俺の道 30代編

2020年1月27日 (月)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (7) <最終回>

(7)潜在意識と平常心

俺は、比較的感性が鋭いというか、敏感というか、何と言ったら良いのかは分からないが、直感だったり、閃きだったり、インスピレーションだったり、夢だったり・・・。

これまでに様々な形ではあったが、そういうもので数多くのピンチを乗り越えたり、あるいは危機から救われたり、チャンスを掴んだりして来ていた。


年末のホールインワンで絶頂感を感じ、そして年が明けての阪神・淡路大震災で、プラス2,400万円の予定が一転して、マイナスの2,850万になった。


そして、この年は、詳細は省くが、この後も色々とピンチが続いたのだった。

正に、年末のホールインワンが、翌年1年分の運を使い切ってしまったような感じだったのだ。


しかし、この出来事で、俺はY部長とのパイプが太くなり、その翌年から本格的に『不良債権物件』の世界に入って行くことになったのだ。


そして、俺の売上は徐々に拡大していき、取り扱う金額も更に大きな額になり、色々なピンチとチャンスを繰り返し、山あり谷ありの人生を送って来た。


『不良債権』の世界は、普通の人はあまり馴染みの無い世界だから、面白い話しは沢山あるのだが、それはまた別の機会にする。


ただ、俺はこれまでの自分の人生55年の中で、独立半年後に起きたホールインワン。

そして、阪神・淡路大震災による解約で発生したピンチ。

更には、それを乗り越えるために与えられた閃き。


これらは、決して忘れられない出来事なのであった。

そして、これらは全てが繋がっていたのだと、今では思っているのだ。


そして、それらを引き起こした運命みたいなものは、全て俺の潜在意識が引き起こしたものなのではないかと思っているのだ。


俺の場合、これまでの人生経験において、潜在意識の力でピンチを凌いだり、危機を回避したり、チャンスを掴んだりして、その都度、『絶頂感』を感じて来た。


この『絶頂感』というものは、単なる喜びでは無く、『何かに守られているような優越感』だったり、『自分が優れた人間であるような錯覚を生み出す傲慢』のようなものだったと、今では思える。


そして、『絶頂感』を感じてしまうと、必ずその直後に俺は大ピンチに襲われて来たのだ。


そう考えると、俺は『絶頂感』を感じてはいけないと思うのだ。

良い時も悪い時も、如何に平常心を保つのか。


この『平常心』という言葉。

俺が、剣道の稽古の時に頭に巻く手拭に書かれている言葉なのだ。


普段は何も考えずに、ただ見ているだけだったのだが、このブログを書いていて、改めてその重要性に気づかされたのであった。


俺の今年のテーマ。


『上善は水の如し』


『我以外皆我師也』


そう考えると、これらはきっと、どんなことがあっても『平常心』を保つために必要な心構えなのではないかと思えて来たのであった。


そういう思いが湧きあがって来たということは、きっと遠くない将来に、これまでの俺だったら絶頂感を感じてしまう様な出来事が待っているのかも知れないと、独り勝手に思う俺なのであった。


俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ 『完』

2020年1月26日 (日)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (6)

(6)閃き

2月に入り、俺の苦悩の日は続いていた。

何か手があるはずだ・・・。

俺は考え続けていた。


2月も半ばになり、考えられるあらゆる手を尽くしたのだが、何とかなる兆しは全く見えて来なかった。

俺は半ば諦めかけ、顧客30人以上に土下座してでも、何とかするしかないかと考え始めていた。


そんなある日、俺はある閃きを得たのだった。


TP社はC生命保険の孫会社なのだ。

TP社のY部長が一番喜ぶのは、生命保険に入ってあげることなんじゃないのか?


