった。


(つづく)

2020年1月31日 (金)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (24)

(24)やっちゃ場

みかんを積み終えた俺たちは、まず最初の金港市場に向って出発した。

潮留の貨物駅を出て直ぐに、首都高の潮留ICから高速に乗って横羽線を横浜に向って走ったのだ。

金港市場へ向う車中で、俺はY本さんから、『青果市場』のことを業界用語では、『やっちゃ場』と言うことを教えられたのだった。


金港市場は、東神奈川ICから下りて直ぐだった。

金港市場に着くと、市場の人が5~6人居た。


下ろし方は単純だった。

トラックの荷台に長い梯子のようなローラーの端をセットして、ローラーに乗せて軽く押せば、後は傾斜で流れて行く寸法だった。


金港市場のローラーは4~50m位はある長いものだった。

ローラーの先の受け手が多かったので、Y本さんは運転席でトラックの移動のみで、俺と弟さんの二人で交互にある程度の間隔を空けながら、ローラーにみかんの箱を乗せるだけだった。


金港市場での下ろしの作業は楽勝だった。

時間にしたら1時間掛からずに終わったのだ。

下ろし終わった俺たちは、また直ぐに潮留に向った。


金港市場での帰りの車中で、他の市場には下ろす時の受け手になる市場の作業員が普通は2~3人しかいないことを教えられたのだ。

少ない所だと1人しかいないところもあるとのことだった。

金港市場のように沢山いる所は他に無いと教えられたのだった。


潮留に戻った俺たちは、二回目の積み込み作業だった。

二回目は、正確には覚えて無いが、確か茨城か栃木だった。

二回目の時間になると、車の交通量も減って来るために遠場を選ぶことを俺は教えられた。


二回目は距離で稼ぐのだ。

片道2時間前後のところだった。

積み込みと下ろしの時間を合わせて約6時間。


三回目は再度近場の市場で、6時頃にその日の作業を終えて帰路についたのだった。

Y本さんちに帰ったのは、8時位になっていた。

そして、俺が帰宅したのは、9時近くになっていた。


帰宅した俺は、あることに気づいたのだった。

それは、風呂に入れないことだった。

この時間は銭湯がやっていないのだ。


俺はY本さんに電話し、風呂の相談をしたのだった。

そして、この日から俺は、作業を終えて戻ったら、Y本さんちでシャワーを借りることになったのであった。


初日の作業を終えて俺は、積み込みも荷下ろしもコツを覚えてしまえばなんとかなると思った。

しかし、この仕事のきつさはそれだけではなかった。

時間が長かったのだ。


15時に出発して翌朝の8時か9時までなのだ。

時間にしたら、17~18時間労働なのだった。


当時の俺は気づかなかったが、今こうして振り返ってみると、1日の労働時間が17~18時間で日給1万円では、時間給にしたら、めちゃくちゃ安くなっているのだった・・・。


構内作業だと行き帰りと休憩時間を入れて約10時間で8,000円。

それがやっちゃば仕事だと18時間で10,000円・・・。

しかし、当時は、そんなに稼がせて貰える機会自体が無かったのだから、やはり感謝なのだ。


初日の作業でクタクタになった俺は、酒だけ飲んで眠りについたのだった。


(つづく)

2020年1月30日 (木)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (23)