俺は考えた。


ダメ元で、まずは生命保険に入ってやれ。

それも大口で。


中途半端な金額では意味が無いと思った。


それから先は、その後考えよう。

俺はそう決めたのだった。


俺は早速TP社のY部長に連絡して、生命保険に入りたいのだがどうしたら良いかと相談した。

金額を聞かれ、俺は3億と答えたのだった。

内訳は、俺が2億で社員分が1億と。


電話口のY部長は、金額を聞いて驚いた様子だった。

そして、どうするか決めて返答するとのことになったのだった。


翌日Y部長から連絡が来て、C生命保険のナンバー1セールスが担当になると言って来た。

そして、俺の元へ送りこまれて来たのは、東海本部の名古屋から来た40代の女性だった。


C生命保険は、中部地方が本拠地だったのだ。

トヨタ、東海銀行に並ぶ中部地方の企業だった。


俺は会社を受取人として、俺の分で個人としては上限の2億、そして社員分として1億の計3億の契約を即日で結んだのだった。


後は、運を天に任せるだけだった。

俺は待った。


そして、2月28日、Y部長からお礼の連絡が来たのだった。


俺は知らなかったのだが、生命保険会社の2月は、年度末の営業強化月間だったらしい。

その為、俺の話しはY部長からTP社のO社長、O社長からC生命保険の重役、そして営業本部長と、トップダウンで伝わったのだった。


そして、俺を担当した女性セールスは、全国一位になったとのことだった。

更には、営業本部長が東京に来た時に挨拶をしたいから来社して欲しいとのことだったのだ。


そして、それらの保険加入に対する一通りの謝辞が終わった後、Y部長はおもむろに言ったのだった。


「ところで、この前言ってた代官山の物件、あれどうなった?」


遂に来たのだった。

俺はこの言葉を待っていたのだ。


「実は・・・」


俺は、正直に状況を説明した。

そして、Y部長は言ったのだった。


「融資してあげようか?」


俺は、即座に答えた。


「ありがとうございます!」


この後直ぐ、俺はY部長の元へと馳せ参じたのであった。

そして、代官山の購入代金、3,000万円の融資を取り付け、無事難局を逃れたのであった。


後日談になるが、俺の加入した保険額は、C生命保険の社内では、かなりの大口だったらしく、三人分の沖縄旅行のプレゼントがあったのだ。


そして俺は、この旅行券をY部長にプレゼントし、Y部長、O社長、東海本部長の三人が沖縄旅行を楽しんで来たのであった。


(つづく)

2020年1月25日 (土)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (5)