(23)潮留

その翌日の午前中、俺は原チャリのパッソルにノーマルマフラーを取り付けた。

俺のパッソルは、直管とはいえ、マフラーをカットしたものではなく、単にマフラーを外しただけだったのだ。

エキゾーストパイプさえも付いてなかったのだ。


だから、めちゃくちゃうるさく、オイルも飛び散りっぱなしだった。

それなのに何故かスピードは1割位アップしたのだった。

マフラーを付けること自体は直ぐに終わった。


その日の14時前、俺は早目にY本さんちに向った。

静かな普通のバイクに乗るのは久しぶりだった。

更には、昼間の白バイがいる時間帯に堂々と走るのも久し振りだった。


Y本さんちには、予定より早く14:30前に到着した。

Y本さんちは2階建てアパートの1階だった。

そして、弟さんとの二人暮らしだった。


俺は部屋の中に通され、簡単な飯をご馳走になった。

俺は昼飯は食っていたのだが、これから翌朝の6時頃まで長くなるからしっかり食っておくようにと言われたのだった。


飯を食い終えた俺を連れて、俺たちはトラックの駐車場に向った。

弟さんが先にセンター席に乗り、俺が助手席に乗せられた。

そして、予定より少し早い15時前に出発したのだった。


走りながら弟さんが、行き先は潮留だと教えられた。

俺は潮留が何処か知らなかった。


この頃の俺は、集会でたまに行ったり、アンパンを買いに行っていた新宿と、以前住んでいた保谷から行った池袋しか都会は知らなかったのだ。

それも数えるほどしか行ったことがなかった。

当時の俺にとっては、新宿と池袋が大都会で、都会は吉祥寺だったのだ。


俺たちを乗せたトラックは、甲州街道を新宿に向って走った。

そして、首都高速の高井戸ICに向った。


高井戸IC入口の渋滞表示は2Kmだった。

Y本さんは、迷い無く首都高速に乗ったのだった。

そして、教えられたのだ。


渋滞表示が3Km以内なら、首都高に乗った方が速いと。

5Km以上の時は、乗ったらダメだと。

5Km以上の時は、下道の方が速いと。


問題は4Kmの時だと。

4Kmの時は、それまで走って来た時の交通量を考えてのカンだと。


到着目標は16時だった。

その日は16時に余裕で間に合った。

潮留の貨物駅構内は、東小金井より遥に広かった。

到着すると、俺はY本さんに連れられ貨物駅の日通の事務所に連れて行かれた。


その日は俺たちが一番乗りだった。

Y本さんは、これから入って来る貨物の配送先の伝票に目を通していた。

そして、神奈川の金港市場をまずは選んだのだった。


少しすると続々と他の運転手たちが集まって来た。

配送先を選ぶのは早いもの順だった。


俺はY本さんに教えられた。

全て距離と運賃が違うから、最初に割の良いものを選ばないと、その後が苦しくなると。

だから、遅刻は厳禁だったのだ。


Y本さんの選んだ金港市場は、距離が近い割に運賃が高く、更には荷下ろしの手伝いが沢山いて仕事が早く済むと教えられたのだ。

そして、金港市場が取れる時は真っ先に取るようにと教えられたのだった。


貨物はまだ来ていなかった。

貨物が来るまでは休憩だった。


17時になると貨物が入って来た。

まずは、伝票番号の貨物を探すことだった。

俺と弟さんは、徐行で走っている貨物を二人で走りながら自分たちの貨物を探した。


貨物は、車両に書かれている貨物番号で探すのだった。

後ろから、Y本さんが運転するトラックがある程度の距離を空けて徐行で付いて来ていた。

そして、貨物を発見して伝票と貨物の扉に付いている積荷の内容書きを確認し、積み荷に間違いないかを確認した。