(5)天国から地獄

年が明けて俺がまずしたことは、ゴルファー保険の請求手続きだった。

そして、年末に持ち込んだ住宅ローンの審査を待って、審査が通り次第決済の段取りの予定だった。

住宅ローンの審査は、持ち込む前に事前審査で内定は取っていたので、心配はしていなかった。


1月末までには粗利で2,400万円、純利で約2,000万円が入る予定だった。

そして、住宅ローンの審査が下り、決済日の設定をしようとしていた時だった。

1月17日、阪神・淡路大震災が起きたのだった。


テレビで見た映像は衝撃的なものだった。

俺は、まずいと思った。


それまでにもマンションに対する地震のリスクには、それなりの営業トークで対応して来てはいた。

しかし、阪神・淡路大震災は、これまでにない規模の地震だったのだ。

業者間でも地震保険がどのような対応になるのか、正直なところ誰もわからない状況だった。


俺は、決済日を設定する為に顧客の二人とアポイントを取って面談したのだった。

案の定、契約していた二人の顧客からは、地震保険の行方がハッキリするまで、見合わせて欲しいと決済延期の申し入れをされたのだった。


キャンセルではなかったが、決済の延期は期日を特定出来なければ解約と同じだった。

本来は、住宅ローンの審査も終了し、物件引き渡し日も1月末日までとしていたので、買主理由の解約の場合は手付金放棄での解約となるのだ。


しかし、それをやってしまっては、その後が続かなくなることから、俺は手付金を全額返金し、解約の申し入れを受け入れたのだった。


当時の俺は、顧客を『エンドユーザー』ではなく、『エンドレスユーザー』という考え方をしていたのだ。

顧客になった人からは、必ず最低一人の紹介を貰っていたのだ。

それも、ワンルームマンションに興味がある人ではなく、一番の親友を紹介して貰うやり方だった。


当時の俺は、『買って頂いてありがとう』は当たり前だが、『買わせて頂いてありがとう』と言って貰える営業を心掛けていたのだ。

その為には、まず俺が顧客を大好きになることが重要だった。

そして、その為のポイントが、親友を紹介して貰うというやり方であったのだ。


更には、そういう人に紹介する物件は、相場より安い価格で提供しようと考えていたのだ。

この代官山のマンションも当時の相場としては、一戸3,000万円は下らない物件だったのだ。

それを俺は、一割以上安い2,700万円に設定したのだ。


この代官山のワンルームマンションは、最初は一戸2,200万円で売りに出て来た物件だった。

それを2戸同時購入を条件に、一戸当たり1,500万円まで叩いて購入したのだ。

それが出来たのは、この物件が『不良債権物件』だったからだ。


顧客に手付金を全額返金し、一旦解約することを決断した時の俺の心境は、『客を殺すか、俺が死ぬか二つに一つ』というものだった。

そして、俺が下した決断は、『客を殺すくらいなら、俺が死んでやる』というものだったのだ。


解約を受け入れたことで、俺の立場は、粗利2,400万円の入金予定から、一転して2,850万円の支払いをどうするかになった。

最終決済日は、3月15日だった。


俺は、それまでに他の見込み客に転売するか、さもなくば、2,850万円を用意しなければならなくなったのだった。


俺は、まず次に控えていた見込み客の全てに当たった。

しかし、阪神・淡路大震災の影響はあまりにも大きく、全ての見込み客は状況を見極めたいという現状だった。


この時点で、俺は覚悟を決めたのだった。

最悪は、俺の顧客30人から、一人100万円ずつでも、全員に土下座をしてでも融資を依頼して、三千万をかき集めるしかないと決めたのだった。


そして、それを行う為の時間は、一日三人として10日間必要だと考えた。

3月3日までに目途が立たなければ、そうするしかないと決めたのだった。


この時、最悪は150万円の手付金を放棄しての解約も可能だったのだが、俺の頭にはその選択肢は無かった。


俺が1,000万円以上も叩いて買った物件を、手付金を放棄しての解約というみっともない真似は、命に代えても出来ないことだったのだ。


当時はバブルが崩壊し、世間は住専問題で揺れていて、勢いのある不動産業者はほとんどいなかったのだ。

俺の代わりに、一時的に抱いて貰えるような業者も俺の周りにはいなかった。


そんな状況の中、独り即断即決で俺は対応し、取引業者から信用を得て来ていたのだ。

手付金放棄での解約などということは、俺のプライドが絶対に許さないことだった。


ましてや、これから食い込んで行こうと考えていた、宝の山の『整理回収機構』の物件だったのだ。

一度でもそんなことをしたら、二度と入って行くチャンスは無いと思ったのだった。


現状の見込み客への売却が困難なことを確認した上で、俺がまず最初に当たったのは、年末に大森の物件で融資を受けたTP社のY部長だった。


しかし、Y部長からは大森の物件で融資を受ける時に、次はこの大森の売却が終わってからだと言われていたので、可能性はかなり低いと思っていた。


ダメで元々だった。

俺は、TP社へ訪問しY部長に相談したのだが、あっさりと断られたのだった。


次に打った手は、俺の会社へ出入りし、フルコミッションの様な形で動いていた仲間への売却依頼だった。

当時俺の会社では、正社員は雇っていなかったが、複数の大手マンション販売会社の社員で成績優秀な奴等を何人か囲っていたのだ。


大手販売会社の社員は、数字を上げてもボーナス査定に多少の影響をするだけで、基本が固定給のため、ノルマを達成している時は、手持ちの客に裏のバイトで販売したがるのだ。

昨年話題になった闇営業みたいなものだ。


不動産業界というものは、そもそもがアウトソーシングの世界で、全て手数料で動く一匹狼的人材が多いのだ。

俺の事務所には、そういう輩が数人いつも集まって来ていたのだ。


俺は、その仲間たちにも報酬を上乗せして売却依頼をしたのだが、マンション販売最大手のD京のトップセールスでさえも、阪神・淡路大震災の影響にはお手上げ状態だったのだ。


2月に入り、俺に残された時間は1ヶ月を切ったのだった。

俺はあらゆる手を考えて行動したのだが、正攻法ではどうにもならなかったのだ。

俺の苦悩の日は続いたのだった。


(つづく)

2020年1月24日 (金)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (4)

(4)絶好調!?

話しは少し横道に逸れるが、俺がゴルフを始めたのは、当時丸ビルに入っていたゴルフショップの社長にマンションを買って貰ったのがきっかけだった。


俺はまだ雇われだった頃、ゴルフをしたことも無いのに、当時の上司であった専務の命令で、200万円の会員権を買わされたのだった。


当時は、今では考えられない様なパワハラが当たり前の世界だったのだ。

買わされた会員権は、当時詐欺事件となった茨城カントリークラブの会員権だった。


そして、当時はまだゴルフをやったこともないのに、今度は会社の住宅ローンの提携先との付き合いで、ゴルファー保険に入らされたのだった。


当時は、まだゴルフは金持ちのやることで、将来自分も出来るようになったら良いなと軽く考えていた程度で、俺はまだやったことはなかったのだった。

そんなゴルフをやったことのない俺が、ゴルフ会員権を買わされ、更にはゴルファー保険にまで入らされたのであった。


俺は、その話しをゴルフショップの社長に多少愚痴っぽく話したのだった。

するとその社長は言ったのだった。


「それじゃあ、あとはクラブを買ってやるしかないだろ」

「俺が教えてやるから」


俺はそう言われ、当時流行っていたプロギアの一番高いフルセットを買わされてしまったのだった。

そして俺は、やむなくゴルフを始めることとなったのだった。


クラブを買わされた俺は、その後その社長が教えてくれるといい、連れて行かれたのは、今はもう無い芝公園の練習場だった。

そして、最初に教えてくれたのは、打ち方ではなく、カッコ良いバッグの担ぎ方だったのだ。


当時、芝公園の練習場は、日中キャバ嬢で一杯だったのだ。

その社長曰く、芝公園の練習場は、キャバ嬢をナンパするのに持って来いの場所だというのだった。

俺はそれ以来、その社長にゴルフを教わることは止めたのだった。


なにはともあれ、俺がゴルフを始めるまでの流れは、普通の人とは全く逆の流れだったのだ。

しかし、思いがけずに無理矢理入らされたゴルファー保険が、この時のホールインワンで活きたのだ。

なんと、ホールインワンで50万の保険金が入って来るのだった。


俺が独立した平成6年の12月は、代官山のマンションの販売契約も2戸とも終え、更にはホールインワンと良いことづくめで幕を閉じたのであった。


しかし、あまりにも年末に迫ってのホールインワンは、何か翌年の運気を使ってしまったような気がして、嫌な予感もしていたのであった。


(つづく)

2020年1月23日 (木)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (3)

(3)まさかの?!

この当時の俺は、月に2~3回のペースでゴルフをしていた。

ゴルフは、顧客に新規顧客を紹介して貰うのが目的だった。


当時の俺は、二子玉川にあった日本で最初の会員制スポーツクラブの『スポーツコネクション』と、成城にあった、『成城グリーンプラザ』のゴルフ練習場へ一日おきに通っていた。

そして、その合間に月2~3回のゴルフという生活だった。


平成6年12月29日、この年最後のゴルフだったのだ。

場所は、千葉県成田市の『ザ・プリビレッジG.C』というコースだった。


現在は、『グリッサンドG.C』と名称が変わっているようだ。


『ザ・プリビレッジG.C』は、平成3年に新設された新しいゴルフ場で、会員権の販売価格が約8千万という超高級ゴルフクラブだったのだ。


当時は有名な一部上場の食品会社の社長が理事長を務め、通常は会員の同伴のみで、キャディはほとんどが20代前半の女性という、千葉ではかなりの超高級なコースだった。

実際、俺が周ったことのあるゴルフクラブの中では、クラブハウスは郡を抜いて断トツで高級感のある造りだった。


クラブハウス内にあるBARが、当時のオーナーの肝煎りで、クラッシックに統一された調度品は、全てが一流品だった。

特に、BARカウンターの天板は、特殊な樹の一枚板で海外から空輸されたもので、1億円以上だと聞かされていた。


このゴルフクラブは会員の同伴のみだったのだが、ゴルフクラブのオーナーが、俺が借りた代官山のマンションのオーナーでもあり、俺は会員権を持ってはいなかったのだが、平日は会員の同伴が無くても利用させて貰えていたのだった。