弟さんが停車した貨物の扉を開け、合図を送ると、Y本さんは直ぐにトラックを横着けにしたのだった。

横着けの仕方は、運転席側を貨物側に付け、トラックのケツが扉の端に合わせる形だった。


この時、貨物に付けるのは出来る限り運転席側にするように教えられたのだった。

運転席側だと積んだ後そのまま出口に向えるが、逆だと遠回りしないといけないことを教えられたのだった。


そして、このトラックの横付けも早い者勝ちだと教えられた。

貨物の長さよりトラックの方が約1.5倍長いのだ。

先に横付けされ、自分たちの荷が下ろせなくなった場合は、先に着けたトラックが終わるまで待たないといけないのだ。

その分時間ロスになることを教えられたのだった。


ここでのルールは常に早い者勝ちだった。


俺は横着けしたトラックの荷台に上がった。

これから始まる新しい仕事に俺はワクワクした。

積み荷の貨物からの下ろし方は、弟さんが丁寧に教えてくれた。


貨物の中には、15kg入りのみかん箱が7段積みで936個積まれていた。


その7段で積まれている936個のみかん箱を、トラックには6段で6列で36個。

これを最前列からケツまで26列に積み替えるのだった。


やり方は、トラックの方にまず2段積みの足場を作り、その上に4段乗せるのだった。

まず俺は、足場作りをやらされた。


まず、最初の1列の7個で3個半の足場を作った。

すると弟さんは、7段積みの上4個を腰の高さから持ち、走って最前列まで行き2段の足の上に乗せたのだった。


俺は、下3段の内、上の2段を持って足場を作った。

弟さんは次の列の上4段を持って、また走った。


俺が最下段の1個に手を伸ばすと、それは持たず、次の3段の上2段を持っていくように言われたのだった。


すると、今度はY本さんが残った最下段の2個を左右の手の中指に1個ずつぶら下げる形で持って走ったのだった。

俺は、驚いた。

そういう持ち方があるのかと。


その一連のやり方を見た後、俺は4段持ちにチャレンジした。

重さ的には、60kgなら全然問題ないと思った。

しかし、甘かった。


重さは問題ないのだが、4段目の一番上は自分の頭の上に出て、走ろうとすると頭の上から後ろに落としてしまったのだった。

Yさん兄弟は思った通りという顔だった。


そして、最下段の中指にぶら下げる持ち方にも挑戦した。

しかし、これは丸っきりダメだった。


人差し指と中指の2本なら持てるのだが、中指1本で15kgを持つことは出来なかったのだ。

俺はめちゃくちゃ悔しかった。


Y本さん兄弟からは、その内出来るようになると励まされた。

そして、この日の俺の役割は、弟さんが上の4段を取った後の下2段分となった。

そして、Y本さんが最下段分となった。


開始から1時間程度で全て積み終わった。

そして、トラックを移動して貨物から離し、ロープで固定してシートを掛けるのだった。


更にその時、俺は弟さんから、最上段の1箱から1個ずつみかんを抜き取ることを教えられたのだ。
1箱から1個でも、直ぐに3~40個になった。


そして、抜く時は、『秀』のLかLLが一番良いと教えられたのだった。

この日の金港市場のものは、『秀』のLLだった。


それが夜間の俺たちの水分補給になるのだった。

この当時は、まだペットボトルなどは無かったのだった。


(つづく)

2020年1月29日 (水)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (22)

(22)ピンチの後にチャンスあり?!