この日は、日立製作所の管理職のM氏と紹介客の三人でのプレーだった。

当時のプレーフィーは、平日でも一人5万円を超えていた。

今では考えられないような値段だが、当時はそれでも安いと思っていたのだ。


この日のキャディは、23歳と若くて明るい、化粧っ気のない可愛い子だった。

聞くと、冬の間だけ北海道から出稼ぎに来ているとのことだった。

夏場は北海道でキャディをやり、冬場はこっちでキャディをしているとのことだったのだ。


俺たちはINスタートだった。

そして、前半のラスト3ホールとなる16番ホールで事件は起きてしまったのだった。


その日のティは、バックティだった。

174ydのPar3だった。

俺はM氏の後の二番目だった。


グリーンは逆光で光っていて、旗の先端が僅かに見えるだけで、グリーン面は全く見えなかった。

俺は4番アイアンで軽く打ったのだが、球はピンに向って真っ直ぐの良い感じだった。


すると、グリーン奥で俺たちが打ち終わるのを待っていた前の組の人たちが大騒ぎで拍手してくれたのだった。

俺は、かなり近くに寄ったのではないかと思い、次の人に打席を譲った。

そして、俺の後の紹介客が打ち終わり、俺たち三人は話しながら歩いてグリーンに向ったのだった。


すると、グリーン上に集まった前の組の人たちがプレーを開始しないで、俺たちが来るのを待っている感じだったのだ。

俺たち三人は顔を見合わせ、グリーンに向って小走りで走った。


そして、グリーンまで行くと、前の組の人たちが俺を拍手で迎えてくれ、俺はホールインワンだったことを、その時初めて知ったのだった。

グリーン上が逆光だった為に全く見えず、音も聞こえなかった為にまさか入っているとは思いもよらなかったのだ。


前の組の人に聞くと、転がって入ったのでは無く、『ポン、ポン、ポン』で入ったとのことだった。

そして、前半を終えレストランに行くと、前の組の人たちが再び拍手で迎えてくれ、俺は前の組の4人にビールを振る舞ったのだった。


昼食時に散々飲んだ俺たちの後半のプレーは酷いものだった。

この当時の俺は、ゴルフは好きだったが、あくまで趣味兼仕事だった為、飲みがメインになり、スコアの方は90台が良いとこだったのだ。


この日のプレーを終えた俺は、精算時にフロントで、キャディーにホールインワンのチップとして5万円の現金と名刺を置いて帰路についたのだった。


そして、このホールインワンで気を良くした俺は、二人を連れて六本木へと向ったのであった。


(つづく)

2020年1月20日 (月)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (2)