2週間の留置場生活から釈放された俺に待っていたのは、更なるピンチだった。

24日のクリスマス・イブの翌25日は給料日だった。

給料は20日締めの25日払いで現金払いだった。


給料を受け取った俺は事務所を出て中を確認した。

そして、俺はあまりの少なさに驚いたのだった。

日給が上がっていたとはいえ、年末だと言うのに、給料はいつもの半分位しかなかったのだ。

パクられて休んでいた分、給料が少なかったのだ。


俺は、思った。


「これじゃあ、罰金払ったのと変わんねーじゃねーかよぉ・・・」


この頃の俺は、寝床と樹々は毎晩ツケで飲んでいたのだった。

そして、給料日はツケの支払日だった。

俺の給料は、家賃と公共料金と昼飯代以外は、ほとんど全て飲み代で消えていたのだった。


そんな状況の俺にとって、2週間の休みはでかかったのだ。

俺たちにボーナスなんて洒落たものは無かった。


ツケが払えないどころか、年を越す金も無かった。

俺には、貯金なんていうものは、1円も無かったのだ。


俺は事務所にUターンした。

そして、N谷社長に10万の前借をお願いしたのだった。

俺は、前借をお願いしたのは初めてだった。


N谷社長は、それを見越していたようだった。

あっさりと前借を了承してくれたのだ。


俺はその日、無事寝床と樹々のツケを全て払った。

そして、またツケで飲んだのだった。


俺の手元には、家賃と公共料金分を除くと5万も残っていなかった。


その翌日のことだった。

年末ということで、いつもは米やビールが沢山積まれていた場所は、全てが運び終わり外壁の無い屋根だけの倉庫には、普段は見掛けない11t車が何台も並んでいた。

中には、そのトラックのタイヤ交換をしている人も居た。


俺はN谷社長に呼ばれた。

そして、教えられたのだった。


東建とトーケンには、それぞれN谷社長とS社長がいるが、その上にオーナーで会長のM本さんと言う人がいることを。

そして、M本さんの元には、個人でトラックの持ち込みで直接仕事を受けてやっている人たちが何人も別に居ることを教えられたのだ。


そして、その人たちは、一人一人が社長だと教えられたのだ。

言うなれば、個人タクシーのトラック版みたいなものだった。


そして、この人たちは、12月~3月までの4ヶ月で一年分稼ぐと教えられたのだ。

俺は、たった4ヶ月で一年分を稼ぐと聞かされ、驚き、そして良いなぁと思った。

N谷社長は、俺に言ったのだった。


「この仕事をこれから1ヶ月でお前に覚えて貰いたい」

「その後は、Sと年明けにもう一人入って来る新しいドライバーの二人を使ってやって貰いたい」


俺は聞いた。


「どういう仕事なんですか?」


仕事内容は、潮留の貨物駅から関東各地の野菜市場へみかんを運ぶ仕事だと教えられた。

そして、運び先が市場だから、仕事時間は夕方から朝までになり、昼夜が逆転する仕事だと言った。

更には、めちゃくちゃきつい仕事だと言われた。

米よりも遥にきついと言われた。


俺は考えた。


そして、N谷社長は更に言ったのだった。

これまでうちでもやりたい仕事だったのだが、誰も出来る奴が居なかったと。


その言葉で、俺は燃えた。

俺は、誰もやったことが無いとか、誰にも出来ないとか言われると、無性に闘志を燃やすタイプなのだった。

そして、言った。


「やります!」


N谷社長は喜んでくれた。

そして、タイヤ交換をしていた人の所へ連れていかれ紹介されたのだった。


紹介された人は、N谷社長とあまり歳は変わらない様に見えた。

40代後半位に見えた。

その人はY本さんと言った。

そして、翌日から15時にY本さんの自宅に来るように言われたのだった。

住所と電話番号を書いた小さな紙を手渡された。

住所は、東小金井から10分位先の所だった。


俺は挨拶をし、N谷社長と共にその場を離れた。

そして、N谷社長に言われたのだ。


「明日から給料は、日給1万円にしてやる」


俺は言った。


「マジですかー!」


そして、喜んだ。

前借分もこれでなんとかなると思ったのだった。

そして、一つだけ注意されたのだった。


「Y本さんちは個人の家だから、うるさいバイクで行くな」

「バイクの音をなんとかしろ」


俺は了解した。

そして、その日は翌日に備え、俺は飲まずに真っ直ぐ帰ったのだった。


(つづく)

2020年1月28日 (火)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (21)

(21)出所祝い

釈放された俺の頭の中は、Y崎さんを半殺しにすることしか考えていなかった。

時間的には、まだ16時前でみんな仕事場にいると思った。


俺は、小金井署を出てから武蔵小金井の駅まで走った。

そして、武蔵小金井駅から東小金井駅まで電車で行った。


東小金井駅に着いて、俺はまず駅前の交番に行った。

すると、年配の警官が俺の顔を見て言ったのだ。


「おー、やっと出て来たか!良かったな!」

「しかし、派手にやってくれたもんだよ!」


俺は、ぺこりと頭を下げて聞いた。


「あの若い人は?」

「お前にやられた彼か?」


「はい」


「あいつは、お前に一方的にやられたから、自信失くしてさ、移動になったよ」


検事が言っていたことと同じだった。


「そうだったんですか・・・」

「もし、会うことがあったら、俺が謝ってたって伝えて下さい」


俺は、そう言って交番を後にしたのだった。


そして、貨物駅の構内に入って行った。


構内では、まだ米下ろしの作業を行っていた。

俺が歩いて近づいて行くと、後輩のM田とK村が俺を見つけ走り寄って来て言った。


「先輩、大丈夫だったですか?!」


「あぁ、なんとかな」


俺は大人たち一人一人に留守にしたことを詫びた。


パクられた時一緒だったSさんは、凄く心配してくれていた。

俺が居なくて大変だったと言ってくれた。


俺は、事務所にいるN谷社長の所に行った。

N谷社長に詫びると、N谷社長は笑いながら頭に軽い拳骨を一発くれた。


みんなに詫びている内に俺のY崎さんへの怒りは少し和らいでいた。

N谷社長への挨拶を終えた俺は、トーケンに向って歩き出した。

トーケンに向いながら、またY崎さんへの怒りがふつふつと湧き上がって来たのだった。


トーケンの控室の扉を俺が開けると、中はいつも通りで、既にみんなは飲んでいた。

そして、俺の顔を見るなり、みんなが歓声を上げたのだった。


みんな、良かった良かったと言い、俺はもみくちゃにされた。

そして、ビールを注がれて俺は飲んだ。


すると、ソファに腰かけていたY崎さんの顔が目に入った。

Y崎さんは、ニタニタ笑っていた。


その顔を見た俺は言った。


「Y崎さん!何であんたが先に出てんだよ!!」


Y崎さんは言った。


「しょうがないだろ、そうなっちゃったんだから」


俺は、続けて言った。


「あんたが石さえ投げなければこんなことにはならなかったんだよ!」


「しょうがないだろ、投げちゃったんだから」


「じゃあ、なんで先に出たこと教えに来てくれねーんだよ!」


「しょうがないだろ、警察に来るなって言われたんだから」


俺は、Y崎さんのしょうがないだろう攻撃に反論出来なかった。

歯がみするしかなかった。

そして俺は言ったのだ。


「俺はなぁ、あんたを守ろうと思って、自分のやったことしか言わなかったんだぞ!」

「あんたが石を投げたことは言わなかったんだぞ!!」

「それで俺は長引いたんだぞ!!」


Y崎さんは言った


「それは、悪かったって、謝るよ」


そして、続けて笑いながら言ったのだ。


「しかし、お前もバカだよなぁ・・・」

「お前は、正直過ぎるんだよ」

「俺のことを守ろうとすることなんかなかったんだよ」

「でも、お前が仲間思いな奴だってことは分かったんだからさ、それで良いじゃない」


俺はY崎さんにビールを注がれ、それを飲むしかなかった。

俺のY崎さんへの怒りはこうして収めるしかなかったのだった。

そして、この年のクリスマス・イブは、みんなで俺の出所祝いとなったのであった。


(つづく)

2020年1月17日 (金)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (20)

(20)怒りの矛先

釈放が決まったことで、俺は取りあえず、留置場での年越しを逃れたことに安堵したのだった。

しかし、帰りの護送車の中で冷静に考えていると、そもそもの原因を作ったのはY崎さんであることに俺は気づいたのだった。


そして、その当の本人は、留置場はたった一泊しかせずに出ているのだ。

Y崎さんにパクられてから一度も会わなかった理由がやっと分かったのだった。


そのY崎さんを、俺は必死に守ろうとしていたのだ。


俺は、自分のバカさ加減に呆れるしかなかった。

しかし、そのバカさが無くなったら、俺は俺でなくなるとも思ったのだった。


次第に俺の腸は煮えくりかえって来たのだった。


「Y崎さんが石さえ投げなければこんなことにはならなかったのに・・・」

「なんであいつだけ先に出てんだよ?!」

「先に出ているなら出ているで、言いに来てくれたって良いじゃねーか!」

「なんであいつは、それを教えに来なかったんだ?!」

「差し入れの一つくらい持って来てくれたって良いーじゃねぇかよ!」


俺の怒りの矛先は、完全にY崎さんに向いたのだった。


「あいつ、ぜってーぶっ殺してやる!!」


俺がこれまで寒さをひたすら耐えながら守ろうとして来たY崎さんは、今度は俺の標的になったのだった。

そして、小金井署に戻った俺は、その日の夕方釈放されたのだった。


(つづく)

2020年1月16日 (木)

俺の道 ~自立編Ⅰ~ (19)