(2)株式会社ジェイ・ディー

6月に個人で事務所を構え創業した俺は、8月下旬に株式会社としての登記をしたのであった。

会社名を『株式会社ジェイ・ディー』とした。

ジェイ・ディーは、『Japanese Dream』の頭文字から取ったものだった。


当時の株式会社の最低資本金額は、今とは違い1千万円だった。

当時の俺は、1千万円を寝かせる金銭的余裕は全く無かった。


俺は、当初俺のスポンサーになってくれると言っていたO社長に、登記の間だけ一時的に一千万円を借り、登記完了後に直ぐに返済したのだった。

いわゆる、登記の為の見せ金だ。

そのため、会社の決算的には、実質マイナス1千万からのスタートだった。


この株式会社ジェイ・ディーは、俺自身の独立としては、初めての会社だった。

しかし、俺はその前に、企業内起業みたいな形で、『有限会社ヒューマンクラブ』という会社を作っていた。

その為、俺が設立した会社としては二社目だったのだ。


独立前の俺は、不動産業界の中では営業力主体の『投資売り』という、ワンルームマンションの販売をしていた。


このワンルームマンション販売の『投資売り』という世界も一種独特な世界で、当時はかなりグレーな部分が多い世界だった。


俺は、本音では、ワンルームマンションの世界から普通の住宅の販売に脱却したいと考えていたのだ。

しかし、独立直後は、仕入れ資金が無かったことから、当面はそれまでのワンルームマンションの販売を行って行くことにしていたのだった。


そして、その年の11月、俺はひょんなことからC生命保険の孫会社に当たるTP社(金融会社)の部長を紹介されたのだった。


このTP社は、後に多重債務問題で大問題になった大手消費者金融に一千億円単位で融資している会社だった。

社員数は10人にも満たなかったが、社長はC生命保険の元重役で、融資総額は数千億円という規模だった。

○富士、○ロミス、○イチなどオーナー企業系の消費者金融を育てたのは、C生命保険と言っても過言では無かった。


TP社は、当時準大手だったC生命保険の影みたいな会社だったのだ。


俺は、紹介されたTP社の部長に気に入られ、独立後間もない俺に、仕入物件を担保に融資をしてくれることになったのだった。

融資は、設立したばかりの会社に対しては行えず、当初は俺個人に対する融資だった。


最初は、実績作りということで、12月上旬に俺は1,200万で仕入れた大田区大森の物件に対して1,700万の融資を依頼した。

物件の販売価格は2,000万の予定だった。

諸経費を差し引いて約400万のオーバーローンだった。


オーバーローンは、利益の先食いだ。

この物件は、年明けに販売する予定だった。

そして、俺はその400万を元手に代官山のワンルームマンション2戸を3,000万で仕入れたのだった。


この代官山のマンションは、仕入前に既に販売の申し込みを取り、仕入契約と同時に販売契約を結ぶことになっていたのだ。


その為、仕入時の契約は、契約価格の5%の手付金で、残金支払いを3ヶ月後に設定した、『中間省略』という販売方法を取ったのだった。


中間省略とは、まず手付金のみで契約し、残金決済を2~3ヶ月後に設定し、残金決済日までに転売し、仕入決済と転売決済を同時に行うやり方だった。


この代官山のマンションは、一戸当たりの仕入金額が1,500万に対し、一戸当たりの販売価格は2,700万に設定したのだった。


そして、この物件の債権者が住専問題で一躍脚光を浴びた、弁護士の『鬼の中坊公平』率いる、『整理回収機構』の物件だったのだ。


俺としては、単なる転売益だけでは無く、『整理回収機構』に食い込む大チャンスと捉えていたのだった。


平成6年12月16日、俺は代官山のワンルームマンションの売買契約を手付金150万、残金2,850万、残金決済3ヶ月以内で締結したのだった。

そして、俺は2戸とも直ぐに転売のための売買契約を締結し、住宅ローンの持ち込みを25日には終えていたのだった。


年明け後、ローンの審査が下り次第、1月中には決済の予定にしていたのだった。


その年の12月29日、俺はこの年最後の接待ゴルフだったのだが、ここで思わぬ事件が起きたのであった。


(つづく)

2020年1月18日 (土)

俺の道 ~阪神・淡路大震災編~ (1)

(1)不良債権の世界へ

2020年1月17日、AM4:56。

俺は突然目を覚ました。

予定より約1時間早い目覚めだった。


俺はそのまま起きることにした。

軽く洗面し、NIKKEI NETを開いて見た。


目に飛び込んで来たのは、『阪神大震災から25年』の文字だった。


阪神・淡路大震災が起きる約半年前の平成6年6月9日。

俺は代官山(渋谷区鉢山町)の3LDKのマンションを借りて創業したのだった。

当時の俺は29歳だった。


阪神・淡路大震災は、俺の人生の中で、大きな影響を与えた出来事の一つだった。


『阪神大震災から25年』の文字を見て、『俺の道 ~自立編Ⅰ~』は、まだ17歳までのことしか書いていないが、先に阪神・淡路大震災前後のことを書いてみたくなったのだ。


俺が借りた代官山のマンションは、代官山駅から徒歩4~5分、渋谷駅から徒歩10分程度の高級住宅地の中の三階建ての低層マンションだった。

築年数は20年以上経っていて古かったが、敷地内には全て平置きの駐車場もあり、立地や地型はとても良い物件だった。


また、一戸当たり72㎡ほどで、普通の分譲タイプのマンションより多少広めの3LDKだった。

洋室5畳、6畳、和室6畳、LD12畳、K3畳、バス、トイレ、洗面というものだった。

しかし、このマンションは普通のマンションとは少し違っていたのだ。


当時、世間で大問題になっていた『住専』、いわゆる『住宅金融専門会社』の大口融資先企業が一棟物として所有している物件だった。


全て同じ3LDKの間取の部屋が、一階6戸の三階建て、全18戸のマンションだった。

俺が入居する前は、ある大手銀行の社宅として一棟丸ごと賃貸されていたものだったのだ。


しかし、俺が入居する時は、賃借人は全て退去した後だった。

なぜなら、住専問題により、この物件は不良債権化していたのだ。

銀行は、この物件を競売に掛けるために退去していたのだった。


当時俺が懇意にしていたO社長が、物件を所有している不動産会社の社長と昵懇だったために、競売になったら退室することを条件に、好きな部屋を格安で使わせてくれたのだった。


競売までには、まだ約2年の猶予があったのだった。


俺が入居する時は、O社長の社員が一室を使っているだけで、俺は残りの17部屋を全て見せて貰い、その中で比較的綺麗だった1階の一室を借りたのだった。


借りる時は、リフォームはせずにそのままだった。

その代わり、退室の際も現状回復の必要は無く、敷金礼金も無く、ただ毎月の家賃だけで良かったのだ。


そして、このことをきっかけに、俺は不動産業界の中でも特殊な、『不良債権物件』の世界に興味を持ち始め、数年後には不良債権物件のスペシャリストとなって行くのであった。


(つづく)