(19)まさかのまさか

24日の朝、俺は何とか地検送致者に入った。

そして、以前と同じように護送車で地検に運ばれた。


俺は、何としても検事に俺の主張を認めさせるしか出る方法が無いと思っていたのだった。


俺の順番が来た。

検事は、以前と同じ奴だった。

そして、俺はいきなり言われたのだった。


「認める気になったか?」


俺は言った。


「やってもいねーこと、認める訳ねーだろ!」

「顔面にチョーパンを入れたことと、腹に蹴りを5~6発入れたことは認めるけど、それ以外は認めない!」


そして、俺は気になっていたことを聞いた。


「ところで、Y崎さんは、どうなりました?」


そして、検事は驚くべきことを言ったのだった。


「あぁ、あいつは罰金を払って、とっくに出てるよ」


「えーーーーーーーーーーーーーーーー!?」


俺は更に聞いた。


「いつですか?」


検事は、確認して俺に言った。


「12月12日だな」


俺たちがパクられた、翌々日だった。

俺が最初に地検に送致された前日だった。

俺は更に驚いた。


「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」


「なんで?????」

「なんで、Y崎さんだけ先に出てるんですか?!」


検事は言ったのだった。


「あれ?言ってなかったっけ?」


「聞いてないですよー!」


「彼は、最初から全部認めたから、罰金払って出たんだよ」


俺は意味が分からなかった。


「罰金ってなんですか?」

「罰金払えば出られるんですか?」


検事は言った。


「そうだよ」

「彼は初犯で成人だから、罪を認めたら、後は罰金でいいんだよ」


「罰金ていくらですか?」


検事は確認して言ったのだった。


「彼は、20万だ」


「20万?」


「そうだよ」


「俺は?」


「君は未成年だから、罰金はない?」


「へ?」

「どういうことですか?」


「だから、認めれば罰金なしで出られるんだよ」


「えっ?!どういうことですか??」


俺は検事が言っている意味がさっぱり理解できなかったのだ。

検事は俺に説明したのだった。


まず、俺たちの罪は、『公務執行妨害』だった。

俺は、てっきり暴行傷害だと思っていたのだ。


そして、『公務執行妨害』については、誰が石を投げたとか、何発殴って何発蹴ったのかとかは関係ないことを説明されたのだった。

要は、警官に逆らって暴力行為を行ったこと自体が犯罪だったのだ。


俺は聞いたのだった。


「じゃあ、なんで俺は2週間も入れられてたんですか?」


検事は言った。


「認めないからだよ」


「認めたじゃないですか!」

「チョーパンを入れたことと、5~6発の蹴りを入れたことは!」


「そうだな」

「でも、警官側の調書を認めなかっただろ?」

「だから、私は言ったんだよ」

「素面の警官と、酒に酔っていた君のどちらの言い分を周りは信じるのかと」


「そんなんじゃ、わかんねーよ!」

「俺はてっきり、俺が下手なこと言ったら、Y崎さんが不利になるんじゃないかと思って・・・」


俺は、内心歯がみした。

そして、思った。


「俺は何のために頑張っていたんだ?」

「俺のこの2週間は、一体何だったんだ??」


検事は言ったのだった。


「もう少し大人になれ」

「わかったか?」


俺は、めちゃくちゃ悔しかった。

大人になるってどういうことなんだ?

俺には解らなかった。

しかし、頷くしかなかった。


俺は、警官側の調書に署名し拇印を押したのだった。

そして、この日の釈放が決まったのだった。

そして、俺は最後に検事に言われたのだ。


「お前の相手だった警官を恨むなよ」

「彼は、お前にやられて自信を失くして移動になったから、交番に行ってもいないからな」


俺は聞いた。


「俺がやった警官は、駅前の交番の人だったんですか?」


「そうだよ」


俺は、自分がやった警官の顔なんか憶えていなかったのだ。

駅前の交番の警官は、特に仲が良かった訳ではないが、毎日のように顔を合わせていたから良く知っていたのだ。

俺は、それなら逆に悪かったなと思ったのだった。


(つづく)

